第7話 化粧坂(けわいざか)

自分で起きるようになって、五日目の朝。


今日は先生との約束の金曜日だ。


楽しみすぎて、眠れなかったのもある。

それと、コンビニに寄らなくていいという油断もあり、少しだけ寝坊してしまった。


これは、ハルと一緒に行っていた時の電車になるな。

駅で顔を合わせるかな。

そう思うと、ちょっと緊張した。


あれからハルとは話していない。


こんなに声を聞いていないのは、いつぶりだろう。

どうしているのかな、と気にはなっている。


スマホの画面は、日曜日の坂ノ下のカフェに行った日のやりとりで止まっていた。

最後に撮った写真も、あのパンケーキだった。

このまま、もう更新されることはないのかな。


自分で言いだしたこととはいえ、こんなに簡単にハルとの関係が途切れてしまうことが寂しく思える。

つくづく、勝手だなぁと思う。


そんなことを考えながら登校したけれど、結局ハルには会わなかった。


まさか、学校を休んでるなんてことはないよな?


心配になって、ハルの教室を覗きに行こうかと思った。

でも、他に親しい友達もいないのに不自然だよな。


結局、いつものように真っ直ぐ自分の教室に向かった。



四時間目が終わるとすぐに


「じゃ、行ってくる」


と昂太に声を掛けて、後ろを見ずに教室を出た。



昂太には昨日、話しておいた。

これから毎週火曜と金曜の昼休みに、カウンセリングルームへ行くことを。

最初、昂太はびっくりして


「なんで?どうした?」


と聞いてきた。


「いや、なんかさ。前に保健室へ行った時、いろいろ聞かれたんだ。

家の事情とかをさ。

そしたら、保健の先生が話をしに来てって」


「まじかよ。そんなに深刻だったんなら、俺だっていつでも聞くのに」


昂太が真面目な顔でそう言ってくれたので、慌てて否定した。


「いや、全然深刻じゃない。大丈夫だから」


「まぁ、俺じゃ役に立たないだろうけど」


「そうじゃない。昂太はここにいてくれるだけでいいんだ。ほんとに。

おまえは俺のお助けキャラだから」


「なんだよ、それ。まぁ役に立ってるならいいけどさ」


僕は照れながらも、ここで話は終わるかと思ってほっとしていると、昂太がおもむろに言い出した。


「おまえ、あれだろ。あの美人先生が目的だろ」


「っ!!」


するどい。

思いっきり顔に出たな、これ。

昂太の目が細くなった。


「やっぱりか。まーじーかー」


「しっ 声がでかい。ちがうちがう、ちがうから」


「うるせー。お前の反応が全てをものがたってんだよ」


なんでこいつはこんなにするどいんだ。

僕の脳みそがフル回転を始めた。


「やけにあっさり杉山を振ったと思ったら、そういうことか」


「ちげーよ!振ってねーし。

俺とハルは離れた方がお互いのためだって言ったの、おまえだろ」


「そうだけどさ。おまえ、あれから全く杉山と連絡とってないだろ。

もうどうでもいいのかよ」


「そんなことないよ。気にはなってる。

だけど、向こうも何にも言ってこないしさ。俺から連絡するのもおかしいだろ。

今はお互いに距離を保つ時期なんだよ、きっと」


僕は半分自分に言い聞かせるように言った。


「ふーん、向こうはそう思ってないみたいだけどな」


昂太が独り言のように言ったので


「え?どういう意味?」


と聞いたけど、昂太は答えなかった。


「いや、なんでもない。わかったよ、じゃあ週に二回、俺はあいつらと弁当食べればいいんだな」


「うん。悪い」


「いいけどさ、本当に何かあるなら話せよな。聞くだけなら、いつでも聞くからさ」


「おぅ。サンキュー。昂太もな」


ついでに長谷川と齋藤には適当に言っておいて、と頼んでおいた。

昂太は、わかったと言ってからにやっと笑ったので、不安になって、余計な事は言うなよと念を押した。


そして、今日は初めてのカウンセリングルームでのランチだ。


僕はあやしまれないように、お弁当が入っているという前提の自分のリュックを持って教室を出た。

昼休みなんて、みんな中庭やベンチや好きなところでお弁当を食べているから、気にするやつなんていないだろうけど。


先生のお弁当のことや週末の約束のことは、昂太にも一切言っていない。

大丈夫、何もばれていないと自分の中で確認しながら、階段へ向かう。


廊下を歩いていると、ふと視線を感じて前を見た。

瞬間、くるっと向きを変えて走って行く後姿が目に入った。


ハルだ。


目で追ったけど、すぐに自分の教室に走りこんでしまった。

見間違えるはずはない。


よかった、ちゃんと学校へ来ている。

安心しながらも複雑な思いは拭えなかった。

今のは、僕を見て、向きを変えたってことか?

