第3話 源氏池
一人で江ノ電に乗り、鎌倉の駅で降りると、小町通りに向かった。
小町の名の通り、あまり広くない通りの左右にいろんなお店が並び、たくさんの人が歩いている。
人ごみはあまり好きじゃないけど、ここは特別。
昔から大好きな豆屋さんや漬物屋さん。
おせんべいの専門店など、ふとっぱらに試食品を並べているお店が続く。
観光客に紛れて、一つ二つ口に入れると、どれも懐かしい味がした。
一枚だけ買った焼きたてのおせんべいをかじりながら、八幡様へ続く参道へ向かった。
八幡様と呼んでいるけど、正式には「鶴岡八幡宮」。
鎌倉幕府を興した源頼朝が、一一八〇年にこの場所に建てたという。
今から八百年以上前の話だ。
鎌倉にはここ以外にも、大小たくさんの神社仏閣があるけれど、やっぱり中心にある八幡様は別格だろう。
最近ではパワースポットなんて言われて、いつ来てもたくさんの人でにぎわっている。
僕もハルも、生まれたときのお宮参りも七五三も、ここで祈祷してもらっている。
二、三年前までは若宮大路の参道に大きな桜の木が並んでいたけど、今はなくなってしまった。
横断歩道を渡り、最後の鳥居を抜けると、八幡様の境内へ進んだ。
もう夕方ということもあり、駅に向かう人の方が多い。
赤橋の横を抜けると、左右に池が見える。
右側が源氏池で、左側が平家池だ。
ここは源氏の神社なので、源氏池の方が大きくて立派だが、どちらも桜が水面にかぶさるように枝を広げて、とてもきれいだ。
ハルが来たら池の周りを一周して、写真を撮ろう。
僕はそう思いながら、どこか懐かしい気持ちで歩いていた。
ここは、昔母さんとよく来た、思い出の場所でもある。
鎌倉駅の近くにある病院へ通っていた母さん。
僕が一緒に病院へついて行った時は、帰りにお参りに連れて来てくれた。
この先にあるぶどう飴の屋台で、串に刺したぶどうの飴を、二本買って一緒に食べた。
ぶどう飴というのは、よくお祭りで見かけるりんご飴のぶどうバージョンで、ほかの場所ではあまり見かけない。
りんごまるまる1個を飴でコーティングしたりんご飴は、子供には大きすぎて食べきれないけど、巨峰ぐらいの大きさのぶどうをひと粒、串に刺して飴でコーティングしたぶどう飴は、僕にはちょうど良かったし、とてもおいしかった。
今日もまっすぐぶどう飴の屋台へ行き、ひとつ買って口に入れた。
まわりの甘いべっこう飴を噛むと、中のぶどうのあまずっぱい味がじゅわっと口の中に広がって、とてもおいしい。
ぶどう飴を口にくわえながらそのまま歩いて、本宮へ続く大石段の下まで行く。
大石段の左側。
ここには八幡様のご神木、大銀杏の木があった。
僕はいつもこの場所で、高さ三十メートル、樹齢千年と言われる大きな銀杏の木を見上げたものだ。
鎌倉の歴史小説を読むのが好きだった母さんに、大銀杏にまつわる話を聞いたことがある。
この場所で、頼朝の二男で三代将軍の実朝が、兄である長男の息子、つまり甥にあたる公暁という男に討取られてしまった。
その時、公暁が実朝を狙って隠れていたのが、ここにあった大銀杏の木の後ろだったということで、この木は別名「かくれ銀杏」と呼ばれた。
