第4話 常盤

 翌朝、学校へ着くと、みんなジャージに着替えていた。


今日は球技大会だ。

僕も急いで着替えて、準備をした。

サッカーチームはグラウンドに集合だ。


さっきハルに、しつこいくらい言われたので、日焼け止めクリームを塗ろうとリュックのポケットを漁った。


あれ?忘れたかな?


いつもの場所に入っていなかった。

まぁいいや、とすぐにあきらめて、昂太と一緒に外へ出た。


僕の肌は、人より日差しに弱いらしい。


子供の頃は何も気にせず、外で遊び、海で泳いだ。


すると日に焼けた肌は、すぐに赤く腫れ上がって、その夜には熱を持ち、ひりひりと痛くなった。

シャワーはもちろん、お風呂のお湯も痛くて浴びることができない。


母さんに、ビニール袋に入れた氷を当ててもらって、背中や肩を冷やしてもらった。

二、三日は着替えも痛くて辛いのに、しばらくするとまた忘れて遊びに行く。

やがて肌の皮が剥け、新しい皮膚が出てくるころに夏が終わる。


子供の頃は、それが当たり前だと思っていた。

みんな夏は肩や背中の皮が剥けるもんだって。


でも違った。


少なくても、ハルとナツの姉妹は一度も皮が剥けたことはないし、地元の友達はたいてい真っ黒に、きれいに日焼けしていた。


僕のように、まだらにピンクの皮膚が露出して、冬にはまたすっかり白くなる子は、あまり見かけなかった。


母さんは同じ肌質だったので、予防もアフターケアもよくわかっていたけど、碧樹は男の子だし、そんなに肌を気にしなくてもいい、と考えていたのだろう。


真夏は日射病にならないように、必ず帽子をかぶせたけど、日焼けのことはあまり言われた覚えがない。


ハルが異常に気にし出したのは、テレビ番組の影響だ。


オーストラリアでは、皮膚癌になる人が多いという特集だった。

人類の環境破壊によって、オゾン層に穴が空いたせいで、今の紫外線は人体に悪影響を及ぼす。

特に白人の皮膚は影響を受けやすく、皮膚癌になる確率が高い、というものだった。


ハルが中学の時にたまたま見た番組だったけど、すぐに僕に教えてくれた。

そう言われても僕は


「色白と言っても、白人じゃないし」


と、最初は聞き流していたが、ハルが話す症例がリアルで、僕もだんだん怖くなり、それ以来日差しが強い日は、日焼け止めクリームを塗っている。

ちなみに、その年の僕の誕生日にハルがくれたプレゼントは、日除けグッズだった。


グラウンドへ出ると、雲一つない青空が広がっていた。


これはやばそうだな。


日陰を探してみたけど、高校のサッカーグラウンドにそんなものはない。

まだ四月だし、そんなに気にしなくても大丈夫だろう。


そして、球技大会が始まった。


どうせ補欠だから、応援をがんばろう。


そう考えていたのに、予想外のことが起きた。

サッカー経験者は、昂太以外に三人しかいなくて、僕は完全に充てにされていた。


「体育の授業ぐらいでしか、やったことないよ!」


という僕の言葉は、理系クラスの非体育会系メンバーの中で、静かに無視された。

なんと最初からレギュラー出場、それも一番走らされるポジションに押しやられた。


「元水泳部なら体力あるだろ」


いやいやいや、もう一年以上まともに泳いでないからね。


サッカー部の試合ではないから、前後半二十分ずつのショートタイムだった。


だけど僕は、いったいどうすればいいんだろう?

新しいクラスで、昂太以外にまだ友達もいないのに、あまり情けない姿は見せたくなかった。


不安しかないよ・・・


憂鬱な気持ちで、サッカーグラウンドに足を踏み入れた。



ところが、始まってみたら予想外に楽しかった。


なぜなら、相手チームも寄せ集めのポンコツだったから。


お互いに初めは探り合いで、思いがけず自分にパスが回ってくると、びっくりしてすぐに味方にパスする。

それがあっさり通るから、味方の位置さえ把握してれば、面白いようにパスがつながった。


素人同士の、奇跡の試合展開。


その中で、昂太のパフォーマンスは飛びぬけていた。


どんな球でも昂太につなげば、魔法のようにゴールポストに吸い込まれていく。


神ですか。


相手のキーパーもびびって避けるほどの、剛速球シュート。

前半だけで8点を入れた頃には、相手のチームが少し気の毒になってきた。


そんな調子で、僕らのチームは午前中の3試合を勝ち抜いてしまった。


対戦相手も一年のクラスが多く、この前まで中学生だった彼らの、まとまりのなさも幸いした。


こんなに走ったのは、いつぶりだろう。

半袖の体操服の上に、背番号がついたビブズを付けた状態で、水道水で顔を洗った。


「碧樹!」


呼ばれて振り返ると、ハルが校舎の窓から手を振っていた。

となりに宮内理恵が立っている。


「まさか、勝ち残ってるの?」


「その、まさかだよ」


「まじで?!すごいじゃん!」


「100パーセント、昂太のお蔭だけどね」


「じゃあ、午後も試合だね?」


「うん。そっちは?」


「勝ってるよ、もちろん!理恵は元バレー部なんだよ。どんな球を上げても打ち返してくれるから、もう負ける気がしないよ」


「へぇ。女版、昂太だな」


そこで理恵を見ると、少し恥ずかしそうに目をそらした。

実は、かくれ体育会系だったらしい。どうりでハルと気が合うわけだ。


「碧樹、顔赤いよ。ちゃんと日焼け止め塗った?」


しまった。ばれたか。


「いやー、今日忘れちゃってさ。まだ夏じゃないし、大丈夫だろ」


と言うと


「えー!だめだよ。これぐらいの時期が、一番紫外線が強いんだって。

私のクリームを教室から持ってくるから、待ってて」


走って行こうとするハルに


「いいよ、ハル!もう行かなきゃいけないから。そっちも頑張れよ!」


と言って手を振って、グラウンドに戻った。


思いがけず勝ち進んだことでクラスが盛り上がり、外の芝生でお弁当を食べることになっていた。


早々と負けてしまった女子も合流している。

担任の畠山先生は大喜びで、もし優勝したら全員にアイスをおごってくれると約束した。



午後の試合は、3年生のクラスが相手だった。


昂太の部活の先輩が2人もいるチームで、やりにくそうだった。


昂太以外に現役サッカー部のいない僕らのチームは、彼らのしつこいディフェンスを振り払うことができず、ボールを奪われた。

それでもなんとか食らいつき、1点差で前半を折り返した。


短いハーフタイムで作戦を練った。

だが、もうみんなの体力は限界に近かった。

僕も膝ががくがくと震え、走るとふくらはぎがつりそうになる。


そんな新兵たちの様子を見て、急に昂太が笑い出した。


「はははっ おまえらすげぇよ。

こんな急ごしらえのチームで、ここまで勝てたことがすげぇ」


それでみんなの緊張がほどけた。


「そうだよな」


「でも俺、こんなにサッカー楽しいと思ったの、初めて」


「俺も」


「なんでもっと動かねーんだ、この足!って悔しくて」


「もっと運動しとくんだったな」


それぞれの思いを言い始める。


それを聞いて昂太は


「俺さ、幼稚園からサッカーやってるんだ。だけど、こんなに点入れたの、今日が初めてだよ。ハットトリック、何回やったと思う?

絶対に今日が、俺の生涯最高得点日だと思うよ」


「それは間違いないだろうな」


と、僕が言うと全員が笑った。


「だからさ、あとは楽しもう。

おまえらがサッカーやるの、楽しいって思ってくれただけで、俺は嬉しいよ」


昂太がそう言うと、誰からともなく円陣を組んだ。


「二年三組、ファイトー!!」


「ファイトー!!」


応援している卓球チームと女子チームも、一緒に声を出した。

僕の人生の一ページに『青春』と名付けるページがあるとしたら、まさにここだろう。


そして、試合再開の笛が鳴った。



結果は、どうなったのか、僕は知らない。



なぜなら、後半十分頃、僕の両足ふくらはぎが同時につるという、信じられない事態が起こり、その場に倒れこんだから。


僕の両足は、僕の意志とは関係なく痙攣し、自力で立ち上がることはできなかった。


「大丈夫か、碧樹!」


昂太が駆け寄ってくる。


手慣れた感じで僕の足をつかみ、つっている個所を伸ばそうとする。

だけど、ここまで来たのに、僕のせいで試合を中断したくはない。


「大丈夫だから。おまえは試合に戻って」


と言うと、試合を見ていた畠山先生が、僕をおぶってコートの外に連れ出してくれた。

畠山先生は、四十歳代の、男の数学教師だけど、柔道有段者で体が大きい。


応援団のいる所で僕を下すと


「市原、担架を持ってくるから、ここで待ってろ」


と言った。


え?担架?


