第4話

 レナード殿下に後押しされるがままに、私はエルドレッド殿下の書斎の前まで来ていた。もう入り慣れた部屋だというのに、何だか緊張してしまう。


 エルドレッド殿下には、ずっと言えなかったことがたくさんある。私のエルドレッド殿下への想いはもちろんのこと、殿下とマレット侯爵家の意外な繋がりについてもそうだ。


 殿下はジャスティーナ城に帰ったら、5年前のあの夕暮れの真相を教えてくださると仰っていたが、お話してくださるだろうか。どくどく、と鼓動が早まるのを感じながら、私は書斎の扉をノックした。


「エルドレッド殿下、私です。セレスティアです」


 扉に向かって呼びかければ、間もなくして内側から扉が開かれる。お寛ぎになっていたのか、ラフなシャツ姿のエルドレッド殿下が出迎えてくださった。


「……セレスティア。義兄上とはもう話は終わったの?」


 私を部屋に招き入れながら、エルドレッド殿下はやっぱりどこか寂しそうに笑った。レナード殿下の仰っていた、「俺たちのことを誤解しているんだろう」という言葉が蘇る。


「ええ。ゆっくりとお話しできましたわ」


 なるべく他意の無いように微笑みながら、殿下にエスコートされたソファーに腰を下ろす。殿下もまた、私のすぐ隣に座って、弱々しい笑みを見せた。


「……恋文は渡せた?」


「え?」


 恋文? 何の話だろう。これにはあまりにも心当たりがなくて、驚いたように殿下を見つめ返すことしか出来ない。


「誤魔化さなくてもいいんだよ。……レナード義兄上に送ろうとしていたじゃないか。僕がオリヴィアの幻覚から醒めた直後に」


「あ……」


 確かに、手紙は書いた。結局送れずじまいだったけれど、エルドレッド殿下がお目覚めになったことや、私の家族のことをくれぐれもよろしく頼みたい、と言った旨の、お別れの手紙だ。


「……殿下は、その……あの手紙を恋文だと思っていらしたんですか?」


「違うの?」


 今度はエルドレッド殿下が眉を顰める番だった。どうやらあの手紙を私がレナード殿下へ宛てた恋文だと信じて疑わなかったようだ。


「あれは、本当にお別れの手紙だったのです。あの時の私は、殿下に嫌われていて、その上、オリヴィア姫を演じるなどという、処刑されてもおかしくないことをしでかしてしまったと思い込んでいたのもので……」


 今思えば、少々暴走気味なほどに思い込んでいたのが恥ずかしいくらいだ。それくらいに私の中での5年前の夕暮れは決定的な出来事なのだけれども、エルドレッド殿下にそのあたりの事情が伝わるはずもない。


「……君と義兄上は、お互い憎からず思い合っているものだと思っていた」


 レナード殿下の思わせぶりな言葉を聞いた後では、全くの間違いと言い切ることもできなかったが、少なくとも私は違う。


「レナード殿下のことは尊敬しておりますし、頼りになる王子様だと思っておりますが……恋愛感情はありません」


 その言葉に、エルドレッド殿下が大袈裟なくらいの溜息をついて、両手で顔を覆う。


「そっか……そうなんだ。良かった……」


 安堵するように再び息をつく殿下を見て、レナード殿下の言葉は本当だったのだな、と一人納得してしまう。誤解されるほどレナード殿下と親しくしていた記憶はないが、そのあたりの解釈は人によって違うだろう。


 エルドレッド殿下が、今までどんな気持ちで私とレナード殿下が話す場面を眺めておられたのだろうと思うと、不思議と切ないような気持ちになってしまった。晩餐会の時の寂し気な表情も、これが原因だったのか。


「誤解されるような行動をとってしまい、申し訳ありませんでした」


 好きな人に寂しい思いをさせてしまったというだけで、申し訳ないような気持ちになってしまう。エルドレッド殿下はようやく顔を上げると、どこか恥ずかしそうに小さく笑った。


「謝らないで。勝手に嫉妬した僕が悪いんだ」


「ふふ、私がお慕い申し上げているのは、最初からずっと、ただお一人ですのに」


 示し合わせたかのように、エルドレッド殿下の視線と私の視線が絡む。戸惑いと、少しの期待に揺れる淡い青を、やっぱり愛おしいと思った。


 このまま、伝えてしまおうか。あなたを愛しております、と。それはそれでいい気もしたけれど、やっぱり一つだけ気にかかることがある。


「何があっても私の想いは変わらないと誓っておきますが……一つだけ、お話をお聞かせください。5年前のあの夕暮れに、殿下はどうして私を遠ざけたのですか?」

 

