第8話 明月院

それからの僕の生活は、まさに先生中心と言っても良かった。


一緒にお弁当を食べる火曜日と金曜日以外は、図書室のカウンター席から保健室を眺めた。

もちろん、先生にそのことは内緒にしている。

自分でもどうかと思う行動なのだから、話したら絶対引かれる。


生活習慣もすっかり変わってしまった。

あんなにずぼらで出不精だった自分からは考えられないような変化だ。


何しろ学校へ行くのが楽しみなので、朝はアラームが鳴るより早く目が覚めてしまう。

先生と外を歩くことを考えて、服装や髪形にも気を使うようになった。

土曜日は横浜に買い物に行ったり、床屋ではなく美容院に行ったり、ファッション雑誌を買ってみたり。


そういう変化は、制服とジャージしか着ない高校生活でもわかってしまうものらしく、すぐに昂太に気付かれた。



「碧樹、最近おしゃれになったって?」


「へ?なに、疑問形?」


「いや、噂になってる。特に女子の」


「ふーん。変わってないけど?」


「んなわけねーよ、俺だってわかるわ」


「そう?普通じゃね?」


「茶髪にワックスにコロンが普通?あの碧樹がねぇ。やっぱりまどかちゃんか」


「髪は地毛だって。え?!今なんつった??」


「あの碧樹が…」


「ちがうっ!そのあと。名前言ったろ」


ガタンッ!と大きな音がしたことで、自分が椅子を蹴るように立ち上がったことがわかった。

昂太が驚いて、文字通り引いている。


「あ、わり」


「まどかちゃんか?みんな呼んでるよ」


「み、みんなって?」


「サッカー部のやつらとか?運動部の女子も、みんな」


「そ…」


僕は熱くなった気持ちが急激に冷えて、すとん、と椅子に座った。

まじかよ。全然知らなかった。

運動部のやつらはしょっちゅう保健室に出入りしているから。

それは毎日見ていればわかる。わかるけど。



「碧樹」


「うるせー」


「何も言ってねー」


「でもなんか言いたいんだろ?」


「言いたい」


「言うな」


昂太の顔は見れなかった。

表情ですべてがばれることがわかっていたので、下を向いて左手で顔を隠した。


「わかった。じゃあ噂話だけでも聞いとかない?」


そこでやっと少し顔を上げた僕に、昂太は言った。


「毎日図書室に行ってる?」


「…毎日じゃ、ない」


「火・金以外?」


「!待てよ。なんでそんなことまで」


「だよな。そろそろやばいかもな」


「…やばいって?」


「お前の隣の席、図書委員だぞ」


隣の席。倉持飛鳥だ。

そう言えば何度か図書室で会っている。

しょっちゅう行くようになってから、本を借りて帰ることはしていないので、図書委員が常駐しているカウンターには行っていないし、知り合いとばったり会って話したこともない。倉持とは同じクラスだけど、顔を見ても会話をしたこともないはずだ。


「だから何?それがどういう噂になるの?」


「倉持は宮内と同中なんだよ。仲良くて、登下校も一緒にしてる」


「宮内。ハルの友達の…」


それでつながった。

あの球技大会の時、なんでクラスが違うのにハルが僕の怪我を知っていたのか。

あんなにすぐに保健室に駆け付けて来たのか。

うちのクラスの時間割を把握していたのも、全部。


「まさか隣の席にスパイがいたなんてな」


低い声で昂太が言った。


「びびった。俺の心の声かと思った」


そう言うと、昂太が笑った。


「別にハルに知られたっていいよ。俺がこまめに図書室で受験勉強してるって噂だろ」


「それ、なんの冗談?」


「それ以外ないじゃん」


「ところが、だ。お前が座っているカウンター席の正面は…」


「えーーーー」


女子って怖い。

心から思った。


「怖いだろ?」


昂太の言葉に何度も頷く。


「怖いし、めんどくせー。なんで放っておいてくれないんだろ」


「そうだよな」


「噂ってさ、別に誰にも迷惑かけてないし」


「今のところ、な」


「え?」


「このまま噂が広がったら、ちょっとまずいかもな」


「なんで」


「相手が先生だからさ。わかるだろ?」


「…別に高校の先生と生徒の恋愛なんてめずらしくもないと思うけど。よくあるだろ?高校の時の担任と結婚しましたー、とかさ。体育教師と女子生徒が体育倉庫の裏でいちゃついてるとかさ。めずらしくないんだよ、年も近いし、あるあるだよ」


