*27* 奪還成功、されど迷宮。

 柔らかく髪を撫でながら誰かが僕に向かって何か言っている。過去なのか、現在なのかもあやふやな時間の中。


『うん、もう顔色もだいぶ良くなったし……大丈夫かな?』


 近くて遠い場所から幼い声が『うん』と答える。声音が定まらずに水に潜った時のような酷くくぐもった響きだ。……これでは性別が特定出来ない。


『でも駄目だろう、こんな草を食べちゃ。微弱だけど歴とした毒草だから、キミみたいなチビが食べたら危ないんだぞ?』


 “チビ”と呼ばれたことにムッとしたのか今度は返事がない。


『それにここは私有地なんだから勝手に入って来ちゃ駄目だ。今度ここで見かけたら自警団に突き出すからな。分かった?』


 嫌だ。そんな約束をしたりしたら飢え死にしてしまう。街ではまだ食べられそうなゴミのあるところは、もっと大きくて強い奴らが押さえているから。


『あー、そっか。キミって孤児なんだね』


 困ったような声と、無言の……孤児。


『――には大好きな人がいるんだ。その人がキミみたいな孤児を助けてあげたいっていつも言って……うん、言ってるんだ。だからチビ。キミは今日ここで食中毒で死にかけた割にとっても運が良いぞ』


 ああ……そうか。食中毒になりかけて運が良いわけがあるか、と。確かあの時の〈僕〉はそう思ったんだった。


『――が特別に薬草の知恵を授けてあげる。お腹が空いたらここにおいで。生きるのは大変だけど、もしもキミが使い物になりそうだったら特別なサプライズをあげるから』


 そう言うあの人の顔が見えない、名前が、一人称が、聞こえない。

 年齢は、性別は、ここはどこなのか――誰か、教えてくれ。

 あの時あの人と、とても、大切な約束をしたはずなんだ。


 髪からその指先が離れていこうとする。その感覚が失われることが怖くて、僕は縋るように手を――……。


 伸ばそうとした腕が伸ばされることはなく、手首を拘束する何かがギチリと食い込む痛みを感じて呻き声が零れる。朦朧とした意識の僕が目覚めたのは、身体が僅かに沈み込む柔らかい場所だった。頬の下でフワリと上質に受け止める肌触りから、思わず薬物の過剰摂取で死後の世界に来てしまったのかと焦る。


 恐る恐る上半身を起こせば、ここが雲の上ではなく、赤レンガ色の毛足の長い絨毯の上だと分かる。頭が少しクラクラする以外には特に身体的な不調は感じられない。依然として後ろ手に縛られてはいるが目隠しは取り除かれ、足に至っては何の拘束もされていなかった。


 動かせる部分は動かして身体の痛みも確認してみたが、拘束されている手首が擦れて痛む程度で済んでいる。室内を見回してみたところ家具の類は全くないが、身体が沈み込む絨毯の質からもどこかの客間のようだ。


 クリーム色の壁紙に簡素だが質素ではない照明。天井は五号店の工房内よりも一メートル弱ほど高い。


 出入口は黒光りする木製のドアが一つ。他に大きくはないものの、明かり取りの出窓が二つ。ザッと見ただけで外に出られそうなところはその三つに絞られる。


 少しくすんだ若草色のカーテンは開け放たれて外の明かりを取り込んでいるが、あまり光量が強くないので今はすでに夕暮れ時なのだろ 。さすがに窓は開いていないが、虜囚の身と言うにはだいぶ優遇されている気がしないでもない。


 これならばまだ工房に拾われる前の生活の方が、よほど虜囚らしかったくらいだろう。あの頃の僕は……何も持っていない、どこか壊れた子供だった。


 “ここではない世界”なんて知らない。暗くて細長い路地と汚水の流れる水路でドブネズミのように生きるのに何の畏れもなくて。そんな毎日を繰り返すだけの子供だったからか、工房に引き取られてからはそれまでの生き方が嘘のように極度に失敗を恐れた。


 “世界”の一端に触れて“この世界”の住人になれたから、失うことが怖くて路地にいた頃よりも臆病になったのだ。それにさっきまでの大切な部分以外は鮮明だった夢を引きずっているのか、まだ少し頭がぼんやりとしている。


 もしかして……今みた夢の中の人物が、僕を工房へと連れて来てくれた恩人だったのだろうか? そんなことを考えかけてふと今の自分の置かれた現状を思い出す。


 あれから何日ここにいたのか。夢のことはまた後日考えるとして、少し冷静に現状を分析すべきだ。


 そう思い意識を集中させようとした矢先、俄に部屋の外が騒がしくなる。最初は無視しようと意識の外に追い出しかけた騒ぎは、けれど。この部屋に一つしかないドアを乱暴に蹴破って姿を現した意外な人物の登場で幕を引く。


