第四章 陽だまりのセレスティア
第1話
無事にジャスティーナ城に辿り着いてからというもの、私は私室のベッドの上で絶対安静を言いつけられていた。
「少なくとも一週間は安静にしていてください。傷口は絶対に日に当てないように」
ご自身だって右腕を負傷しているというのに、エディ様は丹念に私の傷を診察してくださった。私の傍にはエルドレッド殿下がぴったりと寄り添って下さり、ナタリーは作業をしながらも微笑ましいものを見るように私たちを見守る、といった構図だった。
「セレスティア、痛むかい?」
「もう痛みませんわ。エディ様がお薬を出してくださいましたから」
エルドレッド殿下は私の右肩にまかれた包帯を痛ましそうに眺め、整った眉を下げた。殿下が悪いわけではないのに、まるで罪悪感に打ちひしがれているような彼の姿に、思わず怪我人の私が励ますように声をかけてしまう。
「……殿下がそのようなお顔をなさる必要はございませんわ」
「……第二王子の狙いは君を殺して僕の心を壊すことだったんだろう? 君は僕の婚約者だったばっかりに、こんな目に遭ったかと思うと……」
ごめんね、セレスティア、と繰り返すエルドレッド殿下は、やっぱりお優しい方だと思う。私の受けた痛みを、まるでご自分も受けたかのように苦しんでくださる。エディ様やレナード殿下は色々と仰るけれど、やっぱり私にとってエルドレッド殿下は、慈しみ深く心優しい初恋の人だった。
「確かに、王族の婚約者というだけで命を狙われる危険性は高まるのかもしれませんが……」
エルドレッド殿下の淡い青の瞳を見据え、なるべく柔らかく微笑んで見せる。
「私はそれ以上に、エルドレッド殿下から沢山の温かい感情をいただいております。ですから、そんな風に仰ると悲しいです」
「セレスティア……」
殿下は感極まったと言わんばかりに、熱のこもった目で私を見つめると、そっとその腕に私を抱こうとなさった。
だが、それもエディ様の鋭い指摘によってあっさりと阻まれてしまう。
「殿下、セレスティア様は怪我をされているのですから、過度な接触は控えていただきますよう」
エディ様はエルドレッド殿下が私たちを助けに来てくださった際に見せた表情とは、まるで別人のような冷ややかな面持ちで殿下を見下ろした。
「過度な接触? 婚約者を抱きしめることのどこか過度な接触なんだ」
「セレスティア様は肩を怪我されているのですよ。ご自分の望みばかり押し付けるのは、いい加減おやめになったらいかがですか?」
エディ様の歯に衣着せぬ物言いに、殿下はどこか睨むように視線を鋭くする。それを諫めてくれたのは意外なことにもナタリーだった。
「まあまあ、エディ様、いいではありませんか。殿下もセレスティア様がいらっしゃらなくてずっと寂しい思いをなさっていたのですから」
「……あなたが殿下の肩を持つとは珍しいこともあるものですね」
エディ様は言葉通り心底意外とでも言うようにナタリーを見下ろしていた。彼女はどこか苦笑交じりに視線を泳がせると、ちらりと殿下を一瞥する。
「それは……まあ、この一週間の殿下の覇気のなさと言ったらありませんでしたから。お城中が暗くなるようでした」
「……そうだったか?」
ナタリーの指摘に、殿下は今初めて気づいたと言わんばかりに僅かに目を見開いた。ナタリーは若干呆れ気味に殿下を見つめると、溜息交じりに告げる。
「はい、それはもう……。暇さえあればずっと、マレット侯爵家の馬車が通りかからないかと、窓の外をご覧になっていたではありませんか」
窓辺で寂し気に外を眺める殿下の姿を想像すると、それだけできゅっと胸の奥が締め付けられるようだった。長い孤独に耐えてきた殿下だから、いくら私を信頼してくれていると言っても、一人ぼっちになるのはやっぱり寂しかったのかもしれない。
「情けないですね、殿下。侯爵家ではあんなに余裕のあるそぶりを見せていたのに――」
エディ様のその言葉は、私が殿下を抱きしめたことによって中断されてしまった。動かすと僅かに右肩が痛むが、そんなことは気にならない。
思えば、お城に返ってきてから殿下をこうして抱きしめたのは初めてかもしれなかった。なんだかんだ言って、殿下は私の体を気遣ってくださっていたのだから。
「っ……セレスティア。大丈夫? 痛くないかい?」