ぶつぶつ言う僕に、昂太が言った。


「付き合ってるのか?」


思わず額に手を当てた。


「相変わらず直球だね。さすがサッカー部エースだよ、お前は」


どう言ってごまかそうかと思ったけど。

真っ直ぐ目を見て聞かれたら、答えない訳にいかないよな。

はぁ…と大きくため息をついてから言った。


「付き合って、ない。大体付き合ってたら図書室通いなんてするかよ」


「そっか。でも、それだけ他人の恋愛事情を調べるほどには真剣なんだろ?」


「う…それは…」


「他の奴が名前を呼んだだけで逆上するほどには…」


「うるせーよ」


かぶせ気味に黙らせたけど、もう何を言っても無駄だと思った。

そんで、ここからが本題なんだろ?僕は主導権をもぎ取ることにした。


「で?昂太はなんでそんなに詳しいの」


「え」


「誰に聞いたんだよ?俺の放課後事情なんて興味ねぇだろ?」


「いや、まぁね」


「ハルか」


「…杉山が碧樹の事、心配してる」


「心配?」


「俺たちだけの噂で済んでいるうちはいいけど、もっと広まっちゃうんじゃないかって。お前は自分が目立つ存在だってことに気付いた方がいい」


「まさか」


「ほんとだよ。おまえが週に二回、カウンセリングルームに通っていることも、知ってる奴は知ってるし」


「なんだよ、それ」


「俺は言ってないよ。杉山にも言ってない」


「あれは、正当な理由で、ちゃんと予約を取ってるんだぞ?

話してる内容は雑談だけどな」


「俺はわかるよ、でも事情を知らない奴はさ、好き勝手言うんだよ」


「ハルも知ってるの、それ」


「知ってる」


はぁ…

やましいことがあるとしたら、先生にお弁当を作ってもらっていること。

月に二回、校外で会っていることだ。

それは誰にも言っていないし、知られていないはずだ。

それなのに、カウンセリングルームに通っていることと、図書室に通っていること。

それだけでこんなに騒がれちゃうの?


「カウンセリングルームも図書室も、普通に学校の施設だろ?

誰でも利用できるよな?」


「間違いない」


「じゃあ、なんで?俺なんかした?」


昂太を見ると、憐みのような深い悲しみをたたえた目で僕を見ていた。


「碧樹、俺を殴って気が済むなら殴れ」


「ぶっ」


あまりにも真剣な顔で言うので、思わず噴き出した。


「やっと笑ったな。とりあえず、みんなお前のことが心配なんだ」


「わかってる。今更不登校にはならねーよ」


「会えなくなるもんな」


「だから、うるさい」


それで昂太との話は終わった。



今日は五月最後の月曜日だ。

週の初めから憂鬱な気分になってしまった。


確かに僕は浮かれていた。周りが見えなくなっていたのかもしれない。

だけど、上手くやっていると思っていた。

先生への気持ちも、行動も。ちゃんと隠せていると。

それが第三者から見ても、まるわかりだったなんて。


「付き合ってるの?」なんて、よく聞けるよな。

そんなこと、できるわけないじゃないか。


付き合うってことは、先生にとって僕が恋愛対象になるってことだ。

生徒の一人ではなく、男として見てもらうことだ。

どうしたらそんなことができるのか、知っているなら教えてほしい。

先生と出会って二か月あまりで、あらゆるサイトを調べてみたけど、僕が欲しい答えを見つけることは出来なかった。


完全に片思い。

僕が一番よくわかっている。だから放っておけよ。


「まどかちゃん、か」


衝撃だった。

先生を名前で呼ぶなんて、思いもしなかった。

みんなすげぇや。

僕だって呼んでみたい。

だけど、他の奴らと同じ呼び方なんて、したくない。


「まどか」


声に出してみると、それだけで胸がドキドキして苦しくなる。


今日は放課後図書室へ行かなかった。

一度も先生の顔を見れなかった。

なんでこんなことになっちゃったんだろう?