担架って、よくサッカーの試合で見るやつだ。

怪我をした選手が運ばれている映像が目に浮かんだ。


「いや!先生、大丈夫です。もう収まってきました。歩けますから」


僕はそんな大げさな退場はごめんだった。


自分でふくらはぎをマッサージすると、右足は大丈夫そうだった。

まだ少し痙攣している左足をかばいながら立ち上がると、先生が肩を貸してくれた。


そして、ゆっくりと歩き出す。


保健室に向かって。



保健室の場所は知っていたけれど、入るのは初めてだった。


高校の保健室は、体育や部活で怪我をしない限り、縁がない。

ノックをしてドアを開けると、消毒薬の匂いがした。


「相沢先生!」


畠山先生が声を掛けると


「はい」


と返事が聞こえて、奥から白衣を着た若い女性が現れた。



え?


僕の目は、またその顔に釘付けになった。

僕の母さんとそっくりな、その人の顔に。


なんで、ここに、この人が、いるの


声も出せずにかたまっている僕に構わず、畠山先生は話を続けた。


「サッカーで生徒が足をつりましてね。痙攣がおさまらないので診てもらえますか」


「わかりました。こちらへ」


と、その人は部屋の真ん中にある白いカーテンを引き、その中のベッドを手のひらで指した。


畠山先生は僕を肩に掴まらせたまま、ベッドの方へ進み、僕を腰かけさせた。


その人は僕の足元にしゃがみ、ふくらはぎに手を当てた。

温かい手だった。


「つったのはどっち?」


と聞かれたので


「り、両方です」


と言うと、目を丸くして僕を見上げ


「両方いっぺんにつっちゃったの?」


と聞いた。


うなずくと、にっこり笑って


「すごく、がんばったのね」


と言ってマッサージをしてくれた。


「じゃあ、先生は試合に戻るからな。相沢先生、あとお願いします」


「わかりました」


というやりとりがあり、畠山先生は出て行ってしまった。


僕は、その人と二人きりになった。


今は、名前を持ったその人と。


昨日初めて会って、こっそり撮った写真を一晩中眺めていた、その人が、今僕の足をマッサージしてくれている。


いったい、何が起こっているんだろう?


あんなに、もう一度見たいと思っていた顔が、今目の前にある。

しかもどれだけ見つめても、不自然じゃない状況で。


僕は、昨日とは違う、斜め上の角度から相沢先生の顔を見つめた。


まつ毛が長い、と思った。


母さんはどうだっただろう?


子供だった僕は、いつも母さんを下から見上げていた。

こんなふうに上からまつ毛を見ることは、あまりなかったと思う。


すっと通った鼻筋は、よく似ていた。

どちらかというと小さくて、鼻の先がこんなふうに…


僕の思考がそこまで行った時、急に先生が顔を上げた。

僕の心臓が跳ね上がった。


「どう?痙攣はおさまったみたいだけど」


いきなり現実に引き戻されて、慌てて目をそらした。


「あ、はい。あの、ありがとうございました」


「立てそう?」


そう聞かれて、まだここにいたかったので、咄嗟に


「いや、まだちょっと…」


と言うと


「そうね。じゃあ湿布をはるから、待ってて」


と、立ち上がった。


今度は、歩き回る姿を目で追った。


昨日着ていた、水色のスプリングコートもよく似合っていたけど、今日の白衣はどうだろう。


セミロングの髪を後ろで結んで、白衣の袖口を折っている。

襟元からは、ハイネックの白いニットが見えていた。


下は足首までの、紺のパンツに、上履き替わりの白いサンダルを履いている。

私服の時と雰囲気が変わり、清潔感があふれていた。


「保健の、先生だったんですね」


思わず口にしてしまった。


「え?」


と相沢先生が振り返った。


「いえ、なんでもないです」


昨日八幡様で見かけた、と言ってしまおうかと思ったけど、後ろを追いかけて行ったり、写真を撮ったりしたことがバレたら困るので、やめておくことにした。


先生は棚から湿布とテープを取り出すと、僕のふくらはぎを丁寧にテーピングしてくれた。


「何年生?」


「二年です」


「畠山先生のクラス?」


「はい。二年三組」


「名前は?」


「え」


「名前。名簿に書かなきゃいけないから」


そう言うと、机の上からバインダーを取ってきて、僕に渡した。


そこには『保健室 利用者名簿』と書いてあった。

僕はそこに、紐でつながれたボールペンを使って、名前を書き込んだ。


『二年三組 市原碧樹』


バインダーを受け取ると、先生は


「市原…あおきくん?」


と、僕の名前を呼んでくれた。


はいっ!と返事をしようとした瞬間、ばんっ!と保健室のドアが開けられた。


「碧樹、いる?!」


入ってきたのは、ハルだった。


ベッドに腰掛けている僕を見ると


「碧樹!大丈夫なの?」


と駆け寄ってきた。


「大丈夫だよ。足がつっただけ」


と言うと、テーピングされた僕の両足を見て


「え?両足つったの?」


と大声で言ったので、急に恥ずかしくなった。

すると、赤くなった僕の顔を見て、今度は


「やだ、顔真っ赤じゃん!だから日焼け止め塗ってって、あれほど言ったのに。

首も腕も、こんなに焼けちゃって」


あー、もう止めてくれよ。


先生の前で子ども扱いされるのは、耐えられなくて、僕はますます赤くなった。


「あなたは?」


先生に声を掛けられて、我に返ったのか、急にしっかりした声で


「あ、すみません。二年七組の、杉山春陽です。碧樹がお世話になりました。もう帰れますか?」


と聞いた。


「ええ、大丈夫よ。ね?」


にっこり笑って僕に言うので、


「はい」


と答えて、仕方なく立ち上がった。


少し違和感はあったけど、テーピングのお蔭で歩くのも大丈夫そうだ。

僕の肩に手を回そうとしたハルを


「大丈夫だから」


と制して、ドアに向かって歩き出した。


そこで立ち止まって振り返ると、先生の顔を見た。

つられて、ハルも先生の顔を見ている。


「相沢先生、ありがとうございました」


と言うと、先生は


「お大事に。市原くん」


と言ってくれた。

廊下に出ると、ハルが首を傾げながら


「ねぇ、今の先生、誰かに似てない?」


と言った。


「さぁね」


と僕はとぼけて、教室へ向かった。



教室へ行くと、サッカーチームのみんなが待っていた。


昂太が駆け寄ってくると、


「碧樹、大丈夫か?」


と心配そうに言った。


「いきなりあんなに走らせて、悪かったな」


と言うので、


「いや、俺もさ、まさかあんなに勝ち進むと思わなくて。最初からマックスで走っちゃったから。さすがにもたなかったよ」


と笑ってみせた。


「いや、お前はよく頑張ったよ。みんなもよくやった」


昂太は、そう言うと振り返って、メンバー全員を見回した。


「おかげで、俺たちは勝った!」


すると、全員が


「うおーっ!!」


と、雄たけびをあげた。


「え?!勝ったの?」


僕はびっくりして聞き返した。


「勝ったんだよ!最後同点に追いついてさ、PKまでいったんだ。

そしたら相手のゴールキーパーがポンコツでさ。

うちのキーパーの齋藤は中学までクラブチームに入っていたから、止めまくってくれた」


「まじかよー!俺もPKやってみたかったなぁ」


と言うと


「いや、俺のはまぐれだから」


「俺は外しちゃったし」


「ど真ん中に蹴っちゃったときは、やべぇって思ったけど、キーパーがポンコツでまじ助かったわー」


など、それぞれがPKを蹴った時の話で盛り上がった。


昨日まで同じ教室にいても、ほとんど話したことがなかったクラスメイト。

こんなふうに仲良くなれると思っていなかった。


お互いに連絡先を交換し、すぐにグループラインができた。


これで、明日は準決勝だ。


勝てば決勝。負けたクラスは、三位決定戦になる。

要するにベスト4に残ったんだ。


あの、僕たちのチームが。


考えただけで興奮してくる。


でも、一晩寝たぐらいで、明日は全力で走れるだろうか?