鎌倉を紹介するパンフレットやホームページ、どこにでも必ず書いてある、有名な逸話だ。
今なら連日ワイドショーをにぎわせるような、大事件になるだろう。
八百年も語り継がれているのだから、当時でも大変な事件だったことは間違いないか。
でも今、その大きなご神木の姿はない。
二〇一〇年、三月十日の未明、雪混じりの強風によって倒されてしまったのだ。
その時、僕は十歳。いや、三月だからまだ九歳か。
二〇〇〇年生まれだから、わかりやすい。六月十七日が僕の誕生日だ。
その夜のことは、よく覚えていた。
とても寒い日で、台風でもないのに、ものすごい風の音が怖くて、父さんのベッドに潜り込んで寝た。
僕の家も土台は古いので、家じゅうの壁と窓がガタガタと鳴っていたし、庭の木は、吹き付ける霙まじりの風に、ちぎれそうなほど枝を揺さぶられていた。
そして翌朝のニュースで、大銀杏が倒れたことを知ったのだ。
僕どころか、僕のおばあちゃんも生まれるずーっと前からあったご神木が、たった一晩の強風で倒れてしまったのは、本当にショックな出来事だった。
そのちょうど一年後の三月十一日に、あの東日本大震災が起こったのだから、
何かの予兆だったのかもしれないと言う人もいたぐらいだ。
今、そのご神木が立っていた場所には根が残され、すぐ隣に約四メートルの幹を移植、根元から出てきた新芽を大切に育てている。
そうして大きくなった一本の「ひこばえ」を、さらに右側に移植した。
今では子銀杏と呼ばれるその若木はすくすくと育ち、まだ細いその枝に、新緑の葉を揺らしている。
親銀杏のように大きくなるには、また千年という時をここで過ごすのか。
「復活の木、再生の象徴」となったご神木は、八幡様のパワースポットとなり、これからも鎌倉の人々が、何世代もかけて見守ってゆくのだろうな。
そんなことを思いながら銀杏の親子を眺めていると、すぐ横で「パシャッ」とシャッターを切る音が聞こえた。
何気なくそちらを見ると、ひとりの女の人がスマホを子銀杏に向けていた。
そのまま何枚か撮ったあと、角度を変えようとして僕の右側に寄ってきて、軽くぶつかった。
「あっ すみません」
そう言ってスマホを顔から離し、僕の顔を見た。
目が合ったその瞬間、僕の細胞の全てが、彼女の顔にくぎ付けになった。
え?なんで?ここに?どうして?まさか?
あらゆる疑問符が僕の頭の中をかけめぐった。
あまりの衝撃に、心臓が早鐘を打ち始める。
そんなはずはない。そんなことはありえない。
だけどここにいるこの人は…
僕の記憶の中の、僕の母さんにそっくりだった。
呆然と立ちつくす僕を、一瞬見ただけで。
その人はまた親子銀杏に目を戻した。
そのまま何枚か写真を撮り、大石段に向かって歩き出す。
その後ろ姿をじっと見つめた。
髪は肩より少し長いくらい。
細くて明るい栗色の髪が、風になびいている。
白いシャツの上に水色のスプリングコート。
下は黒の細身のパンツだった。
僕の母さんより、若い。
二十代前半だろう。
亡くなった時、母さんは三十二歳だった。
目で追っているうちに、その人は大石段を登り始めた。
そこからまた子銀杏を眺めている。
お蔭で僕は正面から彼女の顔を見ることができた。
こんなに似ている人間が、いる?