 今でも鮮明に思い出せる。迷子になった私が巡り合った、儚げな天使のような少年の姿。そして、紛れもなく彼の口から放たれた激しい拒絶の言葉を。


「……マレット侯爵家でも言ったと思うけど、本当に些細な理由なんだ」


 エルドレッド殿下は小さく笑いながら、淡い青の瞳を伏せて語り始めた。


「あの頃は、第三王子に引き続き、第四王子と第三王女の事故が起こった、王室内でももっとも荒れていると言ってもいい時期だった。せめて残った僕らの命を守ろうと、城の警備が厳重になったり、移動手段の護衛が見直されたりしている真っ最中でね……」


 激動の王室内で、まだ少年に過ぎなかったエルドレッド殿下はどれほど心細かっただろう。私では計り知れない胸中を思いながら、彼の言葉に耳を傾け続けた。


「数々の警護体制が見直される中で、自然と話題に上がったのが影武者を立てることだった。実際、ジェーン義姉上やパメラ義姉上の影武者はいたんだ。成長と共に似なくなってしまったから、結局解放されたけど」


「影武者……」


 思わず殿下の言葉を復唱すれば、彼はふっと困ったような笑みを見せる。


「ここまで言ったら分かってしまったかな。……国王陛下が血眼になって捜していたのは、溺愛するオリヴィアの影武者でね。もしも影武者が見つかったら、陛下はオリヴィアを王城の奥深くに隠して、表舞台はその影武者に務めさせようとしていたらしい。オリヴィアはそれまでほとんど表舞台に立ったことの無い王女だったから……一見無謀な策も彼女に限っては可能だった。そんな無理を通してでも、陛下はオリヴィアを守りたかったんだ」


 オリヴィア姫は想像以上に陛下に愛されていたようだ。国王陛下が最も愛したエイリーン妃の生き写しとまで言われている王女だから、目に入れてもいたくないほどだったのかもしれない。


「でも……僕は反対だった。僕だってオリヴィアの身は守りたかったけど……王城の奥深くに隠されて、一体何になる? オリヴィアは、このジャスティーナ城を気に入っていたし、母上との思い出がある場所だからずっとここを離れたくないとまで言っていた。そんな彼女を父上の一方的な思惑で、全てから隠し通すのには反対だったんだ」

 

 オリヴィア姫は快活で、お転婆なくらいに明るい王女様だった。そんな彼女が王城の奥深くの一室に囲われたら、恐らく待ち受ける結末はそう幸せなものではないだろう。命は守られても、オリヴィア姫の心の大切などこかが欠けてしまうと懸念するエルドレッド殿下の考えはもっともだった。


「それに、そもそも影武者という制度自体もあまり気に入っていなかった。あの頃の僕は今よりいくらか純粋でね。溺愛している娘でなければ、同じ年のころの少女が死んだって構わない、と考えているような父上に反感を持っていたんだ」


 まあ、結局僕も父上みたいな思想を持つようになってしまったけど、とエルドレッド殿下は自嘲気味に笑う。エルドレッド殿下がそこまで残酷に割り切ることのできる人だとは思わないが、もしもそうだとしたら、オリヴィア姫の死が彼を歪ませたのだろう。


「そんな中で、あの日、君に会ったんだ。セレスティア」


 エルドレッド殿下の淡い青の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。彼はそっと私の手を取ると、どこか懐かしむような素振りで続けた。


「……あの日のことは、よく覚えているよ。バルコニーで佇んでいたら、まるで天使のような女の子が話しかけてきたんだ。夕焼けの光に照らされた銀髪がとても綺麗で、どこか不安そうな表情も可愛かった。確かに僕は一瞬、その子に見惚れていたんだよ」


 くすくすと笑いながら、殿下は私の指にご自身の指を絡めた。


「でも……彼女の銀髪と青い瞳を見て、すぐに気づいてしまった。彼女はまさに陛下が捜しているオリヴィアの影武者にうってつけだと。陛下の目に留まったらまず間違いなく、もう家には戻れないだろうと」


 確かに、今までの話を聞いている限りでは、陛下が私をオリヴィア姫の影武者に仕立て上げるために半ば強制的な手段を取ったとしても不思議はない。あの時の私はそんな危機的な状況にあったのか、と今更ながら寒気が走った。