経験がないので、どうなるか全くわからない。

自分の若さを信じて、今日は早く寝よう。


そう思って帰ってきたのに、保健室の出来事が頭をかすめる。


お風呂に入る時、テーピングをはがすのが、ちょっと嫌だった。


このままラップをして、濡らさないようにシャワーを浴びようかな?

そう思ったけど、あれだけ汗をかいたのだ。

ちゃんと洗って、お風呂にも浸かりたかった。


シャワーを浴びると、日に焼けた腕と首回りが痛かった。

ここもあとで冷やさなきゃ。


お風呂から上がると、自分でふくらはぎに湿布を貼った。

筋肉痛を恐れて、太ももの周りにも貼った。


腕と首回りには冷却シート。

ミイラ男の出来上がりだ。


自分の部屋に戻ると、充電中のスマホを確認した。

大量の通知が来ている。

グループラインが盛り上がっていた。


『明日は早く学校へ行って、軽く朝練しようぜ』


と、言い出したのは、最初サッカーチームに入るのを嫌がっていた長谷川だった。

たった一日で、こんなにも人って変わるものなのか。


全員が賛成したので、明日は朝練で決まりだ。


そのままハルにメッセージを送った。


『明日は朝、起こしに来なくていいよ。お弁当もないし』


明日は午前中で終わる日程だった。

すぐに返信が来た。


『どうして?』


『サッカーの朝練やるから』


『何時起き?モニコだけしてあげる』


モニコとは、モーニングコールのことだ。


朝、電話で起こしてくれるという、ありがたい申し出だった。


だけど、僕は断った。


『自分で起きれるから大丈夫。おやすみ』


ちょっと強引に会話を終わらせてしまった。

ハルからの返信は、少し間があった。


『わかった。明日、頑張ってね。おやすみ』


それから僕はスマホのアラームを、6時にセットした。


明日がどんな日になるのか、楽しみで仕方ない。

こんな気分で眠るのは、多分生まれて初めてだった。



その日、僕は筋肉痛に起こされた。


ベッドで寝返りを打つのも一苦労だ。


「いててててっ」


声を出しながら、思い切って足を上げ、下す時の反動で起き上がった。

時間は6時1分前。


目覚ましのアラームが鳴る直前に起きるなんて、信じがたい。

遠足の日の朝みたいだ。


いつものように二十分ぐらいで支度して、家を出るつもりだったのに、体が痛くて素早く動けない。

階段も一段一段、ゆっくりと下りて、洗面所に向かう。


朝ごはんを食べていたら、集合時間に間に合わない。

支度してくれていたおばあちゃんに謝って、麦茶だけ飲んで玄関を出た。


高校に入ってから、朝一人で登校するのは初めてだった。


いつも隣にいるハルがいない。


ちょっと物足りない感じもしたけれど、軽い解放感のようなものも味わっていた。


いつもより大分早い時間の江ノ電は空いていて、同じクラスの奴らと次々と合流した。


みんな同じように筋肉痛で、同じように頭に寝癖がついていて、痛いとか眠いとか言いながらも、楽しくて仕方なかった。



教室で着替えてからグラウンドへ出ると、他のクラスのチームも朝練を始めていた。


「みんな意識たけーな」


「やばーい、俺走れるかな」


「相手も筋肉痛で、同じ状態なことを祈ろう」


それぞれの心配を口にしながら、昂太の真似をしてストレッチに励んだ。


ふくらはぎを伸ばすのは、ちょっと怖かった。


またつったらどうしよう?

あの痛みを思い出すと、無理はしたくなかったけど、また保健室に行けるかも…というかすかな期待もあって、なるようになれ、という気持ちだった。


今日は午前中に二試合。

準決勝と、決勝だ。


準決勝で負けたら、三位決定戦になる。

勝ち残っているクラスは、現役サッカー部員が何人かいるチームばかりだ。


うちのチームの経験者は、現役ストライカーの昂太と、中学までクラブチームにいた、キーパーの齋藤、小学校まで地元リーグにいた塩崎と田村だけ。

この二人はディフエンスにまわってもらう。


僕を含め、それ以外のメンバーは、ポジションとか言われてもよく分からない。

ひたすら走って、パスが回ってきたら味方につなぐだけだ。


あとは昂太の声だけ聞いていればいい。


昨日は替えの選手が2人しかいない13人のチームだったけど、今日は卓球チームからメンバーを借りてきても良いことになっている。


「足がつらかったら、先に交替させるから言えよ」


と言われて、少し気が楽になった。

みんなで並んでグラウンドをランニングすると、すっかり気分は運動部員だった。


軽く、パス回しの練習なんかもしたりして。


試合の前に、今日はちゃんと日焼け止めを塗ろう。


スポーツドリンクやタオルも、昨日のうちに用意している。

昨日の朝とは全く違う、自分の意識の高さに驚いていた。



いよいよ、試合が始まる。


準決勝の相手は、同じ学年の2年6組。文系クラスだ。


去年同じクラスだった奴が何人かいた。

サッカー部員は3人だけど、陸上部やバスケ部など、体育会系のがたいがいい奴ばかりだ。


少し気おくれしつつも、僕たちのやる気は十分だった。


ところが、始まってみると、昨日みたいにうまくまわらない。


思い切って蹴ったボールは、途中でカットされ、相手チームへ運ばれてしまう。

なかなか昂太までボールをまわせず、我慢の時間が続いた。


唯一の頼みの綱は、ゴールキーパーの齋藤だ。

クラスで一番背が高く、手足が長い齋藤は、守備範囲が広い。


中学までクラブチームにいたというだけあって、完全に勘を取り戻していた。

息を飲むようなシュートを打ち込まれても、素晴らしい反応で止めてくれた。


そのたびに、女子の黄色い声援が飛ぶ。

そちらに軽く手を振って見せる余裕すら見せている。



今日の神は君だ。



僕はこっそりつぶやくと、前半終了の笛の音に救われ、ため息をついた。


前半は〇対〇。

前半に一点も取れなかった試合は初めてだ。


だけどそれは昂太のせいではなく、ふがいない僕らのせいだ。

気落ちしている僕らを見て、昂太は言った。


「あのさ。昨日のやり方じゃ、今日は勝てないと思う。

守りは齋藤に任せてさ、全員で攻めにまわってみない?」


全員で攻め?


「それ、俺らもシュートしていいってこと?」


「もちろん!もともとサッカーってそういうゲームだよ。

誰でもゴールしていいんだ。

てかさ、俺にばっかボールを集めようとするから、タカやジュンに邪魔されてシュートが打てない。逆に俺がディフエンスを引きつければ、誰かが抜けられるはずなんだ」


と、いつもはチームメイトで一緒に戦っている友達の名前を挙げて、指摘した。


「なるほどね」


「難しい作戦はできないから、それでやってみるか」


何人かが答えた横で


「でも、お前はそれでいいの?」


と、僕は昂太に尋ねた。


「もちろん。俺に遠慮しなくていいよ。

この試合はさ、クラス対抗の球技大会だよ。

主役は俺でも、齋藤でもない。チーム全員だろ?


