*22* 悪夢の香りは甘く誘う。(後編)
「嫌だな先輩。それだとまるでわたしが犯人のようではないですか。私はあの女が仕留め損ねた“元・上司”に留めを刺しに来ただけですよ?」
白々しくそう言う男は最近ではよく見知ったと感じていたのに、まるで今日初めて会った人物のように見えた。濡れ羽色の髪がランタンの明かりで白く浮き上がる輪郭を緩く隠し、暗い紫がかった瞳が獲物を見つけた狡猾な肉食獣を思わせる。
「あの女、とは……誰だ? 貴様の仲間か?」
侮蔑を込めたその言葉がお気に召さなかったのか、ほっそりとした中性的な雰囲気を纏ったブルーノは、小首を傾げてもう一度捻る風に僕の指を踏みつける。
さらなる痛みにまたも声を上げそうになるが、それはこの男をつけあがらせるだけだと感じた為に何とか堪えた。
「へぇ、我慢強いですね。でも我慢強い奴を見るとかえって痛めつけたくなるんですよ。私は――ねっ!」
今度こそゴキリと鈍い音を立てて残りの指が踏み潰された。
「ぐ―――っああぁぁぁああ!?」
瞬間、頭の中が痛みと熱で真っ赤に塗り潰されそうになるが、背後から悲鳴と共にしがみついてくる細い腕に引き留められる。
「はぁ、興醒めですね。もう良いや。始末する対象が一から三になったところで大差もないでしょう」
ブルーノの靴の下で歪な方向に折れ曲がった指が見える。まるで踏み潰された大きな蜘蛛の脚のようだ。それを見て痛みで込み上げた胃液が唇の端から零れる。背後からはパウラが抱え込むようにして僕にしがみついていた。ここで気を失えば彼女にまで被害が及ぶ。
僕にとってそれは何よりも恐ろしかった。無事な方の手でパウラの血で滑る手を強く掴む。もうこの現状を切り抜けるには一か八か……あの方法にかけるしかない。
音が濁って聞こえる耳許で僕を呼び続けていたパウラに視線を向ければ、それだけでこちらのやろうとしている意図を汲んだのか、彼女が無事な方の手を強く握り返してきた。
「ロミーは私が犯行に加わっているとは思っていないでしょうから見逃してあげますよ。だからあなた方は……安心してここで死んで下さい」
スッと優雅にブルーノの右腕が振り上げられるその手には、大振りの採取ナイフが握られていた。振り下ろす勢いをつけようと僅かに腕を振り上げた時、靴底が浮く。
――待っていたのは、今だ。
僕は一気に踏み潰されていた手に全身の意識を総動員させて命令を送る。勢いを付けて引き抜いた手は無残にひしゃげていたが、激痛でそれどころではない僕が意識を手離す最後に見たのは、思わぬ反撃に後ろに重心を崩してよろけるブルーノの姿だった。
***
「マスター……!」
意識を失ったマスターが私の腕の中に倒れ込んで来るのをしっかりと抱き留め、汗のびっしりと浮いた額を手で拭おうとするものの、自分の手を見てそれが叶わないことを知る。
コンラートから溢れ出した体液と、自分から溢れ出した樹液で汚れたこの手でマスターに触れてはかえって汚してしまう。けれど冷静に判断出来たのはそこまでで。マスターの右手が視界に入った瞬間、身体の奥から不快な熱が沸き上がった。
元来、マスター以外のニンゲンは私達に“痛み”という認識がないかのように振る舞う。傲慢で下等な生物らしい実に下らなく、思い上がった考えに虫酸が走る。しかし生きている以上そんな訳があるはずもなく、実際に私の掌は“痛み”という“信号”を全身に隈無く送り続けていた。
表皮、皮層、厚壁組織や木部を貫いて、最深部にある柔組織を傷付けたのだから無理もない。人体で言えば脊髄にまで及んだこの傷が痛まないなんてまずありえなかった。それこそ痛みはまるで水のように全身を駆け巡って私を苛む。
それと比べれば私の腕の中で気を失っているマスターや、後ろに倒れ込んで尻餅をついただけで痛みに苦悶の声を上げる目の前のニンゲンの、何と脆弱なことだろうか。そして同じニンゲンであるはずなのに、何故こうも私はこの腕の中にいるマスターを愛おしく感じるのだろう?