「それに、あの頃は義兄上たちを殺した犯人の目星すらついていない状況だった。オリヴィアは殆ど表舞台に出ていなかったし、暗殺者の程度によっては、僕と一緒にいる銀髪の少女というだけで、影武者でなくとも殺される危険性があった。あの夕暮れのひと時だって、狙われていないなんて言いきれない。だから、一刻も早く、銀の髪の少女を僕から遠ざけなければならないと思ったんだ」


「……それで、『僕の傍に近寄るな』と仰ったのですね」


 5年前の殿下の言葉を繰り返せば、エルドレッド殿下はどこかばつが悪そうに頷いた。


「……泣きじゃくりながら遠ざかる君の姿を見て、少しだけ安心したんだ。少なくともこれで、君は僕の傍に近寄ってこないだろう。そうすれば、君がオリヴィアと間違えられて殺されることはない、ってね。ついでに、第六王子に嫌われたと思ってくれることで、君が王城で開かれる夜会にも積極的に参加しないようになればいい、なんて目論んでもいた。そうすれば、君が陛下に見つかる可能性も低くなる。そう考えてね」


「そうでしたか……」


 エルドレッド殿下に嫌われていなくとも、マレット侯爵家の経済状況を考えれば、そう頻繁に王城へ上がろうとは思わなかっただろうが、僅かながらにも抑止力にはなっていたかもしれない。私は知らずの内に、エルドレッド殿下に守られていたのだ。


「まあ、結局、僕の努力も空しく君はレナード義兄上に見つかってしまって、王室に――僕に囚われる結果になってしまったけどね」


 影武者じゃないだけ、少しはマシだと思ってくれるかな、とエルドレッド殿下は弱々しく笑った。きっともう私の気持ちにも気づいていらっしゃるだろうに、その言い方は少しだけ意地悪だ。


 何か言い返そうかと逡巡していると、不意に殿下が私に向き直り、今度は私の両手を取る。普段から顔を合わせているというのに、改まって向き合うと何だか気恥ずかしい気がしてしまうから不思議だ。


「……言い訳じみた説明をしたけど、君を守る意図が含まれていたとはいえ、必要以上にきつい言葉になってしまったと思う。きっと君を深く傷つけただろう。本当に申し訳ないことをしてしまった」


 エルドレッド殿下は頭を下げて、真摯な謝罪をなさった。


「あんな言い方をしてしまったんだ。君が僕に嫌われていると思い込んでいたのも当然だ。むしろそうなるよう仕向けたんだから。もっと早くにこのことを思い出せたら良かったんだけど……それでも、ずっと僕の傍にいてくれて、ありがとう、ごめんね、セレスティア」


「エルドレッド殿下……」


 真剣なエルドレッド殿下の瞳を見て、何だか安堵している私がいた。


 本当に、私はエルドレッド殿下に嫌われていなかったのだ。彼の言葉を疑っていたわけではないが、あの5年前の夕暮れの少女と私が結びついていないが故の「君を嫌っていない」という意思表示だったらどうしようかと不安に思っている私は確かにいたのだから。


 でも、今日からはその不安ともお別れだ。私は、エルドレッド殿下に嫌われていない。この想いを口にしても、彼に不快な思いをさせる可能性は限りなく低い。それだけでも、途方もない解放感を味わった。


「お礼を言わなければならないのは、私の方ですね。私を守ってくださって、ありがとうございます。……エルドレッド」


 意識して彼の名前を呼べば、それだけで繋いだ指先から彼の戸惑いが伝わってくる。腹黒くても、ちょっと歪んだところがあっても、やっぱり私にとっては可愛い人だ。


「あなたが守ってくださったから、こうして私たちは出会えたのですね。……今は、それがただただ嬉しくてならないんです」


「セレスティア……」


 感極まったように私の名を呼ぶ殿下を見て、思わずくすくすと笑ってしまった。

 

 大丈夫、今なら自然と言える気がする。この想いを包み隠さずに、お伝えできるような気がする。


 一度だけゆっくりと瞬きをして、息を整える。それから真っ直ぐに、殿下の淡い青の瞳を見つめた。


「私、エルドレッドが好きです。……他の誰よりも、何よりも、あなたを愛しています。叶うなら、このまま婚約者として……いつかは、あなたの妻として、あなたの傍にいたいのです」