たまたま顔を合わせなかっただけかと思っていたけど、実は避けられてたのか?


すっきりしない気持ちのまま、僕は階段を駆け下りた。



カウンセリングルームと書かれた文字の下で、ためらいながらノックをした。

すぐに返事が聞こえたので、ドアを開けた。

最初に目に入ったのは、正面に置かれた白い衝立。

誰が中にいるか、すぐにわからないようになっているのか。


衝立の左側から、白衣姿の相沢先生が顔を出した。


「こんにちは」


「市原君、いらっしゃい。どうぞ」


先生について奥に進むと、普通の教室の半分ぐらいの広さの部屋だった。

中央にクリーム色の楕円形のテーブルがあって、椅子が四脚向かい合わせに並んでいる。


中庭側の窓が開いていて、空気は悪くなかったけど、ちょっと気づまりに感じた。


「どうぞ、座って」


先生に言われて、右側の椅子に座った。

先生も僕の向かいの椅子に座る。


すぐにお弁当を二つ出して、


「はい、どうぞ。一緒に食べよ?」


と、言った。

僕の緊張を察しているみたいに、やわらかく笑いながら。


「はい、ありがとうございます」


僕はリュックからペットボトルの緑茶を出して、さっそくお弁当を開いた。


今日は二段のお弁当箱だった。

先生の前に置かれている方が、この前僕が食べさせてもらった、小さいお弁当箱で。


「もしかしてこのお弁当箱、新しく買ってくれたんですか?」


「うん。だって、一つしか持ってないもん」


「いや、それはなんか、申し訳ないです」


「大丈夫。安物だから気にしないで。それより、サイズがよくわからなくて。

それぐらいで足りそう?」


「はい。ちょうど良さそうです」


「そう、良かった」


お弁当を開けると、一段目にふりかけご飯、二段目にはおかず。

小さいカツが二つと、えのきのベーコン巻、厚焼き玉子。

ミニトマトとブロッコリーが添えてある。

おいしそうなお弁当を見た途端、急にお腹が空いてきた。


「いただきます!」


先生と二人で食べる緊張感よりも空腹感の方が勝って、僕は遠慮なく食べ始めた。


「調味料、別にするの面倒だったから、上からかけちゃった」


見るとカツにソースがかかっていた。


「全然、大丈夫です…」


ハルもいつもそうだったんで…と言いそうになって、慌てて一つ口に入れた。


「おいしいです!」


先生はにっこり笑って


「アレルギーとか、あったら教えてね」


「えっ…ないですけど」


「なんで驚くの?」


「急に保健の先生みたいなこと言うから」


「保健の先生ですからー!」


わかってるけど、なんか違うんだよな。

相沢先生はどこまでを仕事だと思っているんだろう?