「……ヴェス、パーマン……?」


 自分で考えるよりも長時間ここに転がされていたのか、喉がかさついて声にもなりきらない木の葉が風に擦れるようなか細い音が口から零れる。しかしそんな僕よりも遥かに驚いたように目を見開いたヴェスパーマンは、つかつかと大股でこちらに近付いてきた。


 ――かと思うや、僕を拘束していた手首の縄を解いて「もう大丈夫だ」と見たこともない表情と声音で僕にそう言う。まるで、心配していたかのような……いや、本当に心配してくれていたのだろう。何故そう思うのかと今誰かに問われれば、彼のいつもは青白いばかりの顔に汗が光るのが見て取れたからだ。


「ここにいたぞ! 誰か救護班を呼べ!!」


 見知った顔の苦手な人間の腕に抱きかかえられたまま、せっかく目覚めた意識は早くも眠りの世界へと押し戻されていく。それに薄暗くなっていく視界の中で、コンラートが駆け込んでくる姿も見えた。


 さっきまでの静けさはすっかりなりを潜めて慌ただしくなる室内で、僕はこの場にパウラの姿がないことに安堵して、再び意識を暗闇の中に手離した。



***



 生温くなった額のタオルを冷水に浸して固く絞り、少し痩けた頬と首筋に浮かぶ汗を拭ってから額の上にソッと載せ直す。


 救出直後にヴェスパーマンに抱えられて廊下に運び出されたマスターの身柄を、すぐに工房の自室に連れ帰りたいと願い出たのだけれど……その場で即却下されてしまった。グルリと視線を巡らせるここは、工房のマスターの自室とは全く違う。


 真っ白な壁と天井の部屋の中に、簡素なパイプベッドがポツリと一つ置かれただけの殺風景な部屋だ。


 当初はいけ好かないあの男を恨めしく思ったものの、いざこうして熱にうなされているマスターを目の当たりにすれば、悔しいけれどあの判断が正しかったのだろうと思う。連れ去られてから一週間も行方不明だったマスターは、時折苦しげに呻いては何かを拒むように弱々しく首を横に振っている。


 私はそのたびに額からずり落ちそうになるタオルを押さえ、オロオロと見守ることしか出来ない自分の無力さを噛み締めた。一時間前まではこの殺風景な室内にコンラート達も同席してくれていたけれど、私が今夜は二人きりにしてほしいと無理を言って帰ってもらったのだ。


 もう何度目かのタオルの交換をしようと水を張ったボウルに指先を浸して、すでに水がマスターの体温を吸ったタオルでだいぶ温んでいることに気付く。


「……すぐに戻って参りますね。私のマスター……」


 指先で額に張り付く癖のある黒髪をすくい上げて、体温のない掌を火照った肌にあてがう。けれどすぐに火傷をしそうなその体温に掌を引っ込めた私は、そのまま水場へと向かう為にビョウシツを出た。


『……ありがとう、ヴィー。貴男のおかげで無事にあの子を彼女の元へ返してあげることが出来たわ』


 ビョウシツと同じくらい白くて殺風景な廊下に出て、水場のある曲がり角にさしかかった時にちょうどそんな会話が聞こえたので、何となく角から出られずに壁に背中を押し当てて立ち止まる。


 声の主はどうやらヴェスパーマンとシェルマンの二人のようだ。


「別にあの小僧がどうなろうが知ったことではない。ただ、あの小僧を今さら失っては【アイラト】と――貴女の、損失になる」


 その声音にあの男らしからぬ柔らかさが含まれていたような気がして、私はさらに背中を強く壁に押し当てた。そしてすぐさま感覚器官を最高レベルまで引き上げて二人の会話に意識を集中させる。


 これはマスターが元気になられた時に、あの男の弱味を収集しておいたら喜ばれるかと思っての行為なのだから、私は後ろめたいことなんてしていない……はず。



「あらあら、本当にヴィーは昔から素直ではないわね。まだそうやって人に上手に気持ちを伝えられないのかしら?」


「…………たい」


「はい、なぁに? 聞こえないわよ。もっと大きな声で言って頂戴な」


「もう貴女の店の見習いではないのだから……ヴィーと、呼ぶのは、そろそろ止めて頂きたい」


 柔らかく歌うような朗らかな彼女の声に、どこかふてくされたように掠れたあの男の声が答える。その声音に私の内側が同調するようにざわめく。あのいけ好かない男の弱味を見つけたと。


