*21* 悪夢の香りは甘く誘う。(中編)
八月の中頃を過ぎた夜の闇は独特のヌメるような生臭い不快感がある。身体に纏わりつくそれを感じながらも、肌は寒さを感じた時の如く粟立つ。普段なら絶対にしない全力疾走をする耳に、風が唸りを上げている音が聞こえる。足が地面に付くたびに、心臓が大きく跳ね上がった。
五号店からそんなに離れてはいないはずの四号店が、今夜はやけに遠く感じる。走りながらふと頭の中で“あの出血量であればもう”とどこか冷静な部分が囁く。そこで初めて自分が回復系のポーションを一つも持たずに飛び出して来たことに気付いた。
唇から漏れる呼吸に合わせて盛大な舌打ちをするが、もう引き返している暇もない。今の四号店にはロミーに教えた初歩の回復系ポーションしかないのだが、あれで何とかするしか方法はないだろう。
けれど再び不吉な予想が八月の闇に乗じて纏わりついてきて、僕は風の音に紛れて消えろと念じながら薄汚い裏通りを必死に駆けた。噴き出す汗が目に入り込んで視界が滲み、その痛みに堪えながら暗がりに目を凝らせば、最近では第二の工房と言って良いほど頻繁にくぐった四号店の裏口が飛び込む。
上がりすぎた速度を無理やり減速させると、勢いが付きすぎてドアの前で数歩たたらを踏んでしまう。
工房の窓からは明かりの類は一切漏れておらず、室内もこの外の闇と大差がないことが伺える。物取りの犯行だとしたら室内にいた場合、鉢合わせになることもあるだろう。しかしここまで来てしまえば今さら恐れは感じない。
ただ中で倒れているであろうコンラートの生死だけが気がかりだった。緊張に震える手でノブを握り、音を立てないように細心の注意を払ってドアを押し開ける。
「何だ……このキツいエンダムの香りは……?」
工房内は鼻孔をくすぐるどころか、突き刺すように濃いエンダムの香りに満ちていた。すぐさま口許を服の裾で覆う。夏の昼間の熱が籠もる工房内はそれこそエンダムの群生地かと思う程の香気だ。
その中に微かに含まれるリンと蝋の匂いを頼りに明かりを探すが、周囲に満ちる香りが邪魔で早々に諦めた。僅かな香りでも長時間嗅げば、酒に酔ったような酩酊感を味わうこの花の香りは過ぎれば毒になる。だからこそ今でも、使用する際は厳重な身分証明の管理が義務づけられているのだ。
ポーションの調合に使用する際は必ず二人一組で作業をし、換気を徹底した上で、出来ることなら扱う季節は冬とまで指定されている。
だからこそ真夏に閉め切った室内で一人で作業するなどありえない。あのコンラートがそんな初歩的なミスを侵すなどとは到底思えなかった。
それに妙なことはもう一つ。床に何も落ちていない。これは物取りが入って、あまつさえ住人と遭遇して揉み合った後にしては不自然だ。しゃがみ込む前に手をついた作業机の上も、いつも作業をする時のように綺麗に片付けられていた。
ただし……その時に指先に触れた数滴の水。それはヌルリと厚ぼったい手触りをしており、僕の指先に吸い込まれることなく机と僕の肌を縫い止めようとした。
この濃厚な香りとさっきのあの手触りならば恐らく香油に精製したはずだ。故意に作り出された毒の花園の香りにむせながら、明かりのない工房内を手探りで進めば――カタンと。すぐ近くからした小さな物音に全身の筋肉が硬直する。蒸し暑い工房内の空気が一瞬で冷え込んだ気すらした。
「……ロミー、か……?」
けれどその物音が誰の手によって立てられたかに気付いた僕は、慌てて暗闇の中を這うように近付く。けれど手探りに這っていた床は途中で嫌なヌメリを帯びる。指先と膝に鉄の匂いを帯びた液体が染み込み、暗がりの中ですでに温もりを失った液体の出所を探すこと数分――堅い物に指先が触れた。
「――コンラート?」
訝しんで名前を呼べば、指先に当たっていたそれがピクリと動いた。
その反応を“是”と受け取った僕はその輪郭をさらに指先で探り、それが靴底であることが分かった。痛いぐらいに脈打つ心臓を叱咤して掌を使って足首、ふくらはぎ、太腿と確認しながら上半身を目指す。
「――オマエ、何で、んなとこに、いやがる」
けれどそんな僕の手がたどり着いた箇所は……命が絶え間なく流れ出ていく穴だった。
「馬、鹿、野郎、も、ちょい優しく……触れ。痛ぇだろ、が」
切れ切れに掠れた声が、痛みに堪えながらもいつものように僕に毒吐く。するとあてがった掌の下の穴から新たな命がドクドクと溢れ出した。
「コンラート、喋るな。いま手当てを――!」
そう口にしながらも掌に感じる傷口の大きさと、僕の服に吸い上げられていく鉄臭い液体の量から冷静な部分が“もう無駄だ”と告げている。なのに僕の頭は目まぐるしく彼を助ける方法を模索するのを止めなかった。