そんなことをぐちゃぐちゃ考えながら眠ったら、久しぶりに夢を見た。


大きな、波の音だ。


灰色の空と、どこまでも続く海。

巨大な波は灰色の砂を巻き上げては、そのしぶきを海面に叩きつける。

ぐねぐねと渦巻きながら、僕の頭のはるか上をうごめいている。

僕は海の中にいないのに、その波の巨大な影におびえている。


「あおきー!あおきー!」


あぁ、あの声は。

母さんの声だ。僕を探す母さんの声。

僕はここだよ。ここにいるよ。

必死で声を出そうとするのに、僕の喉がぎゅっと閉まって、息もできない。


波打ち際を、必死に走った。

だけど濡れた砂が僕の小さな足をつかんで、動けなくする。


そっちは行けないんだ。

僕は海に入っちゃいけないんだ。

ちゃんと約束を守ったのに。


声にならない声が聞こえる。

耳からも、僕の胸からも。


「たすけてっ たすけ…て」


そこで、目が覚めた。

僕の両手が、自分の喉を掴んでいた。

思わず咳こんで、反射的に体を起こした。

呼吸が苦しくて、全身に汗をかいていた。

おそるおそるまぶたに手をやると、両目から流れた涙は頬を伝い、まだ止まらずに流れている。


「あ!あ!あ!」


声を出して、少し安心した。

夢だ。夢なんだ。


「あ、あ。ハル。ハル…」


何故だか、ハルを呼んでいた。呼吸が落ち着くまで、ずっと。



最悪の夢見だった。

今日はせっかくの火曜日なのに…。


「メンタル弱すぎだろ…」


いつもより時間をかけて顔を洗い、涙の痕跡を削ぎ落とすと気持ちを切り替えようと頭を振った。


江ノ電は今日も混んでいる。

つり革につかまりながら左右と後ろからの圧迫に耐えていると、窓の外に意外なものを見てしまった。

学校の最寄駅から一つ手前の駅のホームで、隣の車両に乗り込んだうちの学校の女子生徒。

それは、ハルだった。


なんで、こんな駅から?


同じ電車に乗っているんだ。降りる駅も同じ。つかまえようと思えばできる。

今日こそ話をしてみようか。

そう思って電車を降りて姿を探していると、すぐ後ろから声がした。


「碧樹、おはよ」


振り向くと、笑顔のハルがいた。向こうから話しかけてきた。


「おはよ」


「元気だった?」


「うん」


「ちゃんと食べてる?」


「食べてるよ」


真っ先に言う言葉がそれか。やっぱりハルだな。

会えば今まで通りに会話ができる。だけどなんとなく微妙な距離を感じた。


「碧樹、もうすぐ誕生日だね」


「あ、そういえば」


「何か予定あるの?」


「あー、いや?今んとこないけど」


「ふーん」


何か誘われちゃうかな?って思った。

今までの誕生日はいつもハルが一緒だったわけで。

それこそ予定なんて聞かれたことすらなくて、一緒にいるのが当たり前だった。


それならそれで別にかまわなかった。

新規のカフェでも、こじゃれたレストランでも、カラオケでも。

今まで通り仲のいい幼なじみとしてお祝いしてもらおう。


本音は先生といたいけど、そんな夢を見るほど強い心臓を持ち合わせていない。

僕はハルの次の言葉を待った。


「碧樹、変わったね」


「は?どこが?」


「どこって言えないけど…見た目だけじゃなくて。雰囲気?」


「そうかな。自分じゃわかんないけど」


「そう」


あれ?誕生日の話はどうなった?

話題を変えたハルの気持ちを僕は測りかねていた。


校門までの坂道を歩きながら、ちらちらと周りの視線を感じた。


これか。

なんで見てんの?

また噂になんの?

カップル復活かって?


なんだか急にハルの顔が見れなくなった。

小さくこぼした僕のため息を、ハルは聞き逃さなかった。


「あ、じゃあ私、先に行くね!」


「え」


ハルは振り返らずに、学校まであと少しの距離を走って行ってしまった。

また…傷つけちゃったのかな。

聞こうと思って聞けなかったことが頭をよぎる。


なんで、あの駅から乗って来たの?




