第16話

 薄暗いベッドの上、仄かに薬品の臭いが漂う異質な部屋の中、私は目の前に迫ったエディ様を怯えるように見上げていた。


 エディ様は首元のタイを解くと、ぎし、とベッドを軋ませながら私のすぐ傍に乗り上げる。


 一体何をされるのだろう。あまりの恐怖に小刻みに体が震えるが、エディ様は構うことなく私の右腕を掴んだ。


「エディ様、一体何を――」


「怖かった……!」


「え?」


 あまりに突拍子もない告白に目を見開けば、エディ様の深緑の瞳が食い入るように私を見下ろしていた。


「あれ、演技ですよね? 演技だと言ってくださいセレスティア様! ものすごく怖かった!!」


「な、何の話でしょう……」


「『裏切者!』とか『私に気安く触れないで!』っていうあの言葉ですよ!! まさか、あれが本性なんですか……?」


 エディ様は今にも泣きそうな目で私を見つめながらも、負傷している私の右肩に広げたタイを巻いてくれた。そのまま手際よく結びつけ、あまり動かないように固定してくれる。


 さりげないその手当を見ているだけでも、何だか無性に泣き出したいような、深い安堵が広がっていくような気がしてならなかった。


 ああ、良かった。いつものエディ様だ。私やエルドレッド殿下の傍で穏やかに笑う、私の良く知っているエディ様なのだ。


「それとも、が本当にあなた方を裏切っているとでもお思いになりましたか? セレスティア様には伝わっていると思っていたのですが――」


「信じていましたわ、エディ様のこと。それはもちろん……あまりの冷たいお顔に、疑念がちらついた時もありましたが……。あなたが私を裏切る演技をするならば、私もそれにお応えしなければ、と思いまして……」


「迫真の演技過ぎます! 思わず泣きそうになりましたよ!?」


「それは私も同じ気持ちです! エディ様、本当に怖かったんですから!」


 あの冷たい面持ちも声も、私の知らないエディ様だった。本当に私たちを裏切っていたらどうしよう、という不安を抱くくらいには怖かった。


「演技とはいえ、セレスティア様を迫害する素振りを見せるのは胃に穴が開きそうな思いだったので……つい、いつもにも増して感情を抑え込んでしまいました。セレスティア様に罵られるたび、死にたい気持ちになっていたんですよ……」


「それは、その……申し訳ないことをいたしましたわ」


 薄暗い部屋の中、ベッドに腰かけたまましょんぼりとするエディ様を見ていると、張り詰めていた緊張の糸が更に緩むのを感じた。


「いえ……謝らなければならないのは俺の方です、セレスティア様。演技とはいえ、あなたに痛い思いも怖い思いも沢山させてしまいましたから……それに、御髪まで……」


 エディ様は悲痛なものを見るように、肩のあたりでばっさりと切られた私の髪を見つめた。改めて自分の姿を見下ろしてみると、今まで腰のあたりまで伸びていた髪がないというのは不思議な気持ちだった。


「……悲しかったけれど、いいのです。髪はまた伸びますから。でも……エルドレッド殿下はお気に召さないでしょうね」


 私の銀の髪を美しいと褒めてくださったエルドレッド殿下のお顔を思い出すと、少しだけしんみりとしてしまう。以前と同じ長さまで伸ばすには、どれだけの時間がかかるだろう。


「エルドレッド殿下はセレスティア様がお傍にいれば、それで何も問題ないはずです。あなたがどんな姿をしていようとも、あの方はあなたを慈しまれるでしょうから」


 なんて、お守りできなかった俺が言うのも差し出がましいですが、とエディ様は再び肩を落とす。あまりに自分を責めるようなその後ろ姿に、思わずそっと彼の肩に触れた。


「……エディ様がいなければ私、今頃とっくに殺されていましたわ。ありがとうございます。私の命を救ってくださって」


「……セレスティア様」


 エディ様はやっぱり落ち込んでいる様子だったが、励ますような私の笑みを見て、やがて弱々しく微笑んだ。


「……帰りましょう、エディ様。エルドレッド殿下のもとへ」


「そうですね。まだうかうかしていられない。お城に帰るまでが救出劇です」


 エディ様は切り替えたように姿勢を正すと、私の手首に巻き付いていた鎖を解いた。僅かに赤くなった皮膚はひりひりと痛んだが、耐えられないほどではない。


「……この部屋、用の部屋なので、治療に使えるようなものは殆どないんです。痛いでしょうに……申し訳ありません、セレスティア様」


 エディ様は私の手首を見て申し訳なさそうに眉を下げたが、さらりと口にした「処理」という言葉に思わず笑みが引き攣ってしまった。やはり、ここには長居すべきではない。


「いいのです。それよりも、どうやって外へ……?」


「この部屋には抜け道があります。その先でエルドレッド殿下がお待ちになっているはずです」


「殿下が……?」


 私たちを迎えに来てくださったのだろうか。再会の予感を感じて思わず目が熱くなる。


 ……エルドレッド殿下、もうすぐお会いできるのですね。


 時間にしてみればほんの一週間会っていないだけだというのに、なんだか随分長いことお会いしていないような気がしてしまう。エルドレッド殿下にはどれだけのご迷惑をおかけしてしまっただろうか。


「もうすぐ、ちょっとした騒ぎが起こるはずです。それに乗じて脱出します。それまでに、出来る限りの準備をしておかなければ」


「ちょっとした騒ぎ?」


 エディ様は丹念に私の体の傷を診察しながら、意味ありげに微笑む。


「あなたの未来の旦那様は、なかなか食えないお人です。奪われたら