白い肌、顔の輪郭、あごのライン。
何よりもあの目…一瞬僕を見た時の、丸い大きな瞳。
ちょっとまぶしそうに目を細めた時の、まつ毛の影。
そして、今にも僕を見つけて、「碧樹!」と呼びかけてくれそうなあの唇。
肩や全体のシルエットもよく似ているが、華奢で消えそうにはかなげだった母さんに比べると、歩くのもしっかりしていて、健康的に見えた。
銀杏を眺めることに満足したのか、また階段を上り始めたその人を、僕はその自覚がないまま追い始めた。
不自然にならないように、少し後ろから大石段を上って行く。
一番上まで行くと、振り返って景色を見ている。
今、彼女の目には、由比ヶ浜の海まで真っ直ぐ続く、若宮大路が見えているはずだ。
本宮へ進むと、肩にかけたバッグからお財布を取り出し、お賽銭を投げた。
そして熱心にお参りをしている。
僕も慌ててお賽銭を取り出した。
お賽銭は十五円と決めている。
じゅうぶん、ごえんがありますように。
昔、母さんに教わっただじゃれだ。
お正月の初詣には、もうすこし奮発するけれど、しょっちゅうお参りしているのでこのくらいで勘弁してもらおうね、と笑ったものだ。
その母さんに、そっくりな顔をした人と、今ここにいる不思議。
一瞬でも目を離したら、消えてしまうんじゃないか。
そんな思いで、お参りを終えて右手に歩き出した彼女を追いかけた。
本宮の右側の階段を下りると、白旗神社に続く道へ出る。
その人はそちらへは行かずに、源氏池に向かって歩いて行った。
一人で歩いているのに、まったく迷いがないところを見ると、何度も来たことがあるのだろうか。
途中、何かを見つけたように小走りに植え込みに近寄ると、そちらに向けてスマホをかまえた。
なんだろう?
思わず目を凝らすと、彼女の視線の先にリスがいた。
僕もこのへんで何度か見かけて、写真を撮ったことがある。
ここのリスは人に慣れているのか、すぐに逃げ出したりしない。
彼女もしっかり捉えたらしい。
画面を確認しながら、嬉しそうに顔をほころばせた。
源氏池に着くと、そこは観光客であふれていた。
池の周りにはたくさんの鳩がいる。
中には餌をまく人もいるので、鳩は人を怖がるどころか、寄って来る。
両腕に鳩を何羽も止まらせて、友達に写真を撮らせている女の子がいた。
頭の上にも一羽止まっている。
勇者だ。
昔ビデオで観た、『ホームアローン』という映画の、続編の方に出てくる鳩おばさんみたいだと思った。
僕はそれを遠巻きに見ながら、彼女の少し後ろを歩いた。
その人は鳩を避けながら歩き、池に近づくと周りを見回した。
つられて、僕も目を周囲に向ける。
毎年、今までに何度も目にしている光景だけれど、ここの桜は本当にきれいだ。
なるべく人が入らないようにシャッターを切ろうと、誰もが背伸びをしている。
大きな一眼レフのカメラを三脚に取りつけて、本気の写真を撮っている人も、一人や二人ではない。
少し強めの風が吹くと、散った桜の花びらが、人々の頭や肩に舞い落ちて、小さな歓声が起こった。
彼女がいる方を見ると、池の対岸にある桜を見つめて、じっと立っていた。
胸のあたりでスマホを握りしめたまま、少し首を傾けて、ただ桜を見つめている。
周囲の人々の話し声や、せわしなくシャッターを切る音、鳩を追いかける子供の声。
そんな雑音は一切聞こえていないかのようだった。
まるで、彼女のいる世界の時間だけが止まっているみたいだ。
一陣の風が吹くと、桜の花びらがひらひらと散り、彼女の髪や肩に舞い降りた。
僕はゆっくりとスマホをかまえると、池のほとりに立つ彼女の姿を切り取った。
その時、唐突に僕を呼ぶ声が聞こえた。
「碧樹!」
え?
呼んだのは、まさか。
声のした方を見ると、片手を高く上げて走ってくるのは、制服姿のハルだった。
「ごめんね、待った?」
息を切らして言うハルの姿を見た瞬間、ここでの待ち合わせを思い出した。
「いや、ぜんぜん?」
と答えると、ハルは後ろに隠していた左手を、勢いよく差し出した。
「はいっ」
見ると、ぶどう飴の串を二本、握っている。
「碧樹、これ好きでしょ?」
と言われて、素直に一本を受け取った。
さっき一人で食べたことは、内緒にしておこう。
「ありがと」
と口に入れながら、あの人のことが気になって、目で探した。
「えっ?」
さっきの場所にはいなかった。
慌てて周囲を見回してみても、どこにも見当たらない。
人混みに紛れてしまったのか。
「どうしたの?なに探してるの?」
と、飴を食べながらハルが聞いた。
母さんに似た人を見た、と話そうか迷った。
でも、本当にそんな人を見たのか?