特定の生徒にお弁当を手作りすることは、先生の仕事だろうか。

聞いてみたいけど、怖くて聞けなかった。


「あと、嫌いなものとかある?」


「特にないですけど…あ、ピーマンとピータンは食べられません」


「うん、ピータンは入れないかな。」


「ピーマンは入れようとしてますね?」


「あ、ばれた?ふふふっ。市原くんて、面白いね」


いや、先生の方が面白いです。

僕は先生の笑った顔が見たくて、色々ぶつけているだけなんで。


「ごちそうさまでした!」


「はい、お粗末様でした」


空になったお弁当箱を元に戻すと、先生が手を伸ばして片づけてくれた。


僕が持って帰って洗うと言っても、きっと断られるだろうなと思い、何も言わずに甘えることにした。


白い壁に掛かった丸い時計を見ると、まだ十五分ぐらい時間がある。

先生は僕の顔を見て話し始めた。


「どう?朝はちゃんと起きられてる?」


「はい。今日はちょっと寝坊したけど、大丈夫でした」


「杉山さんとは?」


「連絡はとってないけど、学校は来てるみたいです」


「来てるみたいって、学校でも会ってないの?」


「クラスが離れているから、意外と会わないんですよね」


「そうなの。ちょっと心配ね」


「ハルはしっかりしてるんで。友達もいるし、大丈夫だと思います」


「そうかな…まぁまだ日にちもたってないしね。

市原君は、大丈夫?」


「はい、とくには」


「そうなの。仲の良い友達はいる?」


「はい。クラスに何人か」


「そう。部活はやっていないのよね?」


「中学の時は水泳部だったんですけど、うちの学校にはなかったので」


「あら、残念ね。水泳は得意なの?」


「まぁ。他のスポーツに比べれば、ですけど。最近は運動不足で」


「あー、そうか」


先生が何かを思い出したように笑ったので


「あ、あのことを思い出してるでしょ」


と言うと


「えー、違うよ、あの両足つったサッカーの話じゃないよ?」


「いや、それ以外ないですよね」


ほんと、もう忘れて。

僕は心の中で手を合わせて祈った。


「それより、日曜日の相談しませんか?」


速やかに話題を変える。


「そうね、何時に待ち合わせる?」


「何時でも。でも、もうゴールデンウィークなんですよね」


「あ、そうか。忘れてたわ」


「ゴールデンウィークに何か、予定はないんですか?」


「えー、それはあるよ、さすがに」


あるんだ。

それは、やっぱり…彼氏とかなのかな。

僕は、先生の次の言葉を緊張しながら待った。


「研修とか、遠足の下見とか」


「仕事じゃないですか」


「仕事とは思いたくないの。自主的な勉強と遠足ね」


「ポジティブですね」


「うん。大事だよ、ポジティブシンキング!」


両手にこぶしを作って、力強く言う。

ほんとになんていうか…

僕が今までに出会ってきた先生とは明らかに違うんだよな。

年下の僕が言うのもなんだけど…


可愛い。


彼氏の存在を聞くのは、もう少し先にしよう。

いきなりプライベートに踏み込むのは良くないよな。

もっと親しくなったら、案外ぽろっと言ってくれるかもしれないし。

いや、本当にいるなら聞きたくはないんだけど。


「でも、今週の日曜日は大丈夫だから。

楽しみだなぁ、銭洗い弁天」


「僕も楽しみです。洗うお金、用意してきてくださいね」


「もちろん!お金増やしたいもの」


「洗ったお金は、使わなきゃいけないんですよ」


「えっ!そうなの?大事に取っておくのかと思った」