ベッドから身を乗り出すようにして殿下を抱きしめているせいで、上半身の体重の殆どを殿下に預けるような形になってしまっている。それでも殿下は戸惑う素振り一つ見せず、しっかりと私を抱きしめてくださった。
「あ、あたし、紅茶でも淹れてきますね! エディ様も手伝ってくださいませ」
「あ……そうですね。ハーブティーでも淹れてきます」
恐らく、私たちに気を遣ってくれたのだろう。ナタリーはエディ様の背中を押しながら、立ち去り際ににこりと笑ってみせた。殿下を抱きしめながら、私もふっと微笑み返せば、ぱたりと扉が閉じられたのを機に、殿下とふたりきりになってしまう。
寝室に二人きりになったのは、いつかレナード殿下が私の部屋のバルコニーへやってきて、それを目撃したエルドレッド殿下に押し倒されたとき以来だ。
思えば、あれをきっかけに私と殿下の距離は縮まったのだっけ、と思えば、決して明るいだけではないあの思い出も不思議と懐かしく思えた。
本来ならば、婚約者同士とはいえ、まだ正式に結婚式を挙げていない私たちが密室に二人きり、という状況は好ましくないだろうが、今はナタリーもエディ様も目を瞑ってくれるつもりらしい。
そのままどのくらい抱きしめ合っていただろう。やがてエルドレッド殿下は、小さく笑うように何の前触れもなく口を開いた。
「そのくらいの長さだと、毛先が当たってくすぐったいね」
肩のあたりで切りそろえた銀髪のことを言っているのだろうか。確かに、毛先が殿下の首筋なんかに当たってしまっているのかもしれない。
「……申し訳ありません。殿下の婚約者でありながら、このような目も当てられぬ姿になってしまい……」
髪の長さは長ければ長いほどいい、というわけでもないが、貴族令嬢としては、余裕をもって結い上げることが出来るくらいの長さは必要だ。普段は髪飾りをつけるだけで、結い上げずに下ろして過ごす令嬢も多いだろうが、やはり公の場に出るときには結い上げているほうが好ましい。
今の私の長さでは、まず結い上げることなんて不可能だろう。近々公の場に出るというような話は聞いていないが、もしもそのようなことがあればベールを纏った方がいいかもしれない。
「目も当てられない? どうして?」
殿下は心底意外というように、私を抱きしめたまま、まじまじとこちらを見つめてきた。その淡い青の瞳には嫌味も皮肉も一切なく、純粋に疑問に思っているようだった。
「こんなに短いのは、貴族令嬢としては相応しくありませんわ。ましてや、殿下の婚約者がこのようななりでは……殿下まで笑われてしまうかもしれません」
「こんなに綺麗な銀の髪なんだ。ちっとも変じゃないよ。今までとは違う飾りが似合いそうじゃないか」
殿下はさらさらと私の髪を弄ぶと、にこりと微笑んで見せる。心の底からそう思ってくださっているのだろう。殿下のその笑顔を見ていると、つまらぬことに囚われてくよくよと悩んでいる私の方が馬鹿らしく思えてきた。
「……では、是非この髪型にも似合う髪飾りを殿下に見立てていただきたいです」
「もちろんだ。あ、でも、傷が治ってからだね。エディの監視が怖いから」
「ふふ、そうですわね」
どちらからともなくくすくすと笑い合い、少しずつ普段通りの二人に戻っている気配がして、居心地がよかった。
ひとしきり笑い終えた後、殿下は改めて私を抱きしめて、ぽつりと呟く。
「……戻ってきてくれてありがとう、セレスティア」
「……お礼を申し上げるのはこちらの方です、殿下。助けに来てくださってありがとうございました。あの瞬間、どれだけエルドレッド殿下が頼もしく思えたことか……。本当に王子様なのですわね」
血の海の中で立つエルドレッド殿下は、冷静に考えればとても物騒なお姿だったはずなのに、美しさしか思い起こさせない辺り、私はすっかり殿下の独特な雰囲気にのまれてしまっているのだと思う。
「騎士道精神に反する王子だけどね」
どことなく自嘲気味に笑えば、殿下はようやく少しだけ体を離した。そのまま私の体を労わるように、そっと上体をクッションの上に寝かせてくれる。
「命と矜持のどちらを重んじるかは人によります。こんなことを言っては何ですが……結果として殿下が私とエディ様の命を優先してくださったこと、とても嬉しく思っておりますわ」
「レナード義兄上は騎士道を重んじる人だし、これがきっかけでセレスティアに嫌われたらどうしようと思っていたけど……」
「まさか、私がエルドレッド殿下を嫌うなんてありえませんわ」