「脆いくせに、弱いくせに、意気地のないくせに――貴男は……」
抱きしめれば傷のせいで熱を持ち始めた肉体に私の肌が粟立つ。剥き出しの“根”である私にニンゲンの体温は高すぎる。だけど、どうか今から私が取る行動が彼等からこの熱を奪ってしまいませんようにとの祈りを胸に、私は目の前で無様に起き上がったニンゲンに視線を戻す。
地中の私達の身体を這い回るコガネムシや線虫の類よりもおぞましい。醜いニンゲンの中でも特に醜い個体を前にして、私の心は嫌悪感とその他もろもろの良く分からない状態に――つまるところ早く駆除してしまおうという思いで満ちていた。
ふとニンゲンはこの感覚を何と言うのか気になり、マスターが目を醒ましたら訊いてみようと心に留める。だって私は彼の思う“私”になりたい。植木鉢の中にいる時からずっと、そればかり考えていたのだから。
「うぅ……クソッ、ふざけやがって! どいつもこいつも俺の能力を認めないからっ、こんな面倒なことさせやがってあのアマ! 後であいつもぶち殺してやる!」
目の前のニンゲンは私の中で糞害虫以下に堕ちたとも知らずに、尚も喚き続ける。
「何だ、お前まだいたのか? ははっ、せっかく時間稼ぎをしたというのにその能無も浮かばれないな。腰でも抜かしたか女?」
採取ナイフを手にしただけで良い気になっている糞害虫は、私とマスターにその凶刃を突きつけたまま歪な表情で嗤っている。見るに堪えないその醜悪な表情に反吐が出そうになった。
「おいどうした、命乞いでもしてみろ。そうしたら考えも少しは変えてやらなくないぞ?」
どこまで頭に乗るのかこのまま見ていたい気もしたけれど、その前にマスター達が目を醒ましてしまっては一大事。そう思った私は言葉を考えてやるのも億劫だったものの、口を開く。
「うふふ……それがおまえの本性ですか。醜い性根が露わになれば、その少しは見られる面の皮も台無しですねぇ? この下等生物」
「なっ!?」
「あら、良いんですよ? もう何も仰らないで? おまえの言いそうな御託はもう結構」
「お、お前こそこの状況で何を考え違いをしている! 気でも狂ったか!?」
ナイフを手に入れて気が大きくなっているからか、ジリジリとその距離を詰めてくるのが煩わしくて。私はコンラートとマスターの血で塗れた手でそれを制した。
「あらあら、半分正解ですね。少しだけ見直して差し上げます」
「……女、貴様自分の立場が分かっているのか?」
不快そうに眉根を寄せるその顔が私の本来の力を増幅させていく。さっきまでとは違う、身体の芯から沸き上がる高ぶりに、私は唇を一舐めしてその顔に最後通告をした。
「ここで気が触れて死ぬのはおまえよ?」
身体を弓形にして、私は叫ぶ。この私の大切なものを奪おうとした愚か者を完膚なきまでに“壊す”為に。
ニンゲンが私達マンドラゴラを畏れる最大の理由。神経と肉体を内側から食い破る【マンドラゴラの絶命歌】が、目の前の愚か者を壊していく。全身から迸るこれ以上ない高揚感を胸に、私はうっとりと壊れていく愚か者に魅入ったのだ。
***
次に優しく僕を揺り起こすパウラの声を聞いた時、僕は彼女が“正しく”僕の意図を汲んでくれたのだと知った。体温のない手に握り込まれた右手は、もう踏み潰された形跡すら残さない姿に戻っている。
あの夜から二日も経っていたことには驚いたが、もっと驚いたのは僕に聞き取りをしにきたのが役人ではなく、二号店のクルト・ヴェスパーマンだったことだ。
もっと言えば、ヴェスパーマンは僕に“事件”のあった夜のことを聞き取りにきたのではなかった。彼は僕達が“事件のあった夜”の出来事を“教えにきた”のだ。こちらも好都合だったのでそれに“答える”ことにした。
筋書きとしては運悪く工房で物盗りと出くわしたコンラートが刺され、妹であるロミーが帰宅した際倒れている兄を発見。
取り乱して近所の同僚宅に助けを呼びに走り、駆けつけた同僚がまだ工房内に隠れていた犯人により負傷。なかなか戻らない同僚を心配して様子を見にきた同居人が通報したことにより事件が発覚。
犯人の姿を探したものの、未だ有力な情報は得られずにいる――らしい。
ちなみに僕達を襲ったブルーノはその場から
ちょうど事件のあった夜に奇声を上げた男が、複数の相手と揉めているところを見たと目撃情報があったそうだ。ゴロツキ同士の喧嘩から殺人に発展したのだろうということで、役人達も大して取り合わなかったと、ヴェスパーマンはわざとらしく締めくくり帰って行った。
