*9* 今更だが、かなりの重大事項だな……。
「それじゃ先生、またよろしくねぇ」
「はい。こちらこそまたよろしくお願いします」
ツケの支払いに訪れた馴染みの老婆を送り出そうと、狭い店内を横切ってドアを開ける。長年の神経痛を和らげるポーションを使い始めてから足取りが以前よりも改善されている様子に心の中でホッと息をつく。
ドアの傍までやってきた老婆は一度店内を振り返ると「最近このお店の棚にキレイな色味のものが増えて嬉しいわ」と目尻の皺を深めて微笑んだ。
半分開いたドアの外からは、のそりとした湿気を含むこの時季特有の空気が流れ込んでくる。生温くて重いこの空気はポーション用の植物を管理する上で非常に厄介だ。
しかし今は長くなり始めた昼の日差しが店内の瓶を照らし出し、鮮やかな光を店内の床板に反射させてユラユラと滲ませることに一役かっているので、例年のように毒吐けない自分がいる。
赤や黄、緑に紫……色とりどりの液体を封じた瓶が店に並べられるようになってから、まだたった二月半ほどだ。何となく老婆にかけられたその言葉に少し気恥ずかしいような、誇らしいようなむず痒い気分になる。
僕は再度老婆に別れの言葉を継げてから今日の営業を早々に切り上げる旨の札をドアに提げた。今日はこの後、発注を受けてから初めての商品を卸しに指定されたギルドに向かうことになっている。
昨夜パウラと二人で話し合った結果、これからはパウラも自由に外出が出来た方が良いだろうということになった。
そもそもが僕の身勝手な取り決めだった訳で彼女の人権……? まぁ、人権を侵害しているに等しい行為だったと反省したからだ。
そこでまず手始めに今日の納品に付き合ってもらうことにして、奥の工房で出かけるまで窓辺にいる同僚達の水やりや器具の片付けを頼んで、店を閉めるまでの時間を待ってもらっている。ほんの少しだけ空気が籠もらないように窓を開けてカーテンを閉めた僕は、工房に続くドアのノブに手をかけてそこにいるであろう彼女を呼ぶ為にドアを開けた。
「お待たせパウラ、出かける準備は――」
“出来ているか”と続けようとしていた僕の喉は、しかし突然目の当たりにしたその光景に引っ込んでしまった。
「あ、マスター。お仕事お疲れ様です! 私もちょうどみんなに水を配り終えたところなんですけど……って、あの、どうしました、マスター? 何だかお顔の色が……」
心配そうに窓辺からこちらに近付いてくる彼女に背を向けて、思わず再び店舗に戻る。後ろ手にドアを閉めれば、ドアの向こうから『ええ? どうしたんですかマスター?』と困惑したようなパウラのくぐもった声が響くものの、とてもではないが今このドアを開ける勇気はなかった。
だって―――当然だろう。
「あのな、パウラ……その、何故窓辺の皆に水をやっていただけの君がそんなに濡れているのか訊いても?」
じっとりと水を含んだワンピースがかなり際どく小麦色の肌に纏わりつく様は、場合によっては大変に目の毒になる。そして何故今まで気付いて当然だったはずの諸々に気付かなかったのか……!
『あぁ、すみません。みんなに霧吹きで水を配っていたら、私もちょっとだけ鉢植えでこんな風に大切に水を吹きかけてもらっていたなぁ……とか思い出してしまって、つい。それに今日はとても蒸し暑いですし――』
なるほど、人型になってしまったとはいえパウラの本質は歴としたマンドラゴラ。植物が水を欲するのは自然の理であり、自明の理でもある。しかしだ。
「それと……女性に対して非常に答え辛い質問であるとは承知しているのだけれど、当然その服の下には何か身につけている、よな?」
断じて従業員に対して性的発言をしたい変態ではないが、あまりにも不自然過ぎる。そして何よりも、限りなく思惑の正反対に受け取られそうな質問をしていることが分かっているだけに、辛い。
『“その下”とはこの羽織りの下ということですか? マスターが手渡して下さった物をそのまま着用したのですが、この羽織り物はこれだけで装備するものではないのですか?』
だよな……やっぱりそうだよなぁ……。
パウラが人型になったあの日、突然の出来事に気が動転した僕は彼女を置いて店舗兼、工房兼、居住区という建物の中を探し回って何故だか一着だけ発見したワンピースを着るように命じたのだが……。
僕は二ヶ月半もの間生活を共にしておきながら、あの服以外をパウラが着用しているところを目撃したことがない。これは即ち、彼女はあのワンピース以外に衣類の類を持っていないということになる。冗談だろう。人権云々以前に人として、育ての親としてとんでもない失態だ。
このまま外に出そうものなら、パウラが僕のせいで痴女になってしまう。それだけは何としても避けなければ。というか、納品に出かける前に気付いて本当に良かった!