「そう思っている人多いんですけどね、使わないと増えない仕組みです」


「経済の基本なのね。なるほど。厳しいなぁ」


苦笑いの顔もいい。


「近くに感じの良いカフェがあるので、そこにもぜひ」


「ほんと?嬉しい」


今度はぱっと明るい顔になる。

今日はいろんな顔を見せてくれるなぁ。


「じゃあ、十時半ぐらいでどう?現地集合でいいよね?」


「でも、入り口がちょっとわかりにくいんですよ。普通に行くと混んでると思うんで、化粧坂方面から行きませんか?」


「化粧坂!いいね、行ってみたい」


「じゃあ、小町通りの終わりの信号あたりでどうですか?」


「あ、あの干物屋さんの所ね。わかった」


「けっこう坂を上るので、歩きやすい靴がいいですよ」


「よく気が付くのね。そうするわ」


そこで時計を見ると、予約時間を五分過ぎていた。


「あ、じゃあ今日はこれで。日曜日にね」


「はい、ご馳走様でした」


僕はまた自分の教室まで走らなきゃいけないみたいだ。

でも先生とたくさん話せて、嬉しかった。



そして、日曜日。


朝から気持ち良く晴れて、気温も高くなりそうだ。

僕の気持ちと同じに。自分でも訳が分からないくらい、どんどん上がるテンション。


十時半に待ち合わせしたのに、二時間前には支度が完了してしまった。

めずらしく洗面所で髪をセットしたりして。

いつもは寝癖を直すぐらいだから、ワックスを使っておしゃれな感じにしたいんだけど、何が正解なのかわからない。

しばらく毛先をいろんな方向へ向けてみたけど、結局いつもと変わらない感じになった。

仕方ない、高校生は清潔感で勝負だ。

昨日買ったシトラス系のコロンをひと吹きして、終了することにした。


何を着るか、すっごく悩んだけど、白いTシャツの上に紺地に白の細かいドット柄のシャツを羽織って、スリムジーンズを合わせた。

ワンショルダーのボディバッグをしょって、紺のスニーカーを履いて家を出る。


江ノ電で鎌倉駅に向かうと、すごい人混みだった。

観光客の皆さんと同じ方向へ進み、小町通りへ出た。

今日も賑わってるなぁ。

家族連れや、グルーブで歩く女の子たち。カップルもたくさんいる。

この中で、僕と先生はどんなふうに見られるんだろう?


待ち合わせの場所までは十分程度。

ゆっくり歩いたつもりなのに、やっぱり僕の方が早く着いたみたいだ。

ちょっと周囲を見回して確認してから、通行の邪魔にならない場所で立ち止まった。


スマホを持つようになってから、こんな待ち合わせは初めてかもしれない。

本当は先生の連絡先を聞きたいんだけど、やっぱりそれは僕からは言い出せないわけで。

保健室の先生と生徒が、どれぐらい個人的な情報交換をしていいのかがわからない。

いや、多分しちゃいけないんだろうな。


だけど最近はクラスや部活の連絡に、グループラインを使うのは普通になっている。

それならそこから個別でのやり取りに発展している場合があるかもしれないし。

僕から聞いたら、案外先生はあっさり教えてくれるかもしれない。

だいぶハードルが高いけど。


本当はこんなふうに外で会うのも、レアケースだってわかってる。

だからこそ、ドキドキするし、緊張もするんだよな。


あれこれ考えながら待っていると、


「おまたせ!」


と声がして、目の前に先生が現れた。

白黒のチェックのワンピースの上に、薄い水色のデニムのジャケット。

足元は黒いハイカットのスニーカー。

黄色いトートバッグを肩から下げている。

今日のスタイルはカジュアルで、学生みたいに見える。


「おはようございます」


「おはよう!

