*19* 愚者の行進、隠者の後退。
一号店の裏口まで何とか一人で大量の紙の束が入った紙袋を運び負える時には、夏の日差しに完敗して思わずその場に膝をつきそうになった。滴る汗が引くまで待とうかと裏口の階段に座り込む。石造りの階段はひんやりとしていて心地良い。
それにしても――ブルーノからしたあの香りがどうも気になる。先ほど店を出る前に感じた疑問を
――エンダム。
早春、多数の花を半円形状に咲かせる花で、一つ一つの花は小さな星形をしている。花弁は外面は紅紫色で、内面は白い……見た目には可憐な花だ。
一昔前までは麻酔に使用したり、大回復のさらに上の格である超回復のポーションに使用されていたが、あまりに使用後の副作用が激しい為に超回復ポーションの調合禁止と共に廃止とされた。要するにエンダムは恐ろしいまでの麻薬性を持った危険植物だ。
噂では現在でもひっそりと裏社会で、それこそ目が飛び出る程度では済まされない高値で取り引きされているという。
だから今では例え一級ポーション職人であったとしても、入手するには一級ポーション職人を三人以上輩出した工房の長達六人からなる“
この国の百年史で過去“六華考”が行われたのはたったの二度。しかもそのどちらもが“否”の判定を下されている。
足を崩して熟考していると後ろでドアの開く気配がして、店内から現れた見習いの一人に出くわしてしまう。またあの“チッ、こいつか”という顔をされるのかと思うと、今度こそ胃が痛む。僕はその十八歳くらいの見習いの青年に軽く会釈をして、紙袋が邪魔にならないように脇に寄せる。
いつもならここで“当然だな”という顔をして通り過ぎて行くはずの見習いだが、何故か今日に限って僕の隣で足を止めた。時折意味のないやっかみを投げつけてくる輩もいるから、その類だろうかと内心ウンザリとしていた僕の目の前で、見習いの青年は急に上位の職人に敬意を払う時に取る“
“天地の礼”とは両膝を付いて、自身の両肘を両の掌で包み込むように抱える形だ。
本来は完璧に太刀打ち出来ない相手に“手も足も出ない”姿勢を見せることで、敬意を払っていることを伝えるのだけれど……? 一瞬何が起こっているのか理解が追いつかない僕は、そこが階段の一番端だということも忘れて横を向く。当然そこには誰もおらず、階段の両側にある植栽を施した花壇があるだけだ。
「えぇと……何か、誰かと勘違いされているようだが?」
思わずといった風にそう口にすれば、相手は首を静かに横に振って再度深く頭を垂れた。哀しいことに嘲られるのには慣れているが、こんな風に正面から敬われるのは初めてだ。困惑している僕を前にした見習いの青年は、まだ礼を解かないものの顔を上げてこう言った。
「ディネルの村はわたしの母の故郷です。今回の一件で母が故郷を失わなかったのは貴方のお陰だ。それもあんな原因も分からぬ病の蔓延する土地に命を受けたとはいえ、患者が回復するまで滞在するなど並の職人では――」
そこで一度何か考え込むように口を噤んだ青年は、再び口を開く。
「いいえ、一流の職人でもそうそう出来ることではありません」
真剣な眼差しのままそう言ってくれる青年の賞賛の言葉が居心地悪くて、僕は思わず視線を逸らした。
「君の期待を裏切るようで悪いが、それは買い被り過ぎだ」
僕はそんな善人じゃない。ただ親しい人達に失望されたくないだけの、薄っぺらな人間だ。それをそんな大それた風に受け取られたことが居たたまれなくて、何とかそれだけ絞り出した。
「貴方がそう仰られても構いません。わたしにとっては、貴方が天地の礼を取るに相応しい職人であることに一変の迷いも、間違いもありませんから」
どうやら……要するに僕が受け取らずともこの青年にとっては大したことではないらしい。その思い切りと思い込みの激しさに何となく頑なだった僕も、つい笑ってしまった。
「そうか、だったらありがたく頂戴しておこうか。でも、もうその礼は解いてくれ。僕はあまり褒められ慣れてはいないから、そういう儀礼的なものは苦手なんだ」
正直にそう言うとようやく青年は「なるほど、そうでしたか」と苦笑しつつも礼を解いてくれた。しかしそれでもまだ尊敬の眼差しというものを痛いほど向けてくる青年に苦笑し、ふと店に入ればこんな風に接してくれる人間はまずいないだろうことに気付く。
もしやこれは情報を聞き出す千載一遇のチャンスというやつではないだろうか?