あれは現実だったのか…
だんだん自信がなくなってきて、僕は話すのをやめた。
「なんでもない」
ハルはそれ以上何も聞かず、
「さっきそこで勇者を見たよ」
と言ったので、
「わかった。鳩の子だろ」
と、即答した。
「それっ!碧樹も見た?すごかったよねー」
「見た見た。俺も写真撮りたかったわー」
二人で一緒に笑った。
「今日はカメックスに会えた?」
と聞かれ、そういえばここに来たのはそのためだった、と思い出した。
カメックスというのは、この池にいる大きな亀のことで、昔僕が勝手に命名した。
大好きなポケモンの名前を頂いたんだけど、名前を付けたことで親近感がわき、年に何度か会いに来ている。
「今日は観光客が多いから、出てきてくれないよ」
「そうか。久しぶりに会いたかったのに、残念」
池の周りの遊歩道を歩きながら、写真を撮り始めた。
はしゃぎながら何枚か撮ったあと、
「ほら、碧樹、一緒に撮ろ?」
と言って僕の隣に来ると、スマホのカメラをインカメにして、高く掲げた。
「はい、ポーズ!」
桜背景のツーショットを何枚か撮ると、今度は動画を撮り始める。
そこでやっと僕も、自分のスマホで何枚か桜の写真を撮った。
そしてこっそり、撮った写真を確認する。
「桜の時期もいいけど、新緑の頃もきれいだよね。秋も落ち葉が良い感じになるし」
と、ハルが言った。
「そうだな。冬の雪景色も最高だよね。激レアだけど。」
鎌倉で、積もるほど雪がふることはめったにない。
「うん。それに、夜もいいよね」
「夜?」
「うん、夜。碧樹とここに初めて来たときのこと、覚えてない?」
急に聞かれて、考えた。
「ハルと夜にここに来たこと、あったっけ?」
「一回だけね。子供の時」
子供の時…夜の暗い源氏池…。
記憶をたどってみたけれど、まったく覚えがなかった。
「いや、覚えてないや。そんなことあったかな?」
と言うと、ハルは
「覚えてないなら、いいの。お腹すいちゃったなぁ。小町通りでフランク食べよっか」
そう言って歩き出した。
僕は振り返って、もう一度あの人の姿を探した。
やはり、どこにも見当たらない。
でも、まぼろしではなかった。
僕のスマホの中に、その姿を留めているのだから。
家に帰ると、真っ先にアルバムを探した。
母さんと映っている写真は、僕の部屋にもあるけど、見たかったのは若い頃の写真だ。
両親の寝室にある、父さんの書棚を探した。
それは、すぐに見つかった。
結婚する前の母さん。
二人は鎌倉で出会った。
母さんは仙台の出身で、鎌倉の女子大に通うために一人暮らしをしていた。
父さんは東京の大学だったけど、地元でバイトを探していた。
二人は同じレストランで、バイト仲間として出会ったらしい。
当時の写真を見ても、母さんは色白で線が細い。
外ではいつも日傘を持っている。
でもその笑顔は明るく、若々しい。
僕の記憶の中の母さんそのものだった。
僕が源氏池で撮った、あの人の写真は、右斜め後ろからの姿で、顔は少ししか映っていない。
よく似ていると言えば言えるけど、この写真の比較だけではなんとも言えなかった。
もう一度、正面から顔が見れたら…
そう思っても、どこの誰かもわからないし、名前も知らない。
もう二度と会えないのか…
そう思うと、思い切って声を掛ければよかったと後悔がわきあがった。
いや、絶対そんなこと、僕にできるわけがないけど。
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