「……も、良い。もう、無理だ。オマエも、分かって――」
ドク、ドク、とコンラートが譫言うわごとのように一言ずつ紡ぐ言葉が貴重な命を零していく。
「黙れコンラート。僕等はただのポーション職人だ。いつから医者の真似事をして見立てが出来るようになった? それにお前がここで死んだらうちで預かってるロミーをどうするんだ。あの子と話し合うことがあるんじゃないのか?」
意識を失いそうになっているコンラートを必死にこちら側に留めようと言葉を重ねる。とはいえ圧迫して止めるには血液を失い過ぎた。しかしそれでも傷口をそのままにする訳にはいかない。
「コンラート、今から君を背負い上げる。痛むだろうが少し我慢してくれ」
どう考えても絶対に動かして良いような状態ではない。けれどこのままここで安静にしていたりしたら確実に死ぬ。だったら、一か八かに賭ける方が余程有意義だ。とにかく明かりがないことには始まらない。僕がそう決意してコンラートの上半身を抱え起こそうとしていると――。
「マスター! コンラート! お二人ともここにおられますか!?」
そう勢い込んでドアを開け放った人物は真っ暗だった室内に小さな太陽を掲げた。その瞬間、心配そうな顔をしたパウラが暗闇の中に浮かび上がる。
「え、パウラ!?」
思わず上げた声に、パウラがこちらにランタンを翳す。手にしたのはただの古びたランタンなのに、まるで僕とコンラートを飲み込もうとする暗闇を祓う清廉な光のようだ。こちらの居場所を確認したパウラが、明かりを手に机と棚の間をすり抜けて駆け寄ってくる。
「マスターがご無事で良かった……。それでコンラートはどこです――か」
僕の前に膝を付いてランタンを翳したパウラの表情が凍りつく。植物である彼女からしてもこれだけの“水分”が身体から失われることがどういうことだか見当はつくらしい。
「パウラ、ランタンを貸してくれ。壁際の棚の二段目にロミーと作った凝血用のポーションがあるんだ。回復効果はしなくても、これ以上の出血は避けたい。同じ棚にごく効力の低い回復系ポーションもあるから……大丈夫だ」
目の前のパウラに言い聞かせるのではなく、主に自分とコンラートの為に吐く嘘だ。けれどパウラにはそんな人間のごまかしは一切なかった。
「いいえ、無理ですマスター。コンラートはこのままだとすぐに駄目になります」
彼女の声は今まで聞いたことのないような平坦で無機質なものだった。その言葉と声に一瞬耳を疑った僕だが、敢えてそれを無視してパウラの手からランタンを無理やり奪おうと手を伸ばす。
しかしパウラは何を考えているのか、その身をよじって僕の手からランタンを遠ざけた。
「パウラ、今はふざけている暇はないんだ。早くその明かりを寄越してくれ」
苛立ってその顔を睨みつけるも、常ならば安心させるように微笑んでくれるその顔はのっぺりと無表情だ。深緑色の長い睫毛が縁取る金色の瞳は、空に浮かぶ月のように冴え冴えと僕を映した。
「駄目です、マスター。もう少しだけ待って下さい」
「パウラ!!」
「静かに、静かに……コンラートの呼吸が穏やかになるまで待って下さい」
「な、にを……こんな時に何を言っているんだパウラ!? そんなことをしていたら手遅れになるだろう!?」
“まだコンラートをこんな風にした犯人が近くにいるかもしれない”。
この工房にパウラが現れた時には少しでも冷静な部分がそう告げていたのに、僕は初めて彼女の言葉に苛立って声を荒げた。
「もうすでに手遅れなんですよ、マスター。ただし……ここに私がいることをお忘れになりませんように」
そう言ってふっ、と。パウラの金色の瞳がランタンの明かりに優しく揺れる。ランタンを持たない手でコンラートの血にまみれた僕の右手を握った。
「パウラ……君は、何を考えているんだ?」
足許を命が流れていく。ランタンの明かりをテラテラと弾き返す。工房の甘ったるい香りまでが、この鉄錆を撒き散らしたような匂いが塗り潰していく。
「呼吸を落ち着けて下さいマスター。エンダムの香りは毒にも薬にもなりますが、今は毒ですよ。もっともコンラートにはちょうど良いかもしれませんが」
そんな残酷な発言をしたパウラがランタンをコンラートの方に向ける。足、腰部、腹の傷口を通り越して――うっすらと開いた唇をさらに上に。コンラートの目蓋は閉じきらず、ランタンの明かりに微かに光を返す。胸の隆起はもう目で捉えることは難しく、ともすれば止まっているようにも思えた。
「コンラート……」