パウラはブルーノをその場で殺さずに“壊す”ことを選び、結果的に“何者かに殺される”ように仕向けてくれたのだろう。そのことで傍らのパウラに礼を述べれば、彼女は「何のことでしょうか?」と微笑んでくれる。けれど優しい金色の瞳に僕もそれ以上は何も言わずに微笑み返した。
事件は【アイラト】という“工房内で起こった不祥事”としてではなく、あくまでも“物盗りによる犯行”として無理やり片を付けたようだ。
ロミーはこの間、事件に巻き込まれて入院中の兄に代わって四号店を切り盛りすることに大忙しであまり見舞いには訪れないが、今は忙しくしていた方が良いだろう。
それからパウラによってさらに二日ほどベッドに留め置かれた僕は、この街でも一番大きな病院の一室に呼び出された。僕と、コンラート。白い壁紙が目に痛いその部屋には、それ以外の登場人物はいなかった。
―― “コンラートの意識が戻った”――
何事もなかったように振る舞いながら五号店の仕事をこなす中でその一報が届いた時、僕は正直恐れていた。今までの関係性が崩れることを。
けれど蓋を開けてみればそれも杞憂に終わった。
『あの女が……ロミーの母親だ。 アイツが三週間前くらいに急にオレの前に現れやがった。今更何のようだと凄んだら、あの女、ロミーに会いたいだとかぬかしやがる。こりゃ何かマズいことになってんなと思って探りを入れてみりゃ――案の定だ』
病室の椅子に僕が腰掛けると、すぐにコンラートはそう話し始めた。その人物こそブルーノが言っていた“あの女”に間違いないだろうと感じた僕は、静かにその言葉に耳を傾けてやる。
『あのクソ女、エンダムを使った非合法な薬にハマっちまって、馬鹿みたいな借金を作りやがったんだ。そこまではまだ良い。でもな、あのクソ女はそれだけじゃ済まさなかった』
誰の相槌をも必要としないコンラートは、さらに言葉を続けた。
『オレがもうこれ以上払えねぇっつったら、あのクソ女……ロミーを娼館に売るとぬかしやがった!! “腹を痛めた自分の娘をどうしようが勝手だ”だとっ……何が、どの口で――』
コンラートの血を吐くようなその声に、逆に僕の心は冷めていった――というのは的確な表現ではないか。実際には明確な怒りが殺意に転化する瞬間だ。考えてみればこれまでの人生において、ここまで腹が立ったことはない。故に不謹慎だとは思うが、貴重な体験として胸の内にしまい込んだ。
『その現場を、裏の店で否正規のポーション売り捌いてたブルーノの野郎に見られて脅されてた。でも……そんなのはオマエに関係ねぇよ。ダチの大切にしてた物に手を出すなんて最低な野郎だ、オレは』
まだ腹の傷が痛むのか、天井を見つめたままのコンラートが言葉を詰まらせた。そんな姿に苦笑を漏らして「“その女”と話をつけてくるから居場所を教えてくれ」とコンラートに言ったのが三時間前のことだ。
いま僕の目の前にはロミーとは似ても似つかない、濁って虚ろな目をした女が怯えた表情でこちらを伺っている。
「受け取れ。超回復力のポーションだ。今の貴女――いいや、貴様の身体がそのポーションに耐えられるかどうかなんて知ったことじゃない。それを受け取ってこの街から失せろ。今なら役人に通報しないでいてやる」
胸の内は黒い物で澱んでいるものの、まだ染まりきってはいない。今の僕には周りにいてくれる人達がいる。
まだ――ブルーノのようにもこの女のようにもならない。
「僕はポーション職人だ。ポーションを造るしか取り柄のない人間だ。だから本当は貴様みたいな屑が、あの夜奪って逃げたエンダムの過剰摂取で死んだって構わない。そのポーションは売ればかなりの額になるはずだ。どうするかは――アンタの好きにするといい」
直接手渡すのが嫌で、地面に置いたポーション瓶に女がジリジリとにじりよる。ポーション瓶と僕を交互に見やっていた女はそれに飛びつき何度も頷く。
それ以上ロミーの“生みの親”の姿を見ていられなかった僕は、そのままそこで女と別れた。その後、街で女が死んだという話を耳にしないことから、あの女は約束通り街を出たのだろう。
僕が唯一法を侵してまで調合したあのポーションが、その後どんな闇のルートを辿ったのかは、誰も知らない。
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