そんな小狡いことを思った僕は、彼にある疑問を訊いてみることにした。
「そう言えば話は変わるのだが、少し訊きたいことがあるんだ。構わないか?」
「はい。わたしで答えられることでしたら、何でも――と言いたい所なのですが今から遣いがありますので……あの、」
「大丈夫だ。手短に済ませるよ」
言いよどんだ青年の言葉を引き継いでそう答えると、彼はホッとしたように破顔した。彼が「では、どうぞ」と居住まいを正してくれたのを合図に僕は口を開く。
「この一号店の見習いでブルーノという男を知っているだろうか?」
その問に一瞬青年の表情が変わった。今まで穏やかな表情だった青年の眉間に嫌悪感が滲む深い皺が刻まれる。まさか自分以外でこんな表情をされる相手がいたのかと、そんな場合でもないのに少しだけ同情した。
けれど彼は僕のそんな感情の変化に気付いたのか、慌てて「貴方とあいつは違います」と声を尖らせる。その言葉に青年がまだ僕を買い被っていることが察せられたが、余計な時間を使いたくはないので曖昧に微笑んでおく。
「ブルーノの奴がまた何かやらかしましたか?」
「いや、まだ何も。というか、彼は今四号店にいるようだが……何か一号店にいられなくなるようなヘマでもしたのか? それとも禁止事項を破って何か持ち出したとか」
通常一号店の見習いは輩出されても三号店までだ。もしくは他工房に師として迎え入れられるか、同じ工房の人間のいない遠方に店を構えて独立する場合が多い。
だからそのいずれでもない場合は、他工房に出す訳にもいかない何かをやらかしてしまった時だけだ。しかし青年は僕の発言の内容――主に後者に驚いたのか、慌てて足りない言葉を継ぎ足す。
「いえ……ヘマというかその、嫌な物言いをするでしょう、あいつ。確かに腕は良いんですけどあの物言いがそこら中で敵を作るんで仕事にならなくて。今回の四号店への異動も本人の意思じゃなくて上からの……アレです」
“上からのアレ”に合わせて青年が片方の掌を上に向け、もう片方の手で拳を作って掌の上に“トン”と打ち付ける。その動作から、どうも懲らしめる的な圧力がかかったようだ。まぁ、確かにかなり問題のある性格だったし……コンラートに面倒を見させて矯正をはかったのだろう。ただ残念ながら今のところは効果が見られないが。
「それに確かに研究には恐ろしく力を入れる奴でしたけど、あいつが禁止事項を破ってポーションを作ったことはまだないですよ。あくまで“まだ”ですが」
僕が低く唸ったのを相槌と受け取ったのか、青年が「それでは、その、」と言いにくそうにしているので「呼び止めてすまなかった。ありがとう」と礼を述べて、その身柄を解放する。青年はホッとした様子で頭を下げて踵を返す。
階段を下りていくその背中を途中まで視線で追うが、すぐに頭の中はブルーノのことで埋められる。胸の中にあるわだかまりが未だ霧散しないことに僅かに不安が残るものの、あれだけ噴き出していた汗もだいぶ治まった。
これ以上ここで時間を過ごしても得るものはない。そう僕が諦めて紙袋を手に立ち上がると、階段の下から青年が手を振っているのが視界に入った。
「あの、貴方は褒められたことがないと言っておられましたが、今日でそれも終わりです。我等が【アイラト】の英雄殿!」
青年は人目も憚らずにそう叫ぶと、やや恥ずかしそうにはにかんで駆けていく。一人階段に残された僕は馬鹿みたいに呆然としたまま、そこでさらに数分立ち尽くした。
***
――何かこの三週間、僕に謎の追い風が吹いていた。
主に四号店のコンラートと急な配置換えをし、山のようにあった始末書の束を工房に提出に行って、あの青年に会って……他の見習い達までそうだと知ったときの何とも言えない居心地の悪さ。
期待された記憶のない身としては、人間の掌返しという行為を初めて目の当たりにして“これがそうか”という嫌な後味だけが残った。
一号店の店長代理から賞状と特別手当を賜り、ディネルの村で一緒になった各都市のポーション職人達からの賞賛の手紙を受け取り、オットー達から驚くような金額を書き込まれた小切手が僕宛に届いていたりと――。
とにかく目まぐるしく毎日が過ぎていく中で、けれど心配していたようなブルーノとの衝突は初日以外に起こらず、それが返って不気味だった。おまけに人間という生き物の性なのか、次第に当初ほどの警戒心を保てなくなってくる。
あのエンダムの香りもあの日以来ブルーノの衣服から漂ってくることもない。単にブルーノが嫌な性格の人間で、僕が根っからの小心者で考え過ぎなだけなのか判別に困っている内に、ここでの生活リズムに馴染んでしまっていた。
一つ難点を上げるとすればギルドからの依頼だ。こればかりは申し訳ないが、季節の関係でユパの実の採取が出来ないとあっては一度
それからはひたすらに任された四号店の業務をこなす日が続く。
とはいえ四号店の客層は単純と言えば身も蓋もないポーションを求めているので、以前コンラートに渡した調合比率をさらに微調整して精度を高めるだけなのだが、ロミーとブルーノの二人がかりで乳鉢を使って作業してくれるものだから速度は五号店の比ではなく、かなり快適な作業ペースと数をこなすことが出来る。
なので午前中には一日分どころか二日分は余裕で調合出来るため、二日に一度は五号店のコンラートとパウラに会えるのためにあまり不便を感じなかった。パウラも始めの頃は僕をいつ呼び戻すのかとコンラートに詰め寄っていたけれど、この頻繁な面会に慣れた頃には素直に従ってくれている。
パウラと二人で早くこの状況が解消すれば良いとは思いはしたものの、特に焦る気持ちもなかった。
僕はコンラートがいないので仕事が終わり、ブルーノが帰れば工房から居住区に場所を移動した後にロミーの勉強を見てやらねばならない。その前にある食事の時間も最初の頃はぎこちなかったが、最近ではなかなか馴染んできた。
優秀なロミーはコンラートの教育もあって飲み込みが早く、簡単な調合は全て暗記している。弱冠十五歳なことを考えれば将来は三号店で修行を積むのもありだろう。
今度コンラートに提案してみるかなどと、暢気にロミーの成長を喜んでいた訳だが、やはり因果の女神はそう易々と僕達に平穏な道など用意してはくれなかった。
最近では当たり前になりつつある面会日に、
「マスター……少しお耳に入れたいことがあります」
たまには二人だけで話がしたいと言い出した時から少し覚悟はしていたのだが、そう切り出してきた彼女の顔を覗き込むと、その金色の瞳が不安げに揺れている。
僕は細く息を吐いて――三週間前ここに来たばかりの時に感じたあの危険な香りが、ここへ来て僕達を飲み込もうと首をもたげて動き出したような気がした。
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