第5話 坂ノ下

日曜日は、朝から晴れていた。


昼食の時、久しぶりに父さんと顔を合わせた。

東京まで通勤している父さんは、平日の朝は僕が目覚めるはるか前に家を出て行くし、帰りはほぼ終電で帰ってくる。

出張やら、週末ゴルフやらで、最近はめったに会わなくなっていた。


「おう、碧樹。ちゃんと学校行ってるか?」


おばあちゃんが作ってくれた焼うどんを食べながら、話しかけてきた。

おばあちゃんの焼うどんは、醤油味。

かつおぶしがたくさんかかっていて、とてもおいしい。


「うん、行ってるよ」


「日曜日はいつも何やってるんだ?」


「別に。今日はハルと出かける」


「お、デートか」


「ちげーよ。ハルが古民家カフェを見つけたんだって。パンケーキ食べに行くだけ」


「へぇ。おまえもすっかりハルちゃんに胃袋つかまれてるな」


「何それ。別にそんなんじゃないよ」


父親までこれだよ。

ちょっと不機嫌になった僕に、父さんはにやにやしながら


「軍資金、やろうか?」


と、持ちかけてきた。


「え。まじで」


「まじまじ。これでハルちゃんとおいしいものを食べてこい」


そう言って、財布から五千円を出してくれた。


「あ、どうも。助かります」


なぜか敬語になってしまうのは、お小遣いをもらう側の立場の弱さだ。


もらったお金をポケットにしまいながら、


「部活もやってないし、バイトでもしようかな」


と、言うと


「もう高二だろ。今からバイトなんてしてたら、大学いけないぞ」


と言われた。


「でも、友達もやってるやつ多いし、夏休みぐらいなら…」


「やめとけ。お前は変に真面目なところがあるから、バイト始めたら一生懸命になりすぎて、勉強がおろそかになる。


大学行ったらいくらでもできるから、今は英単語の一つでも覚えた方がいいぞ。

それとも、そんなに金が必要なのか?」


学校帰りに買い食いしたり、週末に遊びに行くぐらいのお金は、お小遣いで足りている。

スマホの料金は出してもらってるし、服や学用品を買うときは、おばあちゃんに言えばもらえた。


別にどうしても必要なお金はないけど、自分で働くってことをしてみたかった。


でも父さんの言っていることもわかる。

確かに僕は、働くことそのものよりも、働いている自分に熱中してしまいそうだ。


「ちょっと、やってみたいだけだよ。時間余ってるし」


「だったら、夏期講習から予備校に行ってみるか?

