憂い贖罪のエフェメラル

尾樫 

憂い贖罪のエフェメラル

 日暮れ前の渓谷に風はなく、遠くから聞こえる鉄道の音が静かに木霊するだけで、川の流れも緩やかだった。時間の流れもゆっくりと進んでいるように感じる。きっと、あのころとは体感時間が変わってしまったのだろう。しかし、それほどまでに大人しい景色だというのに、心に何かを訴えてくるようで、ここは潔くこの自然の訴えを受け入れ、少しだけ黄昏ることにしよう。

 俺には、「ユリ」という幼馴染がいた。山に囲まれた小さな村で生まれた俺たちに同年代の友達は他におらず、何をするにもいつも一緒で、俺たちが恋に落ちるのは必然だった。そして、お互いの思いを確かめ合った後の楽しく、幸せな日々は、激流のごとく速く過ぎ去っていってしまうのだが、それでもこの時間は永遠に続いていくのだと思っていた。しかし、その時間が永遠に続くという考えは只の空想に過ぎなかったのだ。

 丁度二十歳を迎えたころ、俺はユリと結婚し村の猟師として一生懸命に働いていた。猟師の仕事は決して楽ではない。人は自然に対してとても非力で、時には大熊に襲われたり、突然の荒天に見舞われたりと命がけの仕事だ。村の教えでは、「万物の命を無駄にせしもの、山の民に非ず。自然の命を頂戴致す者、己の命を懸けんとす」と言われている。猟師たちは、この教えを胸に、命を懸け、誇りをもって、狩りを行っている。俺もその例外ではない。命を懸けることは簡単ではないが、家で待つ妻の顔を想像すると、いくらでも頑張ることができた。

 ある日のこと、俺は山のヌシと言わんばかりの巨大なイノシシを捕らえ猟師仲間と共に狩りの帰路についていた。この大物を見て喜ぶユリの姿を想像するとたまらず笑みがこぼれてしまいそうになる。そんなはやる気持ちを抑え、村に向かっていると、村の方から、血相を変えて全速力で向かってくる男がいた。大工のカンさんだ。そして、こちらに向かって大声を上げた。

 「おい!ユリが倒れたぞ!」

あまりにも突然のことで俺は反応できずにポカンとしていた。その間にカンさんは俺たちに追いつき、息を切らしながら声を出そうとして咽ていた。すると、猟師仲間の一人がカンさんの背中をさすりながら口を開いた。

「落ち着け。今なんて言った?」

カンさんは少し息を整えると俺に向かって少し焦り気味に話しだした。

「ユリが倒れたんだよ!お前、ボケっとしてんじゃねぇ!このイノシシは俺たちに任せて、急いで行ってやれ!」

俺は状況を飲み込めずにいたが、カンさんに背中を叩かれ、全速力で村へと戻った。


 村に着くと、俺の家に人だかりができていて、人をかき分け家の中に入ると、ユリが苦しそうに強く咳き込んでいた。吐血もしていた。誰が見てもただ事じゃないことは一目瞭然だ。

「ユリ・・・。」

そんな光景を目の当たりにして俺は言葉を失い、その場に立ちすくんでしまった。思わず最悪な状況を想像してしまう。涙がこみ上がってきてしまう。それでもグッと堪え、目にかかった涙を拭い平常心を取り戻そうとした。すると視界の隅に、泣いているお義母さんと、お医者さんの姿が入ってきた。

「ユリは良くなりますよね?昨日まで元気だったんです。今朝だって、笑顔で送り出してくれて・・・。」

お医者さんは口を開こうとしない。すると、

「ユリは、労咳なの。不治の病で、もう長くは・・。」

お義母さんが鼻を啜りながら、震えた声で俺に教えてくれた。そして、そのまま泣き崩れてしまった。

 その日を境に、俺は猟師の仕事を投げ出し労咳に聞く薬草を捕りに山に出かけたり、漢方薬を求めて別の村を回っていた。お寺に出向き神頼みもして回った。それでも、ユリが良くなることはなかった。家に帰るたびに、痩せ細っていくユリを見るのが辛かった。俺自身の心と体も疲れ果て、何もかもが辛かった。それでも、ユリを失うよりは僅かな希望を追いかけている方が何倍も楽だった。でも、その苦しかった日々も長くは続かない。無情にも、あの日が訪れた。

 いつも通り俺が家に帰ると、ユリが俺の方に手を差し出してきた。この日のユリは少しだけ楽そうに見えた。

「ごめんね。」

ユリの消えてなくなりそうなその声を聴いたとたんに、今まで堪えていた物が全部溢れ出してきてしまった。俺はその手を優しく握ってやることしかできなかった。

 「どうして、謝るんだよ・・・。大丈夫だから。俺が何とかするから。元気になったら、一緒に美味しいものを食べよう!おっきなイノシシを捕ってくるから!ユリの好きな山菜だってたくさん・・・。」