「六月の鎌倉と言えば、紫陽花よね」


火曜日のランチタイム。

いつものカウンセリングルームで、相沢先生とお弁当を食べながら次のデート(僕の希望的呼称)の話し合いをしている。



「今週末あたり、見頃みたいですよ」


「まってました!市原君のおすすめはどこ?」


「明月院ですねー。あれは拝観料を払ってでも見る価値があります」


「北鎌倉の紫陽花寺ね?一度行ってみたかったの。他には?」


「有名なのは長谷寺。海に向かった山沿いに一面に咲く紫陽花は圧巻ですよ」


「長谷寺ね~!上から見る由比ヶ浜は絶景だよね。でもこの前行ったしなぁ」


そう、前回の長谷の大仏の時に長谷寺も行ったのだ。

まだ紫陽花の見頃には早くて、このつぼみが全部咲いたらどんなに綺麗だろうって話をした。


「じゃあ、長谷寺は次の回にしますか?まだ紫陽花終わってないと思うし。梅雨に入っちゃうかもしれないけど、雨の日も風情があっていいですよ」


「風情って。しぶい言葉知ってるのね。確かに紫陽花は雨が似合うよね」


「おばあちゃん子なんでよく言われます。あ、あと近くに御霊神社っていうのがあって、そこもおすすめ」


「あ!知ってる。江ノ電の線路沿いにある神社でしょ?みんな写真撮ってる」


「そうそう、踏切もあって、撮影スポットになってますよね。ドラマでも使われたし」


「あの神社大好きで、用もないのに通り抜けるの。うち近所だから」


んん?なんか今重要な情報を頂きましたが。

本人気づいていないのでスルーしとこ。

時計を見ると、そろそろ昼休みが終わる時間だった。楽しい時間はすぐに終わってしまう。


「じゃあ、細かいことは金曜日に決めましょう。ごちそうさまでした!」


空になったお弁当箱を先生に返して、後ろ髪をひかれつつ、僕はカウンセリングルームを後にした。




次の金曜日、先生が作って来てくれたお弁当はカツサンドだった。


「えー、なんか新鮮!」


「ふふ、たまにはいいでしょ?」


小さな入れ物にマカロニサラダとプチトマト。高級そうなさくらんぼまである。


「なんか贅沢すぎて申し訳ないです」


「あー、さくらんぼ?頂き物なのよ。食べきれないから手伝ってね?」


「喜んで。いただきます!」


さっそくカツサンドを手に取ってほおばった。

千切りキャベツとソースのかかったカツがパンと一体化していて、とてもおいしかった。


「北鎌倉、何時集合にしようか」


「八時半から開くんですけど、早めに行って並びましょう」


「やっぱり並ぶのね。どのくらい?」


「三十分ぐらいかな。八時に北鎌倉の駅でどうですか?あ、朝ご飯食べて来ないでくださいね。近くに九時からやってるカフェがあるんで、そこでブランチしたいです」


「いいね!!どんなメニューがあるの?」


「ポトフとパンのセットと、丸いパンにクラムチャウダーが入っている…」


「それっ!それが食べたいっ」


僕がそのパンの大きさを説明しようと両手で丸を作ったところで、食い気味に先生が叫んだ。


「ははっ」


「あ、声大きかったね。恥ずかしぃー」


「好きですか?クラムチャウダー」


「うん。それもあるけど、パンに入ってるのって魅力的。食べにくそうだけど食べてみたいな」


「おいしいですよ」


「行ったことあるのね?」


もちろん行った。それも昨日の学校帰りに。

しばらく図書室通いを控えた方がいいかと思って、現地取材に切り替えたのだ。

駅から明月院までのコースや拝観料、撮影ポイントもリサーチ済み。

中には入らなかったけど、外から見える紫陽花は十分に色づき、もう見頃と言ってもいいくらいだと思った。


去年ハルと行った時には時間が遅くて行列が長過ぎ、おまけに雨が降ってきて途中で断念した。今度の日曜日の天気予報は晴れ。去年のリベンジだ。


「たくさん写真撮りたいから、ばっちり充電してきてくださいね」


スマホを振りながら言うと、先生は「もちろん!」と言って笑った。




六月の第一日曜日。


先生とのデート(希望的呼称)は基本、第二と第四日曜日だけど、間に中間テストが入ってずれたのだ。僕はテスト期間でもかまわなかったけど、先生に「さすがにダメ。勉強してください」と言われてしまった。


鎌倉駅から横須賀線で一駅。

北鎌倉駅の改札を出た所で先生に会った。同じ電車だったみたいだ。


「おはようございます」


「おはよう、今日はよろしくね」


今日の先生は水色の七分袖のブラウスに、白いフレアースカート。可愛らしい籠バッグを持っていた。

え?紫陽花の妖精さんですか?