そろそろ大学のオープンキャンパスに行ったりして、受ける学部を決めないとな」


えー、それは勘弁。なんでバイトが予備校になるのさ。


「勉強はちゃんとしてるから。予備校は三年からでいいよ」


そう言い捨てて、急いで席を立った。



ハルが連れて行ってくれたカフェは、長谷と極楽寺の中間あたり、坂ノ下と言われる場所にあった。


本格的な古民家と言うより、ちょっと古い一軒家を改装して作られたカフェ、という感じだった。

築九十年ということなので、僕の家と同じぐらいに建てられたらしい。


「ね、碧樹のおうちに似てるでしょ?」


ハルに言われて、見回してみると、確かに窓枠や天井の高さがよく似ていた。


世界中から集められたらしい、古い家具や雑貨が並べられた店内は、一見まとまりがないようで、それが独特の雰囲気を作り出している。


まるで昔の親戚の家に遊びに来たような、懐かしさを覚えた。


日曜日ということもあって、店内は満席。

少し並んだけど、運よく窓際のテーブルに案内された。


席についてメニューを見ると、ずらっと並ぶパンケーキの文字。


「うわっ 迷うな、これ」


「でしょ?私はね、昨日プレーンを食べたから、今日はバナナキャラメルにしようかな」


「連日かよ」


「だってぇ。おいしいんだもん。理恵が抹茶のパンケーキを食べてたけど、きれいな緑色だったんだよ。めずらしいよね」


「へぇ。俺はプレーンかな」


「うん、間違いない。チーズもあるんだね。ちょっと高いけど美味しそう」


「あ、今日は好きなの頼んでいいよ。俺が出すから」


「えっ なんで?」


「ハルと出かけるって言ったら、父さんがお金くれた」


「えー!うちもだよ」


「え、そうなの?」


「うん。碧樹と出かけるって言ったら、これでおいしいもの食ってこいって、五千円くれた」


「うそだろ。セリフも金額も一緒だよ」


「えー!さすが親友同士だね」


僕の父さんとハルのおじさんは、ずっと向かいの家で育った幼なじみ。

つまり、僕たちと同じような関係だ。

男同士だから悪友かな?子供の頃は二人でいたずらしたりして、おばあちゃんを困らせたらしい。


「じゃあ、今日は碧樹のお父さんにご馳走になって、次回はうちのお父さんね」


ハルがそう言って笑う。


次回…か。

今日はちゃんと話さなきゃな。

僕は一晩考えて決心したことを、ハルに話すきっかけを探した。


ハルは悩んだ末に、バナナキャラメルのバニラアイス添えというのを頼んだので、僕も真似してプレーンのバニラアイス添えにした。


セットの飲み物は、ハルがアイスティー、僕はアイスラテ。

コーヒーの香りと味は大好きなんだけど、苦いのは苦手だ。


僕には、ミルクとガムシロがたっぷり必要だった。


運ばれてきたパンケーキは、ふわふわの三段重ねで、軽い風味の生クリームと、濃厚なバニラアイスが添えられている。


「うわー」


と、思わず声が漏れる。

二人で写真を撮ってから、ゆっくりと味わった。


「うーん、おいしい」


大満足。

店の雰囲気も味のうちだ。


「古いおうちって、いいよね。なんでうちは建て替えちゃったんだろ」


「ハルの家も古かったの?」


僕が引越してきた時には、ハルの家は建て替えられた後だった。


「うん。それに平屋だったからね。お父さんが歯医者をやるなら建て替えないとってなったみたいで、私が生まれるちょっと前に壊しちゃったんだって」


「敷地はうちと同じぐらいあるもんな」


「うん。昔は中庭があってね、池に鯉もいたらしいよ。お父さんが捕まえて遊んだって言ってた。

もちろん碧樹のお父さんと一緒にね」


「やりそう」


「ね!今は患者さん用の駐車場にしちゃったから、庭もちょっとしかないし、碧樹のおうちみたいな縁側が欲しいな」


ハルの家は一階が歯科医院で、「杉山デンタルクリニック」という看板が掛けられている。

入口の横に、車が三台ぐらい止められる駐車場があって、その横の通用口から入って自宅の玄関へ行くようになっていた。


僕は、ずっと聞こうと思っていたことを聞いてみることにした。


「ハルは歯医者を継がないの?」


「私が?むーりむり!バリバリの文系だもん。

ナツは音楽に目覚めちゃったし、あの歯医者は一代限りだね」


ハルの妹の夏菜は、小さい頃からピアノを習っていて、才能があるらしい。

中学受験をして、中高一貫の、ピアノ科がある私立の学校に通っている。


「ハルが挫折したピアノな。おばさん張り切ってグランドピアノまで買ったのに。

ナツに才能があってよかったよ」


「本当だよね。私なんてピアノの練習大っ嫌いで、よく碧樹の家に脱走してたし」


「姉妹って静と動に分かれるっていうけど、ほんとだな」


「ほんと、ほんと。ナツは一日中ピアノ弾いていても飽きないんだって。

ずっとピアノの前に座っていられるっていうだけで、一種の才能だよね」


ナツは昔から大人しい性格で、外遊びより家にいるのが好きな子だった。


「碧樹が歯医者継いでくれないかなって、よくお父さん言ってるよ」


「あー、子供の頃よく言われたな」


「碧樹、歯並び綺麗だから」


「うん。それだけは、よくおじさんに褒められた」


「そうだよ。私なんて歯医者の娘がみっともないって言われて、矯正されたんだから。八重歯は遺伝だよねぇ?ひどくない?」


そうだった。

いつの間にか矯正されて、綺麗になってるけど、ハルは昔八重歯があって、にかっと笑うと目立ったっけ。小学校の高学年から何年もつけていた矯正器具が外れた時、本当にうれしそうだったなぁ。


「こんなに甘いものばっかり食べてたら、虫歯になって怒られるぞ」


「大丈夫。ただで治してもらうから」


そこは、ちゃっかりしている。


「あ、そうだ。帰りにスーパー寄ってもいい?明日のお弁当の材料買いたいから」


ここだ!