これがもしもサッカー部の地区予選の準決勝だったら、話は違うよ。

絶対に負けられないから、本気の作戦立てるし、チャンスは誰にも譲らない。


でも、ビギナーズラックでここまで来ちゃったこのチームにはさ、失うものなんて何にもないだろ?だったら少しでも勝てそうな可能性にかけて、やるだけやって、全員が楽しく終わりたいじゃん」


この、昂太の漢気あふれるスピーチを聞いて、僕らは一瞬静まり返った。


「か、かっけー…」


と、最初に声を出したのは長谷川だった。


「うん、やっぱ一途にスポーツをやってきた奴は違うな」


そう言ったのは、小学校で挫折した田村。


「俺もさ、サッカー大好きだった頃の自分を思い出して、今超楽しいんだ。援護射撃は俺に任せて、好きなようにやんなよ」


と、齋藤も言ってくれた。


これがチームプレーってやつなんだな。


僕は素直に感心していた。


水泳は個人競技だ。自分の記録との戦い。

野球やサッカーは違う。誰か一人だけ上手くても、チームが勝つことはできない。



僕らは再び円陣を組むと、気合を入れ直した。



後半戦は、全く違うチームになったみたいだった。


昂太へのパスは無理せず、つながればラッキー、ぐらいの気持ちで。

それよりも自分自身が、前へ前へと出て行く気持ちが強くなった。


気が付くと、さっき自分がいた場所よりも、ゴールポストに近い場所に移動している。


あと五分ほどで後半も終わるかという時間になった。


みんながボールのある方に集中していた。

ふと、フリーになっていた僕は、ゴールポストの左側へ走りこんだ。


右側にいる昂太に、張り付いていた相手のディフェンス…確か名前はタカだ。

そのタカが、慌てて僕の方へ飛んでくる。


見ると、塩崎がドリブルで運んできたボールを、僕の方へ蹴るところだった。


「昂太だ!」


僕が叫ぶと、塩崎は咄嗟の判断で、昂太の方へ蹴り出したが、勢い余って高く浮き、ボールはゴールポストの上のバーに当たって、跳ね返った。


僕の方に。


どうするか、考えるより先に体が動いていた。


跳ね返ったボールめがけて、斜めに体を投げ出した。

ヘディングなんて、やったことないんだけど。


僕の隣で、一瞬遅れて飛び上がったタカが、頭を寄せてくる。


なぜか、スローモーション。


僕の方が少し背が高かったのか、ジャンプ力があったのか分からないけど、

ボールは僕の頭に当たり、ゴールポストの左側の角に吸い込まれた。


「うおー!!!」


という歓声を聞いたと思った瞬間、投げ出された僕とタカの体は重なるように落下し、下になった僕の頭に、何か硬いものが落ちてきた。


ガツンッ!!


恐ろしい音がして、目の前が真っ暗になった。

そのあとは、目の裏がチカチカした。


「おいっ!大丈夫か?おい!」


僕を揺すっているのは誰だ?

頭が痛すぎて、何も考えられない。


「碧樹!おい、しっかりしろ!」


今度の声は、昂太だ。


いつもの声。だけどちょっと嬉しそうだ。


「碧樹!すげぇよ、おまえ!やったな」


え?何が?


僕はやっとうっすらと片目を開けた。左側に心配そうなタカの顔。

そして右側では喜々として僕を見下ろす昂太の顔があった。


それで、僕の、おそらく人生最初で最後のヘディングシュートは、見事に決まったらしいと知った。


「勝ったの?まじで?」


僕が聞くと


「勝ったんだよ!まじで!」


と、昂太は答えてから


「あ、お前は起き上がんない方がいいぞ。今先生が担架持ってくるから」


え?!担架?!それだけは嫌だ、と起き上がろうとしたけど、頭が痛すぎて無理だった。


「痛いだろ?こいつ石頭なんだよ。今まで何人倒してきたか」


タカの方を指差して、言った。


指を差されたタカは、申し訳なさそうに


「ごめんな」


と言った。


とうとう僕は担架に乗せられてしまった。


ゴールを決めたヒーローの退場は、注目の的だった。


とっくに意識があったけれど、恥ずかしくて頭を上げられない。

でも、僕の周りに集まった仲間たちがみんな笑顔だったので、僕も嬉しかった。


こんな状態では、僕は決勝戦には出られない。だから昂太に


「あとは頼んだ」


と言うと


「まかせろっ!」


と力強く答えた。


救急車を呼ぼうと言う畠山先生を、大丈夫ですから、と必死に止めて、保健室へ運んでもらった。



僕が今行きたい場所は、そこしかなかったから。



二日続けて同じ生徒が担ぎ込まれて来たら、先生は何て思うだろう。

運動神経が足りない、どんくさい生徒と思われるかな。


少なくても、顔と名前は憶えてもらえるだろう。


ズキズキする頭を左手で抑えながら、保健室まで運ばれて行く僕は、誰にも気づかれないように笑っていた。



 保健室に着くと、先に連絡を受けていたのか、昨日のベッドにすぐに横になれるように用意されていた。


僕は担架を運んでくれた畠山先生と、六組の石田先生に手を貸してもらって、ベッドに横になった。


「頭を打っているので、必要なら病院へ連れて行きます」


と、畠山先生が言うと、


「わかりました。少し様子を見て、お知らせします」


と答える、相沢先生の声が聞こえた。


「じゃあな、市原。また後で様子を見に来るから。決勝までいけたのに残念だけど、みんなお前の分も頑張ってくれると思うから」


と、僕に声を掛けて、二人の先生は出て行った。


相沢先生が、濡らしたタオルを持って来ると、僕の頭へ手を当てた。


「どこらへん?」


僕は自分で左側の側頭部を触って見せた。


「いてっ…」


「あ、ここね。すごい、たんこぶになってる」


そう言うと、患部に冷たいタオルを当てて、冷やしてくれた。


「血は出てないから、切れてはいないわね。頭同士でぶつかったの?」


「はい。ヘディングで競り合って」


「相手の子は、大丈夫だったの?」


「はい。石頭で有名な奴らしくて」


僕が大真面目に言うと、先生は笑いだして


「石頭で有名って面白いね。じゃあ市原君は、今日は石頭にやられちゃったのね」


と言った。


やった!名前を憶えてくれてた。僕は思わずにやけそうになった顔を引き締めた。


「足は、もう大丈夫なの?」


「はい、今日はもう普通に走れました」


「球技大会なのに、頑張ったね」


そう言って笑いかけてくれた時、昔母さんに褒めてもらったことを思い出して、ちょっと胸が苦しくなった。



その時、ギュルギュルーっという音が聞こえた。


僕のお腹からだった。


え?なんで今?