どうしよう。本当に可愛い。


「あれ?今日色かぶったね!」


そう言われて自分を見ると、ブルー系のマドラスチェックの半袖シャツに、白のスキニーだった。うわー、これやばい。合わせて来たみたいだ。舞い上がるな、俺。


線路沿いに歩くと、けっこうな人波が出来ている。みんな同じ方向に歩いているので、目的地が同じだとわかる。


「すごいね、本当に並ぶんだね」


「朝いちだから仕方ないですね」


何もなければ閑静な住宅街だ。広くはない道路に自然に列が出来ていた。

外国人も多くいるし、自分たちぐらいの若者もけっこう目についた。

三十分ぐらい並ぶと列が進み、開門されたらしいと気付いた。

やがて人並みの先に目的の場所が見えてきた。


明月院…別名「紫陽花寺」


その名の通り、入り口から綺麗に咲いた紫陽花に出迎えられた。

薄い水色から濃い青、薄紫、紫と鮮やかに色を付けている。

それを引き立てる緑の葉もみずみずしく、朝の空気の中で息づいているようだ。


門から中に入ると左右に遊歩道があり、人波が二手に分かれる。

左手に大きな木の橋があり、そこへ行きたくて左側を選んだ。


前後左右、どこを見ても紫陽花の花。

人もたくさんいて混んでいるんだけど、みんなスマホやカメラで一心に写真を撮っているので、慌てて進まなくても良さそうだ。


「すごーい!綺麗だね!」


先生もスマホを片手に、笑顔で写真を撮っている。

紫陽花の花に囲まれて笑う先生は、着ているブラウスの色のせいもあってか、本当に背景によく似合っていて、僕は何枚か堂々と写真を撮ることができた。


「あとで送ります」


この一言で万事オッケーだ。


お互いに「これは」と思うのが撮れると見せ合って、すごい!綺麗!と褒め合っている。

なにこれ、すごく楽しいな。

広い庭園には東屋があったり、水辺があったりするが、いろんな場所に撮影スポットが仕掛けられていて、それを探すのも楽しかった。


先生のお気に入りは「花想い地蔵」。

綺麗な顔をしたお地蔵さんが、膝に山盛りの紫陽花の切花を抱えて座っている。

その姿が愛らしくて、何枚も写真を撮っていた。


他にも井戸端や手洗い場にさりげなく紫陽花の切花が活けられていて、その心遣いが嬉しくなる。


奥にはハナショウブの花畑が広がり、周囲は青々とした竹林、そして新緑の葉をつけたモミジが太陽の光を遮っていた。


「うわー、このモミジ!秋には紅葉して綺麗だろうね」


「はい。楽しみですね」


「うん、また来たいな」


そんな約束とも言えないようなちょっとした言葉が、僕の気持ちを揚げていることに先生は気づいているのだろうか。

また来たいな。先生と二人で。

そう思いながら僕は、紫陽花色の想い人を背景ごと切り取った。


僕たちは気が済むまで写真を撮ると、明月院を後にした。

時間にして一時間ちょっとぐらいだったけど、もっと長くいたような気がするほど満足度は十分だった。


元来た道を途中まで戻り、幹線道路まで出ると歩道を歩いた。

五分ほどでカフェに着くと、テラス席が空いていた。

天気も気温も申し分なく気持ちが良かったので、僕らはそこに座った。

先生は予定通りクラムチャウダーを、僕はポトフを注文した。


「これ、パンも美味しいね。思ったより大きいけどお腹空いてるから余裕だわ」


「食べるの好きですよね」


「うん。大好き。いっぱい歩いたからご褒美ね」


「まだまだ歩きますよ。鎌倉駅まで。途中行きたい所ありますか?」


「この道は歩いたことないなぁ。何かある?」


「建長寺ですね。寄っていきますか」


そうして二人で好きな本の話をしたりしてのんびり歩いた。

先生はジャンルこだわらず小説も読むけど、僕の得意分野にも詳しかった。


「意外と漫画読むんですね」


「そりゃあね、高校生に合わせないといけないから?」


「え?それだけ?」


「うそうそ。単なる趣味ね、しかも少女漫画より少年漫画の方が好きなの」


「マジですか。こんどお貸ししましょうか」


「ほんとに?市原君はどんなの読んでるの?」


こんなたわいもない話をしているうちに、建長寺に到着。

広い境内を歩いて、手入れの行き届いた庭や仏殿を見て回った。


ここまで来れば八幡宮はすぐそこだ。

今日は八幡様には寄らずに、小町通りへ出てお土産屋さんを冷やかしながら歩いた。

鎌倉駅が見えてきた時、先生が言った。


「今日は集合早かったから、まだお昼前だね。午後は予定あるの?」


「なんもないです」


「じゃあ、このまま江ノ電乗って長谷寺行っちゃおうか」


「えっいいんですか?」


「うん。なんかもう今日はとことん紫陽花の気分じゃない?」


もちろん僕に異存はない。

先生と一緒にいられる時間は長いほど嬉しいのだから。



 日曜日の江ノ電は、満員御礼と札を貼りたくなるような混雑ぶりだった。


むりやり乗り込んだドア付近で、体を張って先生をかばったけど、逆に自分が密着してしまいそうでドキドキしてしまった。必死に体を外に押し出していたら変な筋肉を使ったのか、あとで肩が痛かった。


長谷駅では大量の人が押し出されて、一斉に長谷寺へ向かう。

十分ほどで目的地に着いたけど、そこには「紫陽花散策路待ち時間七十分」と書かれた立て看板が立っていた。


「アトラクションか!」


「七十分て長い方?短い方?」


「うーん、日曜日だから短い方ですかね」


「わかった。整理券もらって時間つぶしてまた来ればいいのよね?」


僕らは境内で池の鯉を眺めたり、洞窟めぐりをしたりして時間をつぶした。


洞窟めぐりは意外と面白かった。洞窟の中にたくさんの仏像があって、それぞれお祈りすると効能が違うらしい。中は迷路のようになっていて、ひんやりとした空気が気持ち良かった。