 そう思うのに……今後何があったとしても、この弱味を使ってはいけないという相反する思いがせめぎ合い、私は戸惑う。


 思い返せばあの日。一号店の店長に直談判に行くと息巻いていたコンラートは、彼なりの考えがあったのだとは信じたいけれど、やはり実質完全なる無策だったのだ。


『あ、でもさすがに全く何の準備もせずに行ったところで、話を聞かせる前に門前払いにされるのは目に見えてるからな。ちょっと時間を食うが、せっかくだ。確実な方法で会いに行こうぜ?』


 そして腹立たしくもそういう根回しの時間はしっかりと取るものだから、マスターが連れて行かれてからあっという間に三日が過ぎていた。本格的にコンラートをどうにかしてやろうかと物騒なことを考えながらも、私にはニンゲンのコミュニティーを渡り歩ける能力はないから彼に頼る他はない。


 焦りと怒りに肩を震わせていたところへ、遠方まで採取に出かけていたはずの彼女が合流してくれた。彼女が行きそうな採取旅行先へ、コンラートが宛てていた手紙の内の一通が届いたそうだ。


 私達三人は彼女にこの事件に本当に関わっていないのか、そうでなくとも黒幕の内の一人は絶対にヴェスパーマンだから呼び出せ、一号店の店長に会わせろと強く抗議した。


 すると全ての話を聞き終わった彼女は、私達の必死の説明を高原に吹くそよ風のように華麗に受け流して一つ頷くと――、


『ヴェスパーマン……いいえ、ヴィーは素直ではないけれど、貴方達が考えているような卑怯者ではないのよ? むしろそれとは正反対の青臭い子なの』


 そう言って、楽しそうな、困ったような微笑みを浮かべた。


 実際に彼女がすぐに二号店を訪ねてあの男に話を訊けば――その神経質そうな顔をひきつらせながら盛大に溜め息をついて、私達を店の奥にある談話室に通して人払いをするとさも嫌そうに話し出した。


 長くはない説明をさらに短くすれば“六華選”のメンバーは本来非公開だが、何と現在のメンバーに名を連ねていると言う。その自分が知らないのだからそれは騙りだと言い切ってからのあの男の行動には、一切の迷いも無駄もなかった。


 コンラートの出任せから転じる生半な策とは違い、あっという間に犯人像を洗い出して、現在傾きかけている工房の“六華選”メンバーと、足りない数を補う共犯者を探し出して一気にアジトまで乗り込んでしまったのだ。


 そして今回の事件に関与した“六華選”メンバー三人の工房が傾きかけている事実が発覚。さらにたった一人だけ姿を消した偽物がいたらしく、現在もまだ捜索中だという。


 一緒に犯行に及んでおきながら「どこの工房の奴かは知らないが、【アイラト】の一号店に連れてこいと言われた」と男達は口を揃えて証言した。内通者の線と怨恨の線が疑われることから、先日新しいメンバーにすげ替えた際、あの男は自らその座を辞して他工房の人間に譲った。


 逃げた犯人については、あの男とコンラートが引き続き動きがあれば報せてくれるという条件で、単独で探す線は絶たれてしまったのは悔しいけれど仕方がない。


 第一、不可解なのはあの男だ。あの男はマスターを憎んでいる。それは確かなのに……助けに行く際には私達を危険な場所かもしれないからと二号店に押し込めて、コンラートと二人だけで救助に向かってしまうし。


 ああ、駄目よ、こんな一回の手助けくらいで気を許したりしては。ニンゲンなんてマスター以外は猿と同じだもの。嫌いなニンゲンは嫌いなままで良い。


 そのはずなのに――。


 いつの間にか考え込んでしまっていたことに気付いた私は、慌てて二人の会話の続きに耳を澄ませたものの、残念ながらすでに会話は終了してしまったようだ。


 ならばせめて姿だけでもと角からソッと覗き込んだ廊下の先に、ぎこちなくエスコートするあの男と、少し嬉しそうに微笑む彼女の横顔があって。そんな二人の姿がさらに奥の角へと消えていく。


 私は内側に感じるモヤモヤとしたものを抱えたまま、新しい水を汲んでマスターの待つビョウシツに戻った。そしてまだ目を醒ます気配のないその寝顔に掌を滑らせ、内側からマスターを蝕む不安を拭おうとしてみる。


 気になるのは一人だけ姿を消した偽物と、未だすっきりしないこの気持ちだ。


 今回の一件はまだ何も終わっていないかもしれない。それとも、まだ始まってもいないのかもしれない。


 頭の天辺から爪先までを不安に満たした私は、こんなに気疲れしても眠気を持たない我が身を呪いながら、ひたすら夜が明けてマスターの目蓋が開くのを待ち焦がれた。

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