その音は、バッチリ先生にも聞かれたらしく


「あら?お腹空いてるの?まだお昼には早いけど」


と言われて、僕は恥ずかしくて目を伏せた。


「今日、朝練やったから早起きして。朝ごはん食べてないんです」


「そうだったの。今日は午前中で終わる予定だから、お弁当持ってないよね」


「はい。大丈夫です。さっきまで全然お腹空いてなかったんだけどな」


お弁当という言葉が出た途端、僕のお腹は、限界だったことに気づいてしまった。

ギュルギュル言いながら、空腹を訴えてくる。


あれだけ運動したんだから、当然か。


でもまさか、このタイミングでお腹が鳴るなんて、勘弁して。

こんなことなら、ちゃんと食べてくるんだった…。


僕がぐちゃぐちゃと考えている間に、先生は机に戻ると、何かを持って戻ってきた。


「はい、良かったらどうぞ」


目の前に出されたのは、小ぶりのお弁当だった。


「えっ!いいんですか?」


「もちろん。私が朝適当に作ったから、おいしくないと思うけど」


「でも、先生のお昼は?」


「どうにでもなるから、大丈夫よ。市原君が頑張ったご褒美ね」


ご褒美…


そう言われて、僕は嬉しくて体を起こした。

そして、自分の腹の虫の音に、感謝した。


先生は枕をベッドの頭の方に立てかけて、背もたれにしてくれた。

水でしぼったガーゼのハンカチを渡してくれたので、それで手を拭いた。


たんこぶを冷やしているタオルを落とさないように気を付けながら、僕はお弁当箱を開いた。


グリーンの水玉模様の布をほどくと、楕円形の黄色いお弁当箱が現れた。

ふたを開けると、白い中蓋に、白い箸がセットされている。


箸を外して、中蓋を開けると、左半分にご飯。右半分におかずが詰められていた。


ご飯には、のりたまのふりかけ。メインのおかずはハンバーグだ。

全体にソースがからめられて、食べやすく半分に切られている。


付け合せはマカロニサラダとソーセージ。緑の彩りは枝豆だった。

そしてはじっこに玉子焼き。きれいな黄色い厚焼き玉子だ。


僕がなかなか食べ始めないので、先生は


「あんまり見ないで。恥ずかしいから」


と、言いながら小さな冷蔵庫からお茶を出して、コップに注いだ。


「すごく、おいしそうです」


と言うと


「どうぞ」


と言って、丸いトレーにのせたお茶をベッドの端に置いた。

それを合図に


「いただきます!」


僕は信じられないような幸せな気持ちで、先生が作ったお弁当を食べ始めた。


先生はベッドの横の椅子に座って、僕の様子を眺めていた。


おいしい。


どのおかずも全部美味しくて、ありがたくて、いつもより時間をかけて食べた。



そして、もうすぐ完食。

というところで、保健室のドアがノックされた。


「はい」


という先生の返事を待たずに


「失礼します!」


と、ドアから入ってきたのは、ハルだった。


「碧樹!」


ジャージ姿のまま、ベッドにいる僕の元へ真っ直ぐ走ってくると


「大丈夫なの?頭打ったって聞いて」


と、心配そうに僕の顔を見た。


「大丈夫だよ。タカってやつの頭がぶつかって、たんこぶできただけだから」


「たんこぶ?!見せて」


ハルがそう言いながら、せっかく先生が乗せてくれたタオルを取ろうとするので


「大丈夫だって。だいぶ痛みも治まってきたから」


と、僕は自分の頭を押さえて、ハルの手をさえぎった。


「二、三日で腫れも引くと思うわよ」


横から相沢先生が声を掛けると、そこで初めて先生の存在に気づいたように


「あ、そうですか。良かった」


と言って、僕が食べていたお弁当を見た。そして


「え?碧樹、どうして?誰のお弁当を食べてるの?」


とストレートに疑問をぶつけてきた。

僕はどう答えていいかわからなくて


「あぁ、えーっと、これは…」


と口ごもっていると


「私のお弁当なの」


と、相沢先生が答えてくれた。


「先生の?」


「市原君ね、サッカーの試合中、頭を打って担架で運ばれてきたんだけど、ベッドに寝かせたら、お腹がぐぅぐぅ鳴ってるの。もうおかしくって。早起きして朝ごはん食べられなかったんですって」


わざと明るく話してくれたので、僕はちょっとほっとして


「そう、そうなんだ」


と言って、ハルを見た。


ハルは笑っていなかった。

それどころか、ちょっと怒っているみたいだった。


「どうして、私に言ってくれなかったの。どうにかしたのに」


「え。だってハルも試合があっただろ。そうだ、どうなった?女子のバレー」


僕は、さりげなく話題を変えた。


「勝ったよ。次が決勝。だけど、碧樹が心配で抜けてきちゃった」


「なんで!ハルがいなかったら負けちゃうじゃん。戻ってよ。俺は大丈夫だからさ」


「碧樹だって。サッカー、決勝残ったんでしょ?」


「俺は怪我して出られないんだよ。してなかったら、最後までやってた。それに俺には替りがいくらでもいるよ。ハルは違うだろ。試合に戻れって」


ハルはちょっと考えてから


「わかった。じゃあ、帰りは一緒に帰るよ。歩けなそうだったら、うちのお母さんに迎えに来てもらうからね」


「うん。わかった。ありがとう」


僕がそう言うと、納得したようにうなずいてから、相沢先生に頭を下げた。


「碧樹を、よろしくお願いします」


「あ、ええ。心配しないで」


先生が答えると、くるっと背を向けて走って行った。


ハルが来たことで、微妙な空気になったけど、僕は気にせず、お弁当の最後の一口を食べた。


「ごちそうさまでした」


完食。


お弁当箱を元通りにしまうと


「あの、これ僕、家で洗ってきますから」


と言ったが、先生は首を振り、僕の手からお弁当箱を取り上げた。


「そんなこと、気にしないで。お腹の足しになった?」


「はい。すごく、おいしかったです」


「それならよかった」


そう言うと、冷蔵庫で冷やしていたタオルを出して、僕の頭のタオルを交換してくれた。


「まだ痛む?」


「あ、少し落ち着いてきた感じ、です」


そう答えながら、もう少しここにいるためには何て答えるのが正解だろう?

と、僕の脳みそがフル回転し始める。


「そう、良かった。病院へ行って、レントゲン撮ってもらった方がいいかな」


「いや、そこまでは」


「じゃあ、さっきの、杉山さん、だったかな?送ってもらうの?」


「え」


しっかり話を聞かれていた。


「双子のきょうだい…とかじゃないわよね?」


「違いますよ。全然似てないし」


「じゃあ、やっぱり、彼女だ」


と、決めつけられて、


「違います!!」


これだけは否定しなければ、と大きな声を出してしまった。

あれ?なんで僕、こんなにムキになってるんだ?


ちらっと頭を横切った、そんな思いも僕は無視した。

誤解されたくないんだ。ただそれだけ。


「一緒に帰るのは、家が近所だから。それだけです」


「ふぅーん。ただのご近所さんって感じじゃなかったけどなぁ」


「家が向かいで。ずっと同じ学校だったんです。関係に名前を付けるとしたら、おさななじみ、かな」


「そうなの。いいわね」


「いいのかどうか…僕は母親がいないので」


「え?」


「小さい時に母親を亡くして、ハルが何かと面倒をみてくれてるというか」


「…そうだったの」


「もう高校生なんだから、面倒見てもらってるっていうのも変ですよね。ハルとは同じ年だし。だけど、急には変えられなくて…」


何を言っているんだろう、僕は。

まだ会ったばかりの、この人に。


学校の先生だけど、今まで自分から先生に話したことなんてなかった。

それは暗黙の了解として、僕の居ないところで語られていたことだったから。


「ちっとも」


「え?」


「変なんかじゃない」


「でも、もう子供じゃないし。だから、こうやって誤解されるわけだし」


「きっと、あなたたちには、お互いに、お互いが必要なのよ」


「お互いに?」


「そう、お互いに」


「そうかな。僕の方が一方的に子ども扱いされているだけなんだけど」


「でも、あなたは彼女を受け入れてるし、そんなあなたを彼女も必要としている」


「僕が、受け入れているから?だから関係が変わらないのか」


「あなたは、変えたいと思っているの?」


「…僕は?」


聞かれて、初めて考えた。そんなこと、今まで思ったこともなかった。

ハルがいつもそばにいて、僕になんでもしてくれるのは、当たり前のことになっていた。


人前で子ども扱いされることが、恥ずかしいと感じるようになったのは、最近のことだ。


僕は、ハルとの関係を変えたいと、思っているのだろうか?


僕が答えられずにいると、先生は


「急いで答えを出さなくても、いいんじゃないかな」


と、言った。


「今はね、体も心も、どんどん成長している時期なの。

あなたはさっき、もう子供じゃないって言ったけど、まだ大人でもない。

これからいろんな考え方や価値観が変わっていくかもしれないけど、無理に急いで大人にならなくてもいいと思うよ」


そんな先生の言葉を聞きながら、僕は内容よりも、その声に耳を傾けていた。


普通の会話では気づかなかったけど、少し低めの声で、落ち着いた話をする時の先生の声は、やはり僕の母さんに似ていた。


骨格が似ている人は、声も似ているんだっけ。

前にテレビで見た、ものまね芸人が、そんなことを言っていた気がする。


「あなたたちは、小さい時からお互いに助け合って、一緒に成長してきたのよね。

それはとてもすごいことだけど、これから先もずーっと一緒にいられるわけではないと思うの。

それは、仕方ないことだし、それもまた、お互いが成長するために必要なことなの」


先生の話す言葉は、僕の耳を通して僕に語りかけているけれど、その透明でやわらかな声は、直接僕の心の奥に染み込んで、僕を内側から温めてくれるようだった。


その言葉の意味を理解したいという気持ちよりも、その声をずっと聞いていたい。

この胸に留めておきたい。そう思った。


そんな僕の、心ここにあらずな状態に気づかないまま、先生の話は続いた。


「だからね、もしその時が来て、市原君の周りにいる大人や友達にも話しにくいようなことがあったら、いつでもここに来てね」


「え?!」


どこかふわふわしながら先生の話を聞いていた僕は、そこの部分で我に返った。

今、いつでもここに来てねって、言わなかった?