先生は「大昔のアトラクションね」と言ったけど、確かに娯楽の少ない時代、こういうことが楽しみの一つだったのかもしれない。

七福神めぐりとか、御朱印集めとか、現代のスタンプラリーに通じる所がある。


一通り見て回ったけれど、まだまだ時間が余った。


「御霊神社まで行きますか」


「あ、いいね!行く行く」


長谷寺を一旦出て、御料神社まで歩くことにした。

ここも人気があるらしく、同じコースをたどる人がたくさん歩いている。


長谷寺に比べたら小さな境内だ。

でもこのこじんまりしとした神社は、なぜかとても居心地が良かった。


すぐ近くに江ノ電の線路が通っていて、鳥居を抜けると踏切がある。

線路沿いには紫陽花が咲いていて、走り抜ける江ノ電と紫陽花を一緒にカメラに収めようと、たくさんの人が集まっていた。


僕らも挑戦することにした。

警備員さんが常駐していて、一歩でも踏み出すと鋭く注意を受けるので、少しでも良いポジションから写真を撮りたい人たちとのギリギリの攻防が続いている。

電車は十分間隔ぐらいで来るので、撮影者の入れ替わりはスムーズだ。


撮影場所が空くと僕は先生に手前の場所を譲り、電車が来るのを待った。


「なんかドキドキするね」


先生は僕よりだいぶ低い位置でスマホを構えながら言った。

やがて緑の電車がトンネルを抜けて来るのが見えた。


「来た!!」


周囲の人が一斉に色めき立った。


僕はスマホの画面を見つめながら、右側から来る緑色の電車を連写した。

これだけ撮れば、一枚ぐらい良いカットがあるはずだ。

あっという間に通り過ぎた電車に拍手を送りたい気分になる。


先生は今撮った写真を確認すると「えー」と残念そうな声を出した。


「見てこれ」


画面を覗き込むと電車と向こう側の紫陽花がきれいに撮れているが、残念なことに右側に前の人のカメラと手が映りこんでいた。


「あーん、残念だなー」


「それ、カットできますよ」


「えっほんと?どうやるの?」


「かしてください」


僕は先生のスマホを受け取ると、ちゃちゃっと操作して、映り込んでしまった部分をカットして見せた。


「すごい!さすが使いこなしてるね」


「そうですか?」


全然普通のことなんだけど。せっかく褒めてもらったから、すごいことをしたことにしておこう。


そして再び鳥居をくぐってお参りをした。

今日だけで何回もお参りしているけど、僕の願いは全部一緒だった。


『また先生と一緒に来られますように』


隣で手を合わせている先生は、どんなことを願っているのだろう。

瞼を閉じた先生の横顔をこっそり見ながら思った。


境内には大きな二本の銀杏の木がある。その名も「夫婦銀杏」

なんと、樹齢四百年だそうだ。


どうがんばっても全てをカメラに収めることができないほど大きく、まっすぐに伸びた幹。

こんな木が鎌倉にはたくさんある。

僕はまだたった十七年しか生きていないのに。

この銀杏の木が四百年もこの場所にいるという事実に、目がくらみそうになる。

この時間の重みに比べたら、僕と先生の年の差なんてほんの一瞬なんだ。

そう思えた。



それから僕らは長谷寺へ戻り、紫陽花散策路への坂道を上った。

ぞろぞろと列を作って登って行くと、やがて山の斜面に咲いているたくさんの紫陽花が見えた。

明月院に比べると、まだ少し早いのかつぼみが多かったが、花の品種の種類が多く、これはこれで楽しめた。