背中のドア越しに『まさか私は何かとんでもない間違いをしてしまったのでしょうか?』と心細そうな声が聞こえてきて僕の良心に突き刺さる。
「いや、パウラが悪いんじゃないんだ。僕が何の説明しなかったのがいけない。全部僕の落ち度だから君が気にすることはない……けど、頼むから僕がこのドアを開けるまでに何か上から身につけて欲しい」
ほんの少しだけ間を置いて『分かりました……』と気落ちした声がドア越しに聞こえた。
「十数える間に何でも良いから羽織って。じゃあ数えるよ? せーの……」
僕がなるべくゆっくりと数を数える間に、ドアの向こうではパウラがゴソゴソとその辺にある布状のものを漁っている音がする。ついに十まで数え終わって「開けるよ?」とドア越しに訊ねれば『はい!』と緊張した声が返ってきた。それを耳にして今度こそ大丈夫だと確信した僕がドアを開けて目にしたものは――。
「パウラ……! そうだけど、そうじゃないっ……!」
ぴったりと小麦色の肌に張り付いたワンピースの上から、作業用のエプロンを着用したパウラの……むしろ先程よりも余程状況が悪化した扇情的な姿だった。
***
結局出かける直前になって起こったアクシデントによって駄目になってしまったワンピースに代わり、僕の地味な服に身を包んだパウラは「マスターとお揃いですね!」と嬉しそうにしている。
そう言われて気付いたが、同じデザインの物を着回している僕も彼女のことは言えないのかもしれない。男にしては小柄な方の僕の服でも彼女が着ると少々袖や裾が余る。
ちょうど良い長さになるように折り込んでやると、まるで歳の近い兄妹のようにも見える姿になった。さすがに下着を貸すのは躊躇われたものの、何も着けていないのも僕の心情的によろしくない。諦めて新しい下着をパウラに身につけるように言い渡して何とかその場をしのぐことにした。
これだとまるで僕がパウラに同じ格好をさせて喜ぶ独占欲の強い男みたいだと、我がことながら呆れる。しかし適度にゆとりのある服装になったので先ほどまでの視覚に訴える危険性は成りを潜めてくれた。
フリーマーケットは春先だったのと一応店員扱いだったので僕の上着とエプロンを着用させていたせいで今回の件に気付くのが……いや、言い訳だなどう考えても。
そもそもが人の尺度で羞恥心を測るのが誤りなのかもしれない。
考えてみれば一生を土の下で過ごす彼等や彼女等にとっては偶然根が人の姿に近いというだけの話で、それに羞恥心を感じろというのは僕のエゴ以外の何物でもないだろう。だいたい普段あれだけ密着してくるパウラが下に――いや、これ以上は考えるのをよそう。それに彼女は植物だ。
――彼女は、植物。
そう考えてふと急に不快な違和感を感じた。隣を【星明糖】の入った箱を抱えながら並んで歩くパウラを盗み見る。その生き生きとした表情も、金色の大きな瞳も、何も付けなくとも赤く染まる唇も……人間の女性と何ら変わりない。
いつの間にかかなり真剣に彼女を観察していたらしい僕に、パウラはどこか恥ずかしそうに「私のこの格好、おかしいですか?」と身をよじって自身の格好を見下ろしている。
「まさか、そうじゃない。良く似合っているけれど、やっぱり男の僕が着た感じと少し違うものだなと思って」
全くの嘘でもなかった言葉は自然と口をついて出たので、彼女が僕の言葉を訝しがることはなかった。照れ笑いをしながら満更でもなさそうな彼女を見ていると、胸の内に温かな物が広がる。
そんな姿を見せられたら、もっときちんと喜ばせたくなるというものだ。
「この納品が済んだら、受け取った報酬でパウラの服を買いに行こうか」
「いいえ、そんな無駄遣いはいけません。初めての報酬はマスターの為、もしくはお店の為に使うべきです! 新しい器具を揃えたり足りない材料を調達する方が先ですよ」
キリリとした表情でそう答えるパウラだが、僕はさっきから彼女の視線が街の通りを行き交う女性達の格好を気にしているのを知っている。
「そうか、だったら尚更必要だ。何と言っても君はうちの店の唯一の従業員だからな?」
少し意地の悪い笑みを浮かべてそう返せば、パウラは困ったような、喜びを抑え込もうとしているような、何だか情けない表情になってしまった。出来ればついでに下着の方も買い揃えてやりたいところだが……まさか僕が一緒に店に入るわけにもいかないよな。というよりも絶対に嫌だ。
その辺りは店員さんに任せようと心に誓い、ひとまずは二人で並んで指定されたギルドを目指すことにする。
箱の中でカチャカチャと【星明糖】を入れた小瓶やシャーレが歌うのを聴きながら、どんな服装が従業員として相応しいかや、パウラの髪と瞳の色に似合うだろうかなどという話に花を咲かせた。
そこでふと通り過ぎた路地の間にある店を眺めるともなく見ていた僕は、あることに思い至ってパウラに提案してみる。
「そうだパウラ。帰り際についでにブーツのところに寄ってみても構わないか? たまにはこちらから訪ねて驚かすのも悪くないだろう?」
初めての仕事らしい仕事を抱えた僕は柄にもなく浮かれていて、それに気が付いているパウラも快諾してくれた。ギルドの帰りに歩く寄り道ルートを頭の中で組み立てながら、僕とパウラは六月の半ばの蒸し暑い街の中を肩を並べて歩くのだった。
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