ユリは俺の顔を見て、小さく微笑むと、そのまま眠ってしまった。



「ガサガサッ」

物陰から、何かが動く音がした。その音にハッとした俺は、夕日を背に月に向かって、両翼を羽ばたかせ、渓谷に飛び立った。もう間もなく夜が訪れようとしている。

 


 ユリを失ったあとの世界は俺の生きていける世界ではなかった。ユリを失って間もなく、俺は村の教えに背き、この渓谷で身投げをして、自らの命を絶ってしまった。「万物の命」とは、自らの命も含まれている。その命を自分の手で捨ててしまったのだから、天罰が下ったのだろう。死んだはずだったが、気づくと俺は、メダカに生まれ変わっていた。

 水は濁っていて、周りには見たことのない生き物や水草だらけだ。そして、ただ一つ言えることは、こんなに汚れた場所は故郷の山にはない。これは村の教えに背いてしまった俺に対する贖罪の輪廻なのだと悟った。メダカとして生きるのも悪くないとも思ったが、その矢先、俺は大きな魚に一口で丸飲みにされ、あっけなく命を落としてしまう。

 そして次は、ジメっとしたとても暑い場所で、初めて見る植物に囲まれていた。今度は動くことができない。おそらく自分もこの周りの植物になってしまったのだろう。とても退屈で唯一の楽しみは自分の根っ子に栄養をためて太くすることだった。しかし、この植物としての命も突然潰えてしまう。人間が放った炎によって燃えて塵になってしまった。

 その後も、何度も転生しては死んで、転生しては死んでを繰り返した。あるときは地を這う奇妙なゲジ、ある時は砂漠のサソリ、ある時は人間のペットのネズミと、多くの命を経験した。その中で、様々な知識を得た。俺が人として生きていたのはもう大昔のことなのかもしれない。こうして終わらない輪廻転生を繰り返していくうちに、俺は与えられた命を全うすることに抵抗がなくなっていた。だがその矢先、俺はこの大きな翼を得ることとなる。

 俺は二十一回目の転生にして鳶に生まれ変わっていた。はじめは鳶として生活し、メスとの間に子供も生まれた。しかし、今回の転生場所は、人間としての故郷にあまりにも似た場所で、ユリと生きたあの日の記憶が甦ってきてしまった。そして、子供たちの巣立ちを見届けたあと、俺はあの村へ帰ることを決意し大空へと旅に出たのだ。

 そして今に至る。旅の途中、多くの景色を見た、そこら中を自動車がはしり、空は飛行機が飛んでいる。俺が人として生きた時代とは全く別の世界だった。でも、ここはあまり変わっていない。懐かしい風景に心を躍らせながら翼を羽ばたかせる。実は、村の教えには続きがある。

「万物の命を無駄にせしもの、山の民に非ず。自然の命を頂戴致す者、己の命を懸けんとす。“掟に背きし者、神罰が下れり。山に命を返還せし時、その命は浄土へ導かれるだろう。”」

俺の命も山に還される時が来たのかもしれない。この渓谷を越えて、次の尾根の向こう側に故郷がある。でも、今日はここらで休むとしよう。長い間、過去を思い出し黄昏てしまっていたため、すっかり夜になってしまっていた。俺は、適当な木にとまり、目を閉じた。


「バァァァン!」

突然鳴り響いた大きな音で、俺は目を覚ました。あたりはまだ薄暗く、日の出の直前の様だ。

「バァァァン!」

また大きな音が鳴る。近くに密猟者がいるようだ。身の危険を感じ、咄嗟に羽ばたいた。しかし、それが仇となる。また、銃声が鳴った刹那、俺の右足が吹き飛び、右翼に風穴が空いていた。今まで何度も死んできた経験から、この傷が致命傷になることは明白だった。なんて様だ。元猟師が故郷で猟師に殺されるなんて・・・。今なら言える。生死に無頓着になっていた自分が情けない。今回ばかりは、生に執着しようとしている。そして、制御機能を失いながらも必死に高度を上げ、血をまき散らしながら尾根へと向かい、満身創痍となりながらも頂上へとたどり着いた。しかし、そこに懐かしい故郷の姿は見当たらなかった。

 「ピーヒョロロロ!」

俺は飛ぶ力を失い、村があった場所を目掛けて墜落していく。そして、大木の枝にぶつかり、地面へ叩きつけられた。どうやら、鳶としての命はここで終わるのだろう。死を悟ったその瞬間、朝日が昇り、一本の木漏れ日が差し込んできた。その木漏れ日が照らす先を見て、俺は無意識に笑みを浮かべてしまった。どうやら、お迎えが来たらしい。

 “木漏れ日の照らす先に一輪の百合の花が咲いていた。”

日が徐々に高くなり、また一本、また一本と木漏れ日が差し込んでくる。俺の身体も日に照らされた。冷たくなった体が日に当たり、僅かながら心地良さを感じた。

そして何よりも、“ユリ”のそばで眠りに就けることが幸せでしかたがないのだ。

「ここに居たんだね、ユリ。」

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