「い、いつでも、ここに来ていいんですか?」


慌てて確認する。


「もちろんよ。保健室は生徒の悩みや不安を聞く場所でもあるの」


「怪我をしていない時でも?」


「そうよ。いわば、心のかすり傷、かな?」


「心の、かすり傷」


そんな傷はちょっと思い当らなかったけど、体に傷がない時でも、来てもいいと言ってもらえたのは、僕には大収穫だった。


明日からどんな理由をつけてここにくればいいのか、とひそかに考えていたのだから。


「じゃあ、おうちの方にお手紙を書くから、もう少し横になっていてね」


先生はそう言うと、僕を寝かせて、また頭のタオルを交換してくれた。


「あの、手紙って?」


「今日の怪我は大きいものだから、おうちの方に報告しないといけないの。

家でも経過を見てもらって、必要なら病院へ行って診察してもらってね。

その場合は診断書をもらって提出すること。後で保険で診察料をお返しします。


もし帰宅途中で気分が悪くなったり、家で吐き気がしたりしたら、必ず学校にも連絡して

ね。あ、これは杉山さんにお願いした方がいいかな」


急に事務的になった先生に少しがっかりしながら


「いえ、自分でできます」


と答えた。


「そう?」


先生はそう言って少し笑うと、自分の机に向かってしまった。


仕方なく僕は、保健室の白い、四角い天井を眺めた。


今、何時ごろかな。


サッカーの決勝戦はどうなっただろう。

誰かに聞きたくても、スマホは教室のロッカーの中だった。


保健室の窓から差し込む日差しは、ぽかぽかと暖かく、今朝早起きしたこともあって、僕は少し眠くなった。

運動の後のけだるい疲労感と、先生のお弁当の満腹効果で、そのままうとうとしてしまう。

十分ぐらい、たっただろうか。


ドアがノックされた。


「はーい、どうぞ」


と答える先生の声が聞こえて、僕は目を開けた。

ドアを開けてガヤガヤと何人かが入ってきた。


「失礼しまーす。おーい、碧樹、生きてるかぁ」


この声は、昂太だ。後ろに三人の男子。

齋藤と長谷川と六組のタカだ。


「おう、生きてるぜ」


そう言いながら起き上った。


「決勝、どうだった?」


メンバー三人の明るい顔を見たら、もしかして?と期待して聞いてみたけど

昂太は


「うん、負けた!」


と、はっきり言うと、あははははっと笑った。


「負けたのかよー」


と、僕もつられて笑うと、


「完敗だよ。やっぱ三年の団結はすごいや。応援団までしっかり出来上がっててさ。いつ練習したんだよってくらいの声援で、完全アウェーだったわ。な?」


話を振られた齋藤も


「うん。ちょっと浮足立ったよな。でも、準優勝だよ。碧樹のヘディングシュートのおかげだな」


と、言うと


「畠山先生も大喜びでさ、優勝じゃなかったけど、今度アイスおごってくれるって」


長谷川もそう言って、嬉しそうに笑った。


そこでタカが初めて声を出した。


「あの、頭の怪我はどう?」


「あー、お前の石頭のお蔭で、ゆっくり休めたからよかったよ。お前は大丈夫?」


「うん。全然大丈夫」


その時相沢先生がそばに来て、


「君が石頭くんかぁ」


と言って、タカを見た。

そこにいる全員が相沢先生を見た。


「あれ、あの、新しい先生ですか」


と、タカが言った。


「そうなの。前の西田先生が産休でね、四月から赴任しました。相沢です」


と、言いながらタカの頭を触っている。


「ちょっと見せてね。ほんとだ、どこも腫れてないわ。本当に石頭なのね」


そう言って笑った。

そんな先生に全員が見とれている。

あれ?なんだ、この空気。


先生は僕の所へ来ると、薄い茶封筒を出した。


「これ、おうちの方に渡してね。ちょうどいいから、お友達に教室へ連れて行ってもらったら?もう歩けるでしょ?」


「あ、はい」


僕は頭のタオルを押さえながら立ち上がった。


昂太に手を貸してもらいながら、ドアへ向かう。

そこで振り向いて


「ありがとうございました」


と言ったあと


「相沢先生。また来ます」


と言うと、先生は


「はい、お大事にね。市原君」


と言って、笑ってくれた。


教室に戻りながら、昂太が口を開いた。


「保健室の先生、変わったんだな、知らなかった」


「俺、今まで行ったことなかったから知らないけど、新任の先生だったのか」


と、僕が言うと、


「うん。俺らは部活でしょっちゅう怪我するからさ。よくお世話になるんだけど、前の先生は三十代ぐらいで、声も体も大きくてさ。いや、太ってるだけかと思ったら、あれ妊婦だったのかー、気づかなかったな」


と、タカに向かって言った。


「うん、あんな若い先生、ちょっと緊張しちゃうな」


それを聞いて齋藤が


[すげぇ美人だしな]