何よりも木々の合間から見下ろす由比ヶ浜の海は絶景で、七十分待って坂を上ってきて良かったと思った。遊歩道の合間にちょこんといる、愛らしいお地蔵さんをカメラに収めるのも楽しかった。


少し下った所に新し目のカフェレストランがあり、そこで休憩することにした。

ぜんざいを頼むと焼いたお団子が入っていて、上品で美味しかった。

全面ガラス張りの窓からは、由比ヶ浜の向こうに逗子、葉山、横須賀と

三浦半島が見渡せてとても贅沢な気分になった。


「あれが逗子マリーナ、その向こうが葉山…」と指を指しながら先生に教えた。


「本当にいいところだね。鎌倉に来て良かった」


「前はどこにいたんですか?」


「川崎。東京に出るには便利だけど、自然はあまりないから」


そう話した先生の表情が少し曇った気がした。

飲んでいたブラックコーヒーが少し苦いな、ぐらいの小さな歪みだったけどなぜか気になった。



長谷寺を出た所で先生と別れた。


「じゃあね、市原君。今日はありがとう」


そう言われて、そういえば先生の家はこのあたりだったなと思い出した。

確かこの前、御霊神社の近所だとぽろっと言っていた。

前に偶然会った坂ノ下のカフェも、このすぐ近くだった。


「はい、じゃあまた火曜日に」


そう言って手を振って、駅に向かって歩き出してから、いけないことを考えてしまった。

先生の後をつけたらもしかして…


いやいや、だめだだめだだめだ。

悪魔のささやきを一瞬で追い払って、青に変わった信号を走って渡った。


きっとそのうち、先生から教えてくれる。

だいたい先生の家がわかったらどうなる?

行きたくなるに決まってる。迷惑かけるに決まってる。

そんなことをしちゃだめなんだ。知らない方がいいんだ。


僕はそのまま駅に着くまで走り続けた。



その夜、いつものように先生にメールを送った。


『今日は晴れて良かったですね。一日であんなにたくさんの紫陽花を見たのは僕も初めてです。ありがとうございました』


明月院で撮った先生の写真と、江ノ電のベストショットを添付した。


先生からの返信には


『今日はありがとう。ずっと行きたかった所に連れて行ってもらえて嬉しかったです。次回は行きたい所があるの。また相談させてくださいね』


文章とともに送られてきた写真は、竹林をバックに映した大輪の紫陽花と、僕の写真だった。


「えっこんなのいつ撮ってたの」


思わず声が出たくらい驚いたその写真は、御霊神社の夫婦銀杏の前に立った、僕の後姿だった。銀杏の木の向こうに広がる青空が、まるで高原にいるみたいに高く澄んでいる。

その銀杏の木を見上げている僕の後姿を、先生は切り取っていた。


「うわっなんか恥ずい…」


お互いにたくさんの写真を撮って、最後はバッテリーが危なかったほどだ。

知らないうちに撮られていても不思議ではないけれど。


僕が先生を見ていたように、先生も僕のことを見ていてくれていた。

少なくともこの写真を撮っている間、先生の目は僕を映していたんだ。

そんなことが嬉しくて、思わず顔がにやけてしまう。


一緒に撮ろうって言えば良かったかな。


今日何度も考えたけど、結局言えなかった。

この次は言ってみよう。先生と念願のツーショット。よし!

小さな野望を心に誓って、僕はその二枚の写真を特別なフォルダーに保存した。

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