ごめんね、待った?」


「いいえ、早く着きすぎちゃって」


僕は恥ずかしくて、先生と目を合わせられなかった。

白衣姿じゃない先生を見たのは久しぶりだった。


「こっちです」


小町通りを少し戻って、右手に曲がる。


道を一本入っただけで、閑静な住宅街だ。

一見普通の住宅街のように見えて、古風な作りの家が多く、庭の手入れも行き届いているので歩くだけでも春を感じる。

横須賀線の線路を渡ると、人通りも少なくなってきた。


「このあたりは少し歩くとお寺や祠があって、つい足を止めたくなるよね」


先生はそう言って、線路沿いの道にある小さな祠に近づいて行く。


「そこは、阿仏尼のお墓ですね」


「阿仏尼…十六夜日記の?」


「そうです。僕も最近日本史で習ったばっかりで。このお墓は前から知っていたけど、そんな有名な人だったんだってびっくりしました。」


「そうよね。うわー、こんな場所にあるのね」


「こんなんばっかりですよ。特にこういう崖の下とか、坂の途中とか。やたらに供養塔やら墓石やら鳥居やらあるんで」


「夜歩いたら怖いかな。幽霊でそう?」


「そんなこと言ってたら、多分どこも歩けないです」


「確かに。ある意味、町全体が広大な墓地みたいだよね」


歩いている道幅も狭いので、すぐ横を車が通りぬけて行く。

さりげなく先生が内側にくるように歩いた。


「道路の住所を見て歩くのも好きなの。本当に素敵な地名が多いよね」


「ああ、雪ノ下とか?」


「うん、雪ノ下はもちろん。ここ、扇ガ谷(おうぎがやつ)とか小動(こゆるぎ)、材木座!あと、化粧坂(けわいざか)や巨福呂坂(こぶくろざか)みたいに坂の名前も素敵」


「そうですね。腰越とか、朝比奈、月影なんてところもあります」


「すごいよねー。名前聞いただけでもどんな場所なのか行ってみたくなっちゃう」


「あ、ここ左です」


僕は住宅地の中に普通にあるような、車一台がやっと通れるほどの小さな曲がり道を指差した。


「えー、見逃しちゃいそうだね」


「でしょ?だから案内がいた方がいいですよね?」


「ふふふ、そうだね、ありがとう」


「でもここからは上り坂ですよ。源氏山公園に行きます」


「あ!頼朝の銅像がある?」


「そうです。行ったことありますか?」


「一度だけ。桜がきれいだったなぁ」


「もうちょっと早かったら、お花見ができたんですけどね」


そんな話をしながら住宅街の中の坂道を登って行くと、急に道が細くなり、険しい山道が現れる。化粧坂だ。


「大丈夫ですか?」


「う、うーん、なんとか」


最近雨は降っていないはずなのに、むき出しの土に水が流れている場所があって、かなり滑る。

僕が歩きやすそうな道を選んで、先を歩くことにした。


「先生、こっち」


自然に右手を出した。

先生は一瞬ためらっていたけど、僕の手をつかんでくれた。

先生の手を握って引っ張り上げる。


先生の手は思ったより小さくて、ひんやりしていた。

余計に自分の手が熱く感じてしまって、顔まで熱くなる。


化粧坂は不規則な階段のようになっている場所もあるけど、長い年月で踏み固められた地面はつるつるして、足場を探すのが大変だ。


「すごいよねぇ」


「え?」


「鎌倉時代の小説によく出てくるの、化粧坂。鎌倉武士たちがここを歩いていたんだよ。ちょっと感動しちゃった」


えーと、僕は先生と手をつなげたことに感動しているんですが。


ちょうどその時、上から下ってきたカップルとすれ違った。

手をつなぐどころか、彼氏が彼女を抱きかかえるように下りて行く。

きゃあきゃあ言いながら歩く彼女の足元を見ると、踵の高いブーツを履いていた。


「市原君のアドバイス通り、スニーカーで来て良かったわ」


先生はそう言ってくれたけど、僕はちょっと失敗したかな?なんていけないことを考えてしまった。


坂道を登りきると、突然舗装された広い道路に出る。

左手が広場になっていて、そこに頼朝の銅像があった。


「ここね、懐かしいな。子供の時だから、もっと広く感じたけど」


「そうですね、僕も家族でよくお花見に来ました。あと、学校の遠足でも…」


言いかけて先生の顔を見ると、思わず口をつぐんだ。

先生はどこか遠くを見ていた。

初めて会った時、源氏池の桜を見ていた時のように。

もう戻ってこない、遠い思い出を慈しんでいるのだろうか。

僕もしばらくそんな先生の横顔を見つめてしまった。


広場を後にすると、反対側の坂道を下りて七、八分ほどで銭洗い弁天に着く。

入口は小さい鳥居が立っているだけで目立たないが、わらわらと人が出入りしているので、それと気が付く。

コンクリートで固めた、狭い隧道を通ると、連なった鳥居に迎えられる。

出口にある手水場で手を洗い、真っ直ぐ奥宮へ向かった。


「うわー、すごいね。洞窟なんだね」


崖をくりぬいたようなむき出しの岩肌に驚いたようだ。