その名を呼べばここに来て初めての恐怖にひゅ、と喉の奥が鳴る。ドンドンと胸の内側から外に出たがるように心臓が叩く。けれどそんな僕とコンラートを見たパウラは薄く微笑んでいた。
「さぁ、マスター。このランタンをお渡ししますから、私の手許とコンラートの傷口を照らして下さい。恐ろしければ傷口は見ないでも大丈夫ですから。後は全てこのパウラにお任せ下さい」
それは最初にコンラートの姿を見た時よりもむしろさっぱりとした物言いで。パウラは僕の手にランタンを押し付けると、自身はおもむろに服のポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。
その手にある物が気になった僕がランタンの明かりを翳すと、パウラは「あ、ちょうど良いですね。そのままで少しお待ち下さいね」と笑う。
彼女の手にはうちの工房にある採取用のナイフが握られていた。首を傾げる僕の目の前で、パウラは何の躊躇いもなくそれを自身の左掌に突き立てる。僕が唖然とする中、パウラは気にする様子もなく深々と十字に傷口を付けた。
一瞬の間を置いて正気に戻って「止めろパウラ! 何のつもりだ!?」と声を荒げるが……彼女は幼子をあやすように淡く微笑んだ。
「しぃー、駄目ですよマスター。せっかくコンラートが半死半生の状態なんです。大きな声を上げたりしたら覚醒してしまいますよ?」
驚きに目を見開く僕を苦笑混じりに宥めたパウラの掌から、とめどなく白い乳液状の樹液が流れ出す。彼女は傷口を付けていない方の掌でコンラートの傷口に触れると、その血液に満遍なく掌を浸した。
「これを、こうして――と」
パウラは両の掌を擦り合わせて血液と自身の樹液を練り混ぜる。状況が掴めずに馬鹿のようにそれを見つめる僕に向かってパウラが説明してくれる。
「私が今から試そうとしている処置はかなり乱暴なんです。ですから、意識のある内にやってしまうと痛みで暴れるかもしれませんし、気をやってしまうかもしれない……」
ネチャ、ニチャ、と練り混ぜられた樹液と血液は濃いピンク色へとその色を変えていく。
「お優しいマスターには酷でしたが、コンラートには意識を失ってもらう必要性があったんです。――ごめんなさい、マスター」
練り混ぜられてトロリとした柔らかめの軟膏のようになったそれを、傷口に塗り付けるというよりは、パテでひび割れた箇所を埋めるように盛ってはならしていく。
―――すると、すぐに傷口に変化が起こった。
軟膏のように見えていた“それ”は周りの裂けた肉と一体化し始めたのだ。
目を疑うその光景にランタンの明かりを近付けると、筋肉の裂けた部分、破れた血管、傷付いた内臓の一部すら巻き込んで、見る見る内にさも最初から身体の一部であったかのように再生していく。
代わりに辺りにはタンパク質が燃える時のような嫌な匂いが立ち込めるが、そんなことは全く気にならなかった。最終的に肌に少し火傷跡のような色味と引きつれを残すだけになり、傷口は塞がってしまう。
そうして呼吸すら忘れて一部始終を見つめていた僕に、パウラが横から控えめに声をかけてきた。
「マスターは今の施術を見ても……私が恐ろしくはありませんか?」
そこには今の今まで超然として神秘的ですらある表情を浮かべていたパウラの姿はなく、今にも泣き出しそうな気弱な彼女がいた。それが何だかとても久しぶりに見た本当のパウラのようで。
「馬鹿、そんなことがあるはずないだろう? パウラのお陰でコンラートは助かる。ロミーも泣かないで済む。それに……僕もとても嬉しい。本当に、本当にありがとう、パウラ」
ランタンを床に置いて彼女の身体を抱き締める。腕の中のパウラは、僅かに震えていた。苦笑しつつその背中を撫でると、彼女がホッと息をつく。
「それじゃあ、コンラートをうちに運――」
「残念ですが、それは駄目ですよ“先輩”?」
急にすぐ近くからした声に、反射的にパウラを背に庇ってランタンに手を伸ばす。
――だが、直後に伸ばした手の指を堅いもので潰される。ペキリと何本かが折れる嫌な音が痛みと共に脳に駆け上がり、耐えきれずに悲鳴を上げてしまった。背後に庇ったパウラが息を飲む気配がする。
指を砕いたそれが靴底であると知ったのは、皮肉にも僕に代わってランタンを掲げた人物のお陰だった。
「ブルーノ……やはり、貴様だったのか」
痛みを堪えて絞り出した声の先に酷薄な笑みを浮かべて立っていたのは――今回この平穏な生活に不穏な香りを持ち込んだ張本人であり、同じ工房から出た恥曝しの姿だった。
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