と言った。


「あ、やっぱり思った?」


と長谷川も。


「おまえ、頭なでられてたじゃん」


昂太に言われて、タカは明らかに照れた。


僕はちょっと複雑な思いでその会話を聞いていた。


そうか。一般的に、というよりも男子高校生から見ても。

相沢先生は美人なんだな。


僕は僕の母さんに似ているところばかりを探していて、美人とか綺麗とか、そういう目で見ていなかった気がする。


「あ、そうだ碧樹」


「ん?」


「七組で、杉山が待ってたぞ」


と、昂太が教えてくれた。


「やべ。忘れてた」


僕は答えて、ちょっと気が重くなった。

クラスが違うタカとは途中で別れて、三人と一緒に教室に戻った。


 教室で制服に着替えて、ロッカーからスマホを取り出すと、おびただしい量の通知が来ていた。着信とメッセージ。ハルからと、サッカーチームのグループラインだった。


後ろから昂太に呼ばれたので、既読は付けずに、スマホをブレザーのポケットに突っ込んだ。


「碧樹、この後俺ら打ち上げ行くんだけど、お前は帰るだろ?」


と、昂太が言った。


「え?打ち上げ?どこ行くの?」


「店はこれから。塩崎たちが探してる。多分ファミレス、からのカラオケ」


「え!俺も行く」


「でも、頭やばくない?杉山が待ってるし」


「あー。頭はもう大丈夫。ちょっとハルのとこ行って話してくるから、先行ってて。後で店教えて」


「おっけー。じゃ、あとでな」


「うん、あとで」


三人を見送った後、ハルの教室へ向かった。


七組の教室には、もうハル一人だけだった。


窓に寄りかかって、スマホの画面を見ている。


「ハル!」


声を掛けると、ぱっと僕を見て、真っ直ぐ廊下に走ってきた。


「碧樹、歩いて大丈夫?」


「もう大丈夫だよ。触るとまだ痛いけど」


「電車乗って帰れる?」


「あー帰れるけど、帰らない」


「え?」


「この後、クラスの打ち上げがあってさ、昂太たちと行くんだ」


「え!だめだよ。頭を打ったんだから、安静にしてなくちゃ。ほら」


と言って、自分のスマホの画面を見せた。

そこには頭を打った時の処置方法や、たんこぶの冷やし方などの画像がびっちり現れた。ヘッドギアみたいので固定されてる頭部の写真もある。


「いや、大げさだって。もう大丈夫だから。俺のはただのたんこぶ」


「そうだけど。でも遊びに行くのは良くないよ」


「別に遠くに行くわけじゃないから。痛くなったらすぐ帰るよ。明日は土曜で学校休みだし」


「んー…もう、私が一緒に付いて行ければいいのに。なんでクラス別々なんだろう」


そう言われて、はっと思い出した。


「あ、ハルのクラスはどうなったの?バレー、勝った?」


「勝ったよ。優勝しました!」


「おー、さすが。すごいじゃん。おめでとう」


「うん、ありがと。碧樹のチームは、残念だったね」


「いや、俺らは決勝まで行けたことが奇跡だからさ。じゃあ、ハルのチームも打ち上げとか、あるんじゃないの?」


「うん、うちは女子チームだから明日、甘いもの食べに行くことになってる。

でも、私は行けるかわかんないって言ってあるから」


「なんで?」


「碧樹の具合次第で、付いていてあげたいし」


まじかよ。


僕はその言葉を飲み込んで、ハルに言った。


「あのさ、もし俺の具合がちょっとぐらい悪くても、ハルは打ち上げに行っていいから」


「え?どうして?」


ハルは心からびっくりしたように、聞き返した。


「だって別に死ぬほどの怪我じゃないし、明日は父さんもおばあちゃんも家にいるよ」


「そうだけど。碧樹が寝込んでいたら、私だって楽しめないもん」


一体どう言えばわかってもらえるかな。少し考えてから


「ハル、ちょっと過保護すぎない?」


と、言った。


「過保護?」


「そう。過保護。俺、もう高校二年だしさ。自分のことは自分でできるよ」


「わかってるよ。でも怪我をしてる時ぐらい、付いていたっていいでしょ?今までも熱がある時に一緒にいてあげたじゃん」


「小学校の時だろ。だから一緒にインフルエンザに罹っちゃうんだよ」


「あ、そうそう。そんなこともあったねー」


いや、あったねー、じゃなくて。移ったら看病じゃなくて共倒れだから。

だめだろ、それ。


「とにかくさ」


「うん」


真っ直ぐ見つめられて、僕は返答に困った。

うーん、これ以上、何をどう言えばいいのか。

打ち上げに行く時間も気になった。


「ま、いいや。帰ろ」


「うん!」


ハルは自分のリュックを取りに行くと、急いで戻ってきた。

一緒に下駄箱へ向かいながら


「駅までな。俺はファミレス行くから」


「二回目のお昼、食べるんだ」


「二回目?」


そう言われて、ハルを見ると、ちょっと横目でにらんでいる。

保健室で相沢先生のお弁当を食べたことを言っているんだ、とわかった。


「先生のお弁当、おいしかった?」


直球かよ


「あー、うん。おいしかったよ」


「ふーん、おかず、何だった?」


「ハンバーグ、かな」


「へー。手作り?」


「多分ね」


「ふーん。ね、玉子焼き、入ってた?」


うっ 玉子焼き…


「あー、いや入ってなかったな」


「…そっか」


ちょうどそこでスマホに通知がきたので、ハルの目を見ずにすんだ。

僕が嘘をつくときの微妙な癖を、ハルは知り尽くしていた。


通知は、昂太からで、打ち上げの店を知らせてくれた。

昂太、グッジョブ!と僕は心の中で彼を称えた。


下駄箱で靴を履きかえて、外へ出た。

見晴らしの良い坂を下りながら、急にハルが言った。


「私ね、わかっちゃった」


「なにを?」


「保健室の先生ね」


「…うん」


「碧樹のお母さんに、似てるね」



一瞬。


坂の下から強い風が吹き上がってきたような気がした。


僕は足を止めて、ゆっくりとハルの顔を見た。


ハルの大きな瞳は、僕の目を捉えて離さなかった。


しまった。


ここで目を逸らしたら、ハルに見抜かれてしまう。

僕の頭がフル回転で、次のセリフを探し始めた。正解は何だ?


え?そうかな?全然気づかなかった。

かな。それとも

いや、似てないよー勘違いじゃない?とか?

だけどどれも嘘くさくて、ハルは一発で見抜くだろう。


「ハルも、そう思った?」


「うん」


結局、認めてしまうしかなかった。

僕だけの思い込みじゃなかった、という気持ちもあって、そのことを話せる相手もまた、ハルしかいなかったから。


「碧樹は、最初から気づいてたんだね」


「そりゃあね。世の中には同じ顔が三つあるっていうけどさ、あんなに似ている人がいるんだって、驚いたよね」


「昨日、初めて会ったの?」


「……」


あー、もう全部言ってしまおう。写真を撮ったこと以外は、全部。


「最初は、八幡様だった」


「え?!あの日?」


「うん。大銀杏の前で。いや、今は親子銀杏だけど。偶然隣で写真を撮ってて。顔を見てびっくりしたけど、俺の見間違いかなって思って、ハルには言わなかった」


「あの、銀杏の木の前で…」


「そう。そしたら次の日、保健室に行ったらさ、その人が白衣来て出てたんだよ。めちゃめちゃ驚いたわ」


「ふーん。じゃあ碧樹は、三日連続で先生に会っていたってことね」


「あー、うん。そうなるな」


ちょうど江ノ電の駅に着いて、一緒に改札を抜けた。

ハルは、何かを考え込むように、口に手を当てていた。


「でも、保健室の先生なんて、もうそんなに会うこともないよね」


確認するように言うので


「あー、どうかな。多分ね」


と曖昧に言うと


「うん、わかった。話してくれて、ありがとね」


と言って、話を終わらせた。

僕はほっとして、これでよかったんだと思った。なにもやましいことはない、はず。


そこへ、ハルが乗る電車が先に来たので、手を振って別れた。


「帰ったら、連絡してね」


「わかった」


何にしても、ハルはいつも僕を心配してくれる。

やっぱり僕にとって、大切な存在であることに間違いはなかった。



ハルのいない、男友達だけの打ち上げ。

それはまた、バカみたいに楽しかった。


ファミレスではみんな好きなものを頼んで食べて。

僕は二回目のお昼ご飯だったけど、みんなに合わせて軽く食べることにした。


そのあとは、塩崎の友達がバイトしているカラオケボックスを予約してくれて、みんなでなだれ込んだ。

高校生になってから、何度か来たことはあったけど、カラオケで歌うというより、大声で話したりふざけたりできるのが良かった。


そのうち話が、何組の誰が可愛いとか、お前は彼女いるのか、とかいうボーイズトークに変わって行った。


「齋藤はモテそうだよな。彼女いるの?」


と、昂太が口火を切った。


「モテないけど。一応いるよ」


「まじで?!だれだれ?」


「他校だよ。中学の同級生」


「へー、いいなぁ」


長谷川が心から羨ましそうに言うので、お前にはいないんだな、ということがばれてしまった。



「中学の同級生といえば、碧樹だよな」


「ん?」


昂太が僕を碧樹と呼ぶので、自然にみんなもそう呼ぶようになっている。

ちょっとくすぐったいけど、嬉しかった。


「あー、一年の時から有名だよね。お似合いのカップル」


「は?」


「入学式も一緒にいただろ。目立ったよ、あれ。」


「さっきもけなげに待ってたじゃん。今日は一緒に帰らなくて良かったのか?」


齋藤がからかって言う。

思わず昂太を見ると、何も言わずにニヤニヤ笑っている。

ちぇ、援護は無しかよ


「あのさ、ハルとは幼なじみなんだ。家が向かいで、一緒に通学してる。それだけ」


「えーーー!!!」


昂太以外の全員が声をそろえて言った。


「そんな驚く?」


「驚くだろ、普通」


話を振った齋藤が答えた。


「絶対付き合ってると思ってた」


「中学まではそんなふうに言われたことなかったから、全然気にして無かったよ。やっぱり変なのかな」


そう言うと昂太は


「ただの幼なじみだと思っているのは、碧樹だけかもしれないぞ」


「え、どういうこと?」


「どういうことって、そういうことだろ?」


と、齋藤も言う。僕はちょっと考えてから


「いや、ガチでない。ハルとその手の話をしたこともないし」


「それは今まで、二人の間に誰も入って来なかったからじゃない?」


と、昂太。


「お前まで、なんだよ」


「俺はさ、二人をずっと見てきたから。中学の時からね。だから当たり前に思ってきたけど、ただの幼なじみだったらさ、そろそろ他に目がいくだろ」


「他に好きな人ってこと?」


「そうだよ。杉山もお前も、お互いしか見てないんじゃないかって思うわけ」


昂太もそんな風に思っていたのか。


「じゃあ、例えばさ、杉山に他に好きな人ができたら、どうする?」


「別に。どうもしないよ。普通に祝福すると思う」


「えー」


そう言ったのは塩崎だ。


「お前さ、杉山がどんなに人気があるか、知らないの?」


「え?ハルが?うそだろ」


「まじかよーこいつ。今日のバレーの決勝、他のクラスの奴らもみんな体育館行ってたんだぞ。だから俺らのサッカーの応援少なくて、完全アウェーだよ」


「そうだったんだ。え、まさか、みんなハルを見に行ってたってこと?まじで?」


「杉山だけじゃないけどね。宮内もいいんだよな。あれは可愛いっていうよりかっこいい、だから女子にも人気あるし。あのコンビはみんな一目おいてるよ」


全然知らなかった。


「ハルの、どこがそんなに人気なの?」


「やっぱ顔だろーな。黒目勝ちの大きな目。すっぴんでも十分可愛い」


「健康的な肌に、白い綺麗な歯。あと、童顔なのに、あのスタイルはずるいって女子は言ってたぞ。」


「はきはきしてて、運動が出来る所もポイント高いよな。バレーの試合、すごかったらしいぞ。俺も見たかったな」


「あぁ、昔からハルの一番好きな教科は、体育だからな。高校で体育を真剣にやらない女子が多すぎるって怒ってたよ」


「宮内とコンビのビーチバレー、見てみたいって男子はみんな言ってるよな」


長谷川が言うと、田村が


「おい、碧樹の前でそれはちょっと…」


と遮った。


「ビーチバレー?って、あの水着でやるやつか。別に何とも思わないけど?