先生があちこち目を向けている間に、左の奥にあるザルを取って来た。


「はい、これ」


「わぁ、ここにお金入れるの?」


「お札はびちょびちょになるから、小銭だけにします?最近はカードを洗うのが流行っているらしいけど」


「そうなの。でも、せっかくだから千円札もいっとこうかな」


先生は大事そうに千円札を何枚か出して、小銭と一緒にザルに入れたので


「じゃあ、僕もちょこっとだけ」


そう言って、千円札を二枚と小銭を全部ザルにあけた。


「ちょこっとだけね、ちょこっと」


そう言いながら先生が自分のお札にひしゃくで汲んだ水を掛けた。

僕も隣で自分のザルに少しだけ水を掛けると、いきなり隣からひしゃくの水が掛けられた。


「うわっ」


「ほらほら、ちゃんと洗わなくっちゃ」


「やめてー。僕の英世が」


「あら、ほんと。英世が風邪ひいちゃうね」


「縁起でもない」


「大げさだなぁ」


そう言ってあははっと笑った。まさかこんな攻撃をしてくるとは。油断した。

先生は自分のバッグから小さいタオルを出すと、はい!と渡してくれたので、素直に使わせてもらった。

濡らしたお札は当然ふにゃふにゃになったけど、なんとか財布に戻した。


境内には他にもいくつかお社があり、お賽銭箱もあるので全部まわって、今洗った小銭を投げた。

全員の神様に


「また先生と来られますように」


とお祈りした。

それほど僕は楽しくて仕方なかった。

先生が何をお祈りしたのか、僕は知らない。



銭洗い弁天を出て坂を下ると、ちょうどお昼ごろだった。


「これからどうしますか?」


「そうねぇ。お腹すいたね」


「駅に向かうか、ちょっと歩くけど長谷の大仏へ行くか」


「大仏かぁ。それはやっぱりご挨拶しておきたいけど、次回に取っておこうかな」


「いいですね。じゃあ、次回は大仏へ行きましょう。

このまま佐助方面に下りて、鎌倉駅の近くにある和風のカフェにいきませんか?」


「和風カフェ?いいね!」


「じゃあ、そのコースで」


自分でも不思議なほど、リードできてると思う。

ハルと出かける時は、いつも任せっぱなしだったから、こんなに自分で決めたことはなかった。

図書室で調べた観光スポットと、コンビニで買った食べ歩きマップも良い仕事をしている。

もちろん地元だから道は全部わかっているけど、女の人が好きそうなお店とか、最近の人気スポットなんかは情報が必要なわけで。


そのお店は、鎌倉駅近くのビルの二階にある。

日曜日のお昼時だから混んでるかと思ったけれど、意外に入れた。

日曜日のランチタイムのピークは、もう少し遅いのかもしれない。


二人なので窓側のカウンターに座った。

メニューを見て


「おしゃれな定食屋さんって感じね」


「でしょ。僕好きなんですよ」


前にハルと来た時も、内装とメニューのギャップがいいね、と話した。

白い壁に木のテーブル。椅子のせもたれは黒のアイアンで、裸電球や観葉植物がおしゃれな空間を作っている。

メニューは和風なんだけど、パンのセットもあったりして面白い。


僕も先生も、ご飯のセットを頼んだ。


「鳥南蛮、好きなのよねー」


「僕も好きです」


「おいしいよね。自分では作らないものが食べたくなるの」


「いつも自炊ですか?」


「基本はね。一人だと面倒な時もあるけど、なるべく作るようにしてる」


「やっぱり一人暮らしなんですね。家はどこですか?」


「えー、どうしようかな?こ・じ・ん・情・報!」


え。だめですか。

流れで教えてくれると思ったのに。頑張れ、俺。


「駅ぐらい良くないですか?」


「そうねー、駅ぐらいいっか。江ノ電だよ」


そうでしょうね。ってか駅名じゃないし。


「じゃあ、究極の個人情報、聞いちゃおうかな」


「なになに?」


「先生何歳ですか?僕はもうすぐ十七歳です」


「まって。なんで先に自分の年を言った?」


「え。だって、女性に年を尋ねる時はまず自分からって」


「違うよ。いろいろ間違ってる。人に名前を聞く時は自分が先に名乗る、でしょ?女性に年は聞いちゃいけないの」


「あっそうか。じゃあ何歳ですか?」


「だーかーらー!!!…まぁいっか。まだ若いし」


「そうですよ。若いから大丈夫です」


先生は横目でちろっと僕を睨んでから言った。


「二十四歳。早生まれだから、なったばっかりよ」


「…若いじゃないですか」


「間があったね」


七歳違いか。うん、大丈夫。大したことない。


「いや、大丈夫です」


「ちょっと、何が大丈夫なのよ」


「こっちの話です。もう一ついいですか?」


「なぁに?」


「これからのことを考えて、連絡先を交換しませんか?」


僕はかなり大胆になっていた。

今なら先生は教えてくれる。そんな気がして。


「いいよ」


え?!なんて?