私のエルドレッド殿下への想いを抜きにしても、命を救ってくれた人を悪く言えるはずもない。大真面目にそう言ってのければ、エルドレッド殿下はどこか安心したように微笑した。
「良かった。セレスティアに嫌われたら城のバルコニーから飛び降りるところだった」
妙に爽やかな笑顔で言ってのけるが、彼ならばやりかねないと思うあたり、私も大分殿下のことが分かってきたような気がする。私も人のことは言えないが、一度悪い方向へ考えるととことん突き進むのが殿下の癖だ。
「……冗談でもおやめくださいませね」
苦笑交じりに念を押せば、エルドレッド殿下はやっぱりつかみどころのない、にこにことした笑みを浮かべるばかりだった。
「放っておけないだろう?」
意味ありげな笑みを浮かべる殿下の目は、冗談を言っているようには見えなくて、思わず微笑みながらも小さな息をついてしまった。殿下には敵わない。
「……分かっていてやっているのなら、ずるいお方です」
そんな風に脅迫しなくたって、私から殿下のお傍を離れるようなことはないのに。
そこまで考えてふと、お城に帰ったら殿下にお話しようとしていたことをまだ何一つ告げていないことに気が付いた。
殿下への想い、マレット侯爵家と殿下の意外な繋がり、5年前の夕暮れの真相。それらを一度に話すには、まだ私も殿下も日常を取り戻していなかったが、こうして無事に帰ってこられた以上はきちんと話し合わなければ。
だが、先の口を開いたのは殿下の方で、その予想以上に暗い声音に驚いてしまう。
「君が第二王子に誘拐されたという知らせを受けたときは、本当に怖かった」
殿下は私の手を握ったまま、弱々しい微笑みを浮かべた。
「君を失ったらどうしようか、って、そればかりが頭を過って……結果的に助けられたからよかったけど、君にもしものことがあれば僕は――」
その先は、言われなくとも分かっていた。今回の時間は、きっと殿下の繊細な心に大きな打撃を与えてしまったのだろうと知る。
攫われてしまったことに申し訳なさを感じながらも、謝ると言うのも妙だ。私はそっと殿下の手を握り返しながら、頬を緩めて彼を見上げる。
「大丈夫です、エルドレッド。もう二度とあなたの傍を離れませんわ」
「……セレスティア」
私を失うことに怯える殿下は、どこか子どものような一面もあって、殿下の言う通りやっぱり放っておけない。そのまま私は繋いだ手とは反対側の手の小指を差し出して、にこりと笑ってみせた。
「ふふ、マレット侯爵領では、約束をするときには小指を絡ませて誓う風習があるのです。おまじないの一種のようなものですわ」
「……こう?」
殿下がおずおずと私の小指にご自身の小指を絡ませてくる。お城育ちの王子様が知っているはずもないと思っていたが、聞いたばかりの風習を早速実行に移すエルドレッド殿下はやっぱりどこか子どものような一面を持ち合わせていて、どうしようもなく愛おしかった。
「ええ。約束です。私はもう、あなたのお傍を離れませんわ」
「うん……ありがとう。……本当は、一刻も早くおまじないより強いもので君を縛りたくて仕方ないけど」
「……法律のことだと信じておりますわね」
思わず引き攣った笑みを浮かべれば、殿下はまたしても意味ありげな笑みを浮かべる。
「法律になら僕に縛られてくれるの、セレスティア」
もしかして私は遠回しな求婚をしてしまったのかしら、と内心慌ててしまう。自分の気持ちをはっきりと伝える前に求婚なんて、順番が滅茶苦茶だ。
殿下はそんな私の反応を楽しむかのようにしばらく眺めた後に、ふっと柔らかな表情を見せる。私の好きな、幸せそうな優しい微笑みだ。
「慌ててるセレスティアもいいね。……でも、大丈夫。約束がなくたって、僕は君を信じているよ。今回だって、ちゃんと僕のもとへ帰ってきてくれたしね」
その信頼が、今の私には何よりも嬉しかった。限りのない幸せを感じて、自然と頬が緩んでしまう。
やがて、どちらからともなく手を伸ばせば、再びぎゅっと抱きしめ合った。脳の奥まで溶けていくような優しい香りに包まれながら、私は久しぶりに心から安心するひと時を過ごしたのだった。
国王陛下から、私の安否を尋ねる突然の手紙が届いたのは、それから三日後のことだった。
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