 心臓はかつてないほどに早まっていたが、不思議なことにとても自然に笑うことが出来た。


「あなたの隣に立つことを、許していただけるでしょうか。……エル」


 いつか彼が呼んでほしいと願った愛称で呼べば、エルドレッド殿下の瞳から、ぽたり、と一粒の涙が零れ落ちたのが分かった。これには私も驚いてしまう。


「っ……だ、大丈夫ですか!?」


 驚いて彼の頬に触れ、涙を拭えば、どこか震えるような指先で、彼が私の手首を掴んだ。そのまま引き寄せられ、彼の肩口に顔を埋めるような形になってしまう。


 エルドレッド殿下は、そのまましばらく私を抱きしめ続けた。強い力で抱き寄せられているために、彼の表情は窺い知れなかったが、やっぱり泣いているようにも思えて、私もそっと彼の背中を撫でた。


「……こんな僕の、傍にいてくれるの、セレスティア」


 震える声で紡がれる言葉は、歓喜に震えているようにも、私の言葉を信じられずに怯えているようにも聞こえた。


「ええ、許してくださるのなら、この命ある限りお傍におります。健康にも気を付けて……可能な限り、あなたより先に死んでしまわないように気をつけます」


 エルドレッド殿下はもう充分、大切な人を失っている。だからせめて、妻を失う寂しさだけは、味わわせて差し上げたくなかった。


「このお城に纏わりついた悲しい記憶は消えなくとも、この先はきっと、エルに寂しいなんて言わせないくらいの賑やかな場所にしてみせます。いつか子供も生まれたりしたらきっと、うるさいくらいの賑やかな場所になるはずです」


 近いような遠いような、まだ夢でしかない未来を思い描いてみる。エルドレッド殿下似の子どもが生まれたりしたら、それはもう愛らしいだろうな、と思わず頬が緩んでしまった。


「……君がいるだけでこの城は温かい。陽だまりに包まれているような気がするんだ」


「大袈裟です……恥ずかしくなってしまいますわ」


 エルドレッド殿下はエディ様やレナード殿下に対しては素直でない物言いをなさるのに、私に対してはどうやら例外のようだ、と頬を熱くする。今更ながら抱きしめられている緊張感も相まって、のぼせてしまいそうだった。


「僕も……僕も、君が好きだ、セレスティア」


 熱に浮かされたような掠れた声で囁かれると、それだけで体温が急上昇してしまう気がする。これは大変心臓に悪い。


「愛している」


 続けて追い打ちをかけるように耳元で囁かれてしまい、あっという間に私の緊張は限界を突破してしまったようで、気づけば私は嬉しさからなのか恥ずかしさからなのかよく分からない涙を零していた。悲しいわけでもないのに、二人して涙しているなんて妙な話だ。


 エルドレッド殿下の指先が、目尻に溜まった涙を拭ってくださる。お互いに未だ潤んだような目で見つめ合えば、どちらからともなくくすくすと笑い合った。夢だと言われてもまだ信じられないような幸福に包まれていた。

 

 やがて殿下は私の左手を取ると、そっと薬指の付け根に口付けを落とした。何だかくすぐったいような、恥ずかしいような気がしてしまって、ますます顔が熱くなってしまう。


「……指輪の代わり。すぐに用意するからね」


 そのまま私の顔を覗き込むように悪戯っぽく微笑む殿下は、先ほど私の告白を受けて涙していた可愛い人とはまるで別人のような色気を放っていた。エルドレッド殿下は魅力的な面を持ちすぎだ。


「っ……楽しみにしておりますわ」


 心臓も、頬に帯びた熱ももう限界だ。たまらず殿下から顔を背けようとすれば、すかさず殿下の手が私の頬に伸びる。


「口付けてもいい?」


 まるでいつかの時のように私に許可を乞うその姿に、何も言えなくなってしまう。本当にずるいお方だ。


「っ……許可は取らなくていいと申し上げたはずです。私は……あなたの婚約者なのですから、エル」


 何とか言葉を絞り出せば、至近距離で満足そうに微笑む殿下のお顔があった。


 振り回されているのはやっぱり、私の方だわ、と半ば自棄になってぎゅっと目をつぶる。


「可愛い、セレスティア」


 そう呟いたかと思うと、ちゅっと頬に口付けられる気配がした。やっぱり私をからかっておられるようだ。


 抗議の声を上げようと、そっと目を開いて彼を見上げる。


「もう! エル――」


 殿下はその言葉ごと攫うように、今度こそ唇に口付けた。不意打ちに驚いたのも束の間、だんだんと甘さに酔いしれるように肩の力が抜ける。


 いつかの口付けとは違う、ただただ幸せで甘ったるい、特別な口付けだった。


 私は、これからもこの愛しい人の隣で生きていけるのだ。その幸福に酔いしれながら、熱を帯びた口付けを記憶の奥にしっかりと刻みつけるのだった。

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