先生はちょうどご飯を食べ終わって、お箸を置いたところだった。

バッグからスマホを取り出すと手帳型のカバーを開いたので、僕も慌てて自分のスマホを取り出した。


「ラインはやってないの。メアドだけど、いい?」


「はい!でも本当にいいんですか?」


「うん。へんな人だったらブロックすればいいし」


「え?変な人じゃないです」


「あ、ごめんごめん。市原君のことじゃなくてね、ラインをやらない理由」


「ラインもブロックできますよ」


「そうだけどね、いろいろ面倒だから。はい、これ私のメアドね」


メールアドレスを手打ちで登録するなんて、何年ぶりだろう?

ちょっと前まで当たり前にやっていたはずのその手作業が、久しぶりすぎてまごついてしまった。

なんとか登録すると、すぐにメールを送る。


「僕のアドレスです」


「オーケー。登録した」


「ちなみに、僕の他にも登録した人いますか?」


「ん?」


「つまり、生徒で」


「さぁ?どうかしらね?」


斜め上を見るとぼけた仕草で、また僕の心臓を跳ねさせた。


「ちなみに、私は君の個人情報を全部つかんでるよ」


「え?!なんで?」


「生年月日、身長体重、過去の病歴やアレルギー、家族構成に自宅までの詳細な地図もね」


「あ!あの毎年四月に提出する書類だ」


「あったりー。全生徒分を握っているのです」


「なんか、恥ずかしいし、ずるい。」


あははっとくったくなく笑う先生に、僕は個人情報どころか心ごと持っていかれているわけで。

ほんとうにずるいと思う。



「じゃあ、今日はありがとう」


階段を下りた所で先生が言った。

そうだ、現地解散が約束だった。


「こちらこそ、楽しかったです」


「うん、私も。次は火曜日ね!」


「はい。さよなら」


「さよーなら!」


先生はにっこり笑って手を振ったので、僕も手を振って駅に向かった。


家に帰ってからも、ずっと先生の事を考えていた。

次は長谷の大仏だ。

案内が必要なほど複雑な場所じゃないし、帰りにどこか寄る所を考えようかな。


夜になるのを待って、先生にメールを送った。


『今日はありがとうございました。次回の大仏も頑張ります』


頑張ります?は、おかしいか。でも楽しみにしています、だと自分が連れて行ってもらうみたいだし。一応僕が案内人なわけだしな。


何度も文章を打っては消し、打っては消して、やっと送った。

『今日はありがとうございました。銭洗い弁天は楽しんでもらえましたか?次回の大仏も期待してください!では、おやすみなさい』


送信!

返事はくるかな?

何度も画面を確認してしまう。

初めてガラケーを持った時みたいにドキドキした。


十分ぐらいしてから着信音がして、あわてて確認すると先生からの返信だった。


『こちらこそ、ありがとう!化粧坂も銭洗い弁天も、一人で行くよりずっと楽しかったです。大仏も楽しみにしています。明日の朝も頑張って起きてね。おやすみなさい』


何度も読み返す。

一人で行くより楽しかったって。

明日の朝も頑張ってだって。


これがラインだったら即既読が付いて恥ずかしいけど、メールだから先生にはわからない。僕が瞬殺の勢いでメールボックスを開いたことに。


僕はベッドに横になると、胸の上にスマホを置いた。

こいつをこんなに大切に思ったことがあったかな。


昨日までは、連絡ツールとゲーム機とネット環境と好きな音楽を聴くためのものだった。

あ、あと目覚まし機能も。

それだけでも十分必要不可欠な存在であることは間違いないんだけど、今日から新たな役割が加わった。


僕と先生のホットラインだ。

ホットなのは僕側だけかもしれないけど、いや絶対そうなんだけど、でも、それでも。

このスマホが僕と先生をつないでいることが、嬉しいし、ありがたいし、もっと言っちゃえば…愛しい。


年も聞けたし、メアドももらえたし。

家は教えてくれなかったけど、そのうちわかるだろう。

なんせ、先生は隙だらけだ。天然て言うのかな、あれ。

僕にはありがたいけど、ちょっと心配でもある。

なにはともあれ、第一回目の成果としては十分だと思う。


「がんばったなー、俺」


声に出して言ってから、忘れずにアラームをセットした。


「明日もちゃんと起こしてくれよ」


電気を消すと、今日の遠足の疲れのせいか、あっという間に眠ってしまった。


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