ハルの水着なんて見慣れてるし」


「はぁーーー?お前なぁ」


「しょうがねぇよ。元水泳部同志」


「えー、羨ましいやつめ」


みんなが次々とハルの美点を上げていくのを、驚きながら聞いていた。

僕が一番近くにいて、一番知っているはずなのに。


みんなの言うことが不思議で仕方なかった。

みんなどこからハルのことを、そんなに見ていたんだ?


「昂太、知ってた?」


「知らないのはお前だけだ。サッカー部にもファンは多いぞ。でもお前がいるから、みんな遠目で見てるだけ」


「そりゃね。碧樹にはかなわないだろ」


長谷川が言う。


「なんで?」


と、僕。


「ほらね。自覚ないだろ、こいつ」


昂太が言うと、みんながうなずく。


「お前、自分のスペック、わかってる?」


塩崎に聞かれて、


「スペック?俺に?そんなのあるかな」


「うわー、まじむかつくわ」


と、あきれられてしまった。


「わかんないなら教えてやるよ。まずその肌!男子高校生がみんな悩むニキビ、できたことあるか?」


長谷川が言う。


「あー、ないけど。でもこの肌、日焼けできないんだよ、つらくね?」


「すべすべの白い肌に、さらさらの茶髪。流行りのアッシュ系」


「さらさらでもないよ、寝癖つくし。髪は生まれつきで」


「だーかーら、スペックだって言ってんだよ。最初から手にしている最強無敵の能力だよ」


厨二か。


「それに、細いのにマッチョな体。身長もある」


そう言った田村は、確かに小柄だ。


「ずっとスイミングやってたからかな。元々はチビでガリだったんだよ。身長は中学で二十五センチ伸びて、制服作り直した。中学入るまでは、ハルよりちっちゃかったんだから」


「そして何より、その整った小さい顔」


そう言ったのは長谷川。


「顔…あんまり好きじゃない。俺は昂太みたいな男っぽい顔が良かったな」


「お前の好みはどうでもいいんだよ、大事なのは女子の好みの顔だってこと」


「それだけどさ、俺なんて全然もてたことないよ。コミュ障で、ハル以外の女子とはほとんど話したことないしさ」


「だからだよ。今までは杉山がずっとそばにいたから、他の女は近づけなかったの」


昂太に決めつけられて、僕は首をひねった。

そんな場面、一回もなかったけどな。


突然、長谷川が


「二人が付き合ってなかったとはなー。

ってことは、杉山はフリーなわけだ。俺にもチャンスあるかな?」


と言ったので、その場にいた僕以外の全員が


「ねーよ!!」


と、答えた。悪いけど笑ってしまった。

完全にいじられキャラになってるな、おまえ。


「でもさ、まじな話」


昂太が真剣な顔で言った


「もし、本当に碧樹にその気がないんだったら、そろそろ関係を変えた方がいいんじゃね?クラスも別々になったことだし、お互いのためにもさ」


「関係を、変える…」


それ、今日他の誰かにも言われたな。

そこで相沢先生との会話を思い出した。


「碧樹だってさ。今日の活躍で女子のファンが増えたかもよ」


と、長谷川に言われて


「え。まじで」


と、答えてしまった。そりゃあ、悪い気はしないよな。


「まじまじ。でも一番すごいのは齋藤だけどな」


「えー、俺だって頑張ったのになー」


昂太が不満げに声を上げたので


「お前は元々人気あるって。自信持てよ」


そう言って慰めた。


「そうだよ。あの時のシュートはすごかったよなぁ」


塩崎がそう言って、話題は今日のサッカーの話に移っていった。



 家に帰ると、ハルにメッセージを送った。


『ただいま』


すぐ返信が来る。


『おかえり。楽しかった?』


『最高』


『たんこぶ、どう?』


あ、忘れてた。

手で触ると、思い出したような鈍い痛みがあった。

あとでまた冷やしておくか。


『もう大丈夫。明日は安心して打ち上げ行って来て。おやすみ』


『わかった。そうするね。おやすみ』


ハルからの『おやすみ』を見て、僕たちはもうどれくらいこの言葉を言い合ってきただろう、と考えた。


毎日の『おはよう』『ただいま』『おかえり』『おやすみ』。

恋人だったらそれはあたりまえかもしれないけど。


そうじゃないから、僕たちの関係は、きっと家族に近いんだろうな。

いまどき、家族でもこんなに濃いやりとりはしないのだろうか。


窓のカーテンを開ければ、ハルの部屋の明かりが見える。

子供の時は、よくここから手を振ったっけ。


ずいぶん長い時間を、お互いだけを見て過ごしてきた。

でも、もう子供じゃないから。そろそろハルを解放してあげなくちゃ。


ん?解放って、何から?


その答えを考えるのを止めて、僕はカーテンを閉めた。


ベッドに寝転がると、今日、保健室でもらった相沢先生からの手紙を開いた。


父さんとおばあちゃんに、これを見せる気はなかった。

もう病院へ行くような事態にはならないだろうし、余計な心配を掛けたくなかったから。


手紙には、几帳面な綺麗な字で、怪我の原因と経過が書いてある。


最後の署名を見て、僕の心臓が飛び跳ねた。


『養護教諭 相沢 まどか』


先生の名前。まどかっていうのか。

平仮名で、まどか。

思いがけず、フルネームが分かったことで、もっと先生のことを知ったような気がして嬉しかった。


何がそんなに嬉しいんだろう?

どうしてこんなに会いたいんだろう?


そんな疑問は、沸き起こる前にふたをした。

自分の気持ちに、名前なんてつけられないだろ?


わからないことは、わからないままで。

意味もなくどきどきする想いを、今は大切にしていたかった。


僕の中に芽生えた、新しいこの感情に少しとまどいながら、僕は眠りに落ちていた。




 目が覚めると、雨の音が聞こえた。

そういえば、土曜日は雨だってハルが言っていたっけ。


球技大会の疲れもあって、午前中一杯をベッドの上でゴロゴロと過ごし、お昼ごろにやっと下へ降りてご飯を食べた。


午後はゲームをして過ごして、我ながら怠惰で最高の休日だな、とあきれた頃、

ハルからメッセージが来た。


『怪我の具合はどう?』


『もう全然大丈夫』


『ほんとに?ハゲてない?』


『ないわ!』


『よかったね笑笑 じゃあ、明日出かけない?』


『どこに?』


『今日ね、坂ノ下の古民家カフェに行ったんだけど、すごく素敵だったの。パンケーキが美味しくてね。絶対碧樹が好きな味だと思って』


『ぱんけーき?!』


おっと、慌てて平仮名のまま送ってしまった。


『そ。ぱんけーき!笑笑』


すかさずいじってくる。くそ。


『いく』


『おっけー!日曜日で混むかもしれないから、二時頃出ようか』


りょーかいっ!のスタンプを投げた。


『じゃ、明日ね!』


バイバイのスタンプを返してから、あ、しまったと思った。

ついいつもの感覚で、出かける約束をしてしまった。


ハルと週末に出かけるのも、今までは普通の事だった。

最近の鎌倉は、おしゃれな店が多すぎる。


ハルはカフェと名がつく店は、ほぼ完ぺきにリサーチしているし、僕は甘いものが好きすぎる。

特にパンケーキには目が無くて、ハルが見つけてきた店はほとんど制覇していた。


子供の頃、母さんがよく作ってくれたおやつみたいに、シンプルなのが一番だけど、チョコレートや生クリームがてんこ盛りになっているのも大好きだ。


四月のハルの誕生日には、江の島に渡る橋の手前に出来た、有名なハワイのカフェに並んで、生クリームてんこ盛りのパンケーキをおごったなぁ。


あ、あれからまだひと月もたっていないのか。

その時撮った写真を見ながら、何だかとても遠い日の出来事のように感じていた。


さて。どうするか。

これは、ちょうど良い機会かもしれないな。

明日ハルの顔を見ながら、これからのことを話そうと決めた。
























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