僕はやっとみつけたきっかけに、思わずフォークを置いた。


「そのことなんだけどさ」


「そのことって?」


「お弁当。そろそろ、辞退しようと思うんだ」


「辞退?」


「うん。ハルが毎朝早起きして作ってくれるの、ずっと悪いなって思ってて。もう十分だよ」


「そんなの気にしないで。自分のを作るついでなんだし」


「そうかもしれないけど、やっぱり気が引けると言うか…」


僕が口ごもっていると、ハルもフォークを置いて言った。


「碧樹、正直に言って?私のお弁当、あんまりおいしくない?」


「それはない!」

そこだけは、即行で否定した。


「ハルのお弁当は本当においしいし、毎日楽しみだったよ」


「だったら問題ないじゃん。私はこれからも碧樹のお弁当を作りたいよ」


「いや、やっぱり悪いよ。てかさ、お弁当だけじゃなくて、通学とかもさ」


「え?」


「少し、一人になりたいというか。

ほら、クラス別れたし、俺も友達できたしさ。

もう少しあいつらと仲良くなりたいんだよね」


「そんなこと…言ってくれれば帰りは別々でもいいし。

第一、碧樹は朝起きれないじゃん。毎日遅刻しちゃうよ」


「それ!俺が朝自分で起きれないのはさ、ハルに頼り切っているからだと思うんだ。

この前、球技大会の朝練の時はちゃんと自分で起きれたし。

今までみたいにハルに頼っていたら、いつまでも成長できないと思うんだよね。

大学行ったら一人暮らしになるかもしれないしさ。

ちゃんと自分のことは自分でできるようにならないと」


「ひとり…暮らし?」


「あ、いや、全然決めてないけど。でも遠くの大学になる可能性もあるだろ」


「…」


ハルは何も答えず、右手にフォークを持ち直すと、もくもくとパンケーキを食べ始めた。

何か考えをまとめているみたいだけど、どう反撃してくるかな?と気が気ではない。


僕は息を飲んで、ハルの反応を待った。


昔から、口ではハルにかなわない。

だからハルを傷つけずに納得してもらえる言葉を、夕べ必死に考えた。


こう言われたら、こう返そう。

いろんなパターンをシュミレーションしてきたのに。


ハルは、何も言わずに食べ続けている。

予想外のだんまりに、僕は恐る恐る言葉を続ける。


「ハルが、今まで俺にしてくれたことには、本当に感謝してるよ。

ハルがいなかったら、多分俺は学校とか集団生活に戻れなくて、今頃引きこもりのゲーマーになっていたと思うし。


だけどさ、考えてみたら、ハルは俺のために相当な時間を費やしてくれたと思うんだ。

母さんが死んでから、もうすぐ十年だよ。

このまま俺のためにハルの大事な時間を使ってもらうのは申し訳なくて。


高校生活も、あと二年ないんだし。

みんな女子高生を楽しんでるだろ?

俺はハルにも、もっと高校生活を楽しんで、自分のために時間を使ってほしいんだ。

このままじゃ、ハルの十七歳の無駄遣いだよ」


早口で一気にまくしたてる僕に、無反応だったハルが口を開いた。


「十七歳の、無駄遣い?」


「そう!そうだよ。そう思わない?」


パンケーキを食べ終わって、アイスティーを一気に飲んでから、ハルは言った。


「ぜんっぜん、思わない」


「え」


「私は碧樹のために自分の時間を使っていると思ったことは、一度もないよ。

私は私のやりたいことをしてるだけなの。


私が一番やりたいことが、碧樹と一緒にいることなの。

碧樹が毎日元気で、ちゃんと学校行って、楽しく過ごしているかどうかが私にとって一番大切なことなの」


「ん?いや、だからさ、それはハルのためじゃなくてさ、俺のためにハルの時間を使っていることにならない?」


「ならないよ。だって私が私のやりたいことに、私の時間を使っているだけでしょ?」


なんだか禅問答みたいになってきた。

このままだと言い負かされるぞ、がんばれ、俺。


「だけど、それはやっぱり、なんていうか、ちょっと…そう、重いんだよね」


「重い?」


「うん。こんな言い方して、ごめん。

だけどハルが頑張ってくれればくれるほど、俺は自分が何にもできない子供のままのような気分になってさ。

このままじゃ、いつまでも自立できないよ」


「自立…」


「そう、自立。

もうみんな自分の将来を考えたり、やりたいことに向かって歩きはじめる時期だろう?

あと、ほら、好きな人が出来て、付き合ったりとかさ」


すごく恥ずかしかったけど、言ってみた。

今までそんな話をしたことはなかったから、案の定、ハルは反応してきた。


「好きな人?え?何、そういうことなの?」


「いやいや、違うよ。別に俺にそういうことがあったわけじゃなくて…。

この前、昂太たちから聞いたんだ。ハルが男子の間ですごく人気があるって。

俺、全然気が付かなくてさ。


みんな、俺たちが付き合ってると思っているらしくて、だからハルのことを好きな奴がいたとしても、リアクション起こせなかったんだって。

だけどそれって良くないなって思って」


「なんだ、そんなこと。だったら何にも問題ないよ。私は今のままでいいから」


「いやいや、それは、大問題だろ?

多分女子高生にとっては、大問題なはずだよ。

俺はハルから青春を奪っているってことだよ」


「じゃあ、仮にね。私に碧樹の他に好きな人が出来たとするじゃん?

そうなったら間違いなく、私はそっちに行くから。

私の時間を全部その人のために使う。

だからその時まではこのままでいいと思わない?」


「う」


がんばれ、俺。


「いや、思わない」


「どうして」


「ハルは、俺がそばにいる限り、他の奴にいかないから」


「…え」


目を見開いて僕の顔を見るハル。

多分、僕の顔は真っ赤だ。でも、言わなくちゃ。


「変な意味で言ってるんじゃないよ。

うぬぼれているわけでもない。

だけど、今までずっと一緒にいて、ハルが他の男の名前を言うのを一度も聞いたことがない。

それに、ハルは多分、朝起きた時から夜寝る時まで、ずっと俺のことだけ考えてるだろ。

何時に起こして、お弁当はどんなおかずにして、持ち物確認して、日焼け止めクリーム塗ってあげて…って。


そんな日常で、他の奴なんて目に入るはずがないんだ。

だから、それを終わらせない限り、ハルにも俺にも、青春は来ない」


相当恥ずかしいことを言っていることは、重々承知している。

だけどここまで言わないと、わかってもらえない。

逆に言えば、ここまで言われても気づけないほど、ハルの生活の全てに僕の生活が組み込まれているということだ。


ハルは少し考えてから、静かに言った。


「つまり、碧樹にはもう、私は必要ないってことなの?」


僕はゆっくり首を振って、答えた。


「そうじゃないよ。

ハルはこれからも俺にとって、大事な幼なじみに変わりはないんだ。

だけど、もう、俺が子供でいる時間は、終わったんだと思う」


テーブルの上で握りしめた手が震えているのが見えた。


ハルが泣いている。


僕が泣かせてしまった。


ここまで言うつもりは無かったんだ。

ましてや、泣かすつもりなんて…


喉の奥から、こみ上げてきた後悔を、ぐっと飲み込んだ。


「ハル」


何か言わなくちゃ、と思って顔を上げると、ハルは僕の顔を見ずに言った。


「わかった」


「え」


「もう、明日からお弁当作らなくていいんだね。

朝寝坊できるし、自分の支度もゆっくりできる。

学校も別々に行って、それぞれの友達と遊んで、別々に帰る。それでいいのね?」


まるで業務事項のように確認されて、少しひるんだ。


「う、うん。そうだけど…ハル?」


握りしめた両手を見つめながら、ハルは


「おーけー。大丈夫。碧樹は、大丈夫」


小さな声で、唱えるように言った。


「ハル、これだけは言わせて。

俺、本当に感謝してるんだ。

ダメダメだった俺の事、何年も面倒見てくれて。

本当に今まで、ありがとう」


ハルは大きく首を振った。それで大きな涙の粒がこぼれた。

だけどそんなことに気付いてもいないみたいに、顔を上げて言った。


「碧樹はダメダメなんかじゃない。

私に感謝なんてしなくていいの。

私は…私がしたかったことをしてきただけ」


そう言うと、初めてこぼれた涙に気付いて、慌てて指で頬を拭いた。


小さなバッグをつかんで立ち上がると


「今日は、先に帰るね。

あ、こういうお店とかにも、もう誘っちゃいけないのかな」


と、遠慮がちに聞いた。


「そんなことないよ。ハルとはこれからも友達でいたいし、全然誘ってよ」


「うん…わかった。じゃ、またね。

今日はご馳走様」


「うん。じゃ」


軽く手を振って、ハルが席を離れた。


ドアを出るまで、一度も振り返らなかった。



恋人同士の別れ話って、こんな感じなのかなって思いながら、すっかり冷めてしまったパンケーキをつついた。


少なくとも、こんな感じの良いお店でしていい話ではなかったよな。


ハルの涙を思い出して、胸が痛くなった。


一人で反省していると、入り口からカツカツと、靴の音が近づいてきた。

僕の席の左側で立ち止まったので、そちらを見上げた僕と、その人の目が合った。


「え?!」


「やっぱり、いた」


僕は馬鹿みたいに口を開けていたと思う。

そこにはにこやかに笑う、相沢先生が立っていた。


「え、どうして?やっぱりって…」


僕が驚いて聞き返すと、先生は言った。


「お店に入ろうとしたら、杉山さんとすれ違ったの。

一人でいたから、もしかして市原君が一緒だったのかなって」


「あ。そうです。ハルは先に帰るって。

あ、良かったら、ここどうぞ」


さっきまでハルが座っていた椅子を示すと、先生は


「あら、いいの?ありがとう」


と、ためらいなく座った。


僕はハルが食べ終わった食器とグラスをテーブルの端に寄せて、先生の向かい側からメニューを差し出した。


「ありがとう。何がおいしいのかな」


「先生も初めてですか?僕も今日初めて来たんです。この、プレーンパンケーキ、おいしかったですよ」


メニューを指差して教えると、先生は


「そう、じゃあ私もそれを頼もうかな」


店員さんを呼んで、プレーンパンケーキとコーヒーを頼んだ。


「それで、大丈夫なの?」


「え。大丈夫って?」


先生が頭に手をやって、ここ、と示すので


「ああ!たんこぶ!」


と大きな声を出してしまった。


「全然大丈夫。もう、完治です」


「ほんと?良かった。気になっていたの」


「僕はもう忘れていました」


そう言って笑うと、先生はあらたまった感じで


「気になりついでに、もうひとつ、いい?」


と、言った。


「杉山さん、さっき泣いていたみたいだったけど…どうかした?」


見られていたか。


だいぶ気まずいけど、少し話を聞いてもらおうかな。

女の子を泣かせた話なんて、あんまりかっこよくないけど。


僕は、頭の中を整理しながら話し始めた。


「実は…ハルと今後のことを話していて」


「今後のこと?」


「僕ら、ちょっと離れてみないかっていう提案というか」


「あら」


「今までハルがしてくれたことには感謝してるけど、もう十分やってもらったから、これからは自分のことを一番に考えてくれって言いたかったんだけど…うまく言えなくて。

お弁当も、朝起こしに来るのも断ったんです。

そしたら泣かせてしまって…」


「朝も、起こしに来てくれてたの?」


「え?あ…」


余計なことを言ってしまった、と思ったけど、もう遅いな。


「はい」


さすがに恥ずかしくなって、うつむいた。


「でも、最後はわかってくれて、これからは登下校も別々にするし、お互い友達との時間も大切にしようって」


「そう」


先生は運ばれてきたコーヒーを、手元に引き寄せた。

小さなカップを顔に近づけると、軽く香りを嗅いでから、ブラックのまま口につけた。


「ブラックなんですね」


僕が言うと


「そうなの。似合わないって言われるんだけどね」


「すごいな。僕は苦くて無理です」


「ふふっ。実は牛乳が苦手なの。だから入れないだけ」


その言葉にも驚いた。

そんなところまで、僕の母さんと同じだったから。

牛乳が嫌いで、学校の給食の時は息を止めて飲んだって言っていたっけ。


先生は、カップを置くと、やわらかな声で話し始めた。


「杉山さん、市原君がそんな風に思っていたって気が付かなくて、ショックを受けたんだと思うな。

ずっと子供だと思っていたのに、急に大人びたことを言われて、びっくりしちゃったのね、きっと。

人って長く一緒にいればいるほど、固定観念ができちゃうものだから。

長く変わらなかった二人の関係が、突然壊れてしまうのは怖いものね」


「そうなのかな」


「でも、市原君もよく決心したね。その関係を壊す方も、勇気がいたでしょう」


「確かに…そうですね。

僕は今までハルに甘えっぱなしだったから。

正直、明日からお昼どうしよう?とか、本当に自分で起きられるのか?とか。

不安しかないですけど」


「あはは。そうよね。自分でそれをやってみて、初めて杉山さんのありがたみがわかるんだと思うわ。

市原君が独り立ちするには必要なことかもしれないけど、急に他人のようにならないでね。

杉山さんにとっても、市原君の存在は大きなものだったはずだから」


「そうですね」


「明日から、大変ね!」


先生は明るくそう言うと、ちょうど運ばれてきたパンケーキを見て、嬉しそうに笑った。


「すごいね、これ。おいしそう」


その笑顔は子供みたいで、とても可愛かった。


「先生は、今日はここに来るのが目的で?」


と聞くと


「ううん、今日はね、極楽寺に行って来たの」


と言った。

そういえば、初めて先生に会ったのは八幡様だった。


神社仏閣めぐりが趣味なのかな。


「鎌倉に住むのは、初めてですか?」


「子供の頃にね、少しだけ住んでいたことがあって。

父の転勤で、三年ぐらいかな。

懐かしくて、あちこち見て回っているの」


そうだったんだ。


僕は、源氏池で佇んでいた先生の姿を思い出していた。

遠くを見るような目で、桜を見つめていた先生。


あれは、遠い日の思い出を探していたのか。


なんだかすごく、寂しそうに見えたけど。


先生のことを、もっと知りたくなった。


「他にも、行きたいところありますか?」


「そうねぇ。来週はどこに行こうかな。

桜は昨日の雨で終わっちゃったし。

ちょっと歩くけど、銭洗い弁天とか」


「あ、それ!僕、案内します」


考えるより先に言葉が出て、自分でもびっくりした。


「え?市原くんが?」


「任せてください、地元なんで。今まで何十回行ってることか。

そこなら完璧に案内できます」


「えー、でも悪いなぁ。せっかくのお休みなのに」


「いや、暇なんで。僕もお寺巡り好きで、よく一人でも行くんですよ。

あ、この前頂いた、お弁当のお礼です」


これを言えば、先生も断れないだろうって思いついて、勢いで言った。


「そう?じゃあ、案内してもらおうかな。

あ、何か予定が入ったら、遠慮なく言ってね」


「はい!」


やった!

日曜日に一緒に出掛ける約束を取り付けた。


ちょっと、自分で自分が信じられない。こんな大胆なことができるんだ。

さっきまでの不安が嘘のように無くなって、明日からの学校が楽しみになった。


江ノ電の長谷の駅で、先生と別れた。


「じゃあ、明日学校でね」


「明日保健室、行ってもいいですか」


「そうねぇ。じゃあ休み時間に、また頭を冷やしにいらっしゃい」


とっくに治ってるけど、たんこぶを冷やすという大義名分で、僕は保健室の出入りを許可された。

これでまた、明日も会える。


そんな嬉しい気持ちを顔には出さないように、行儀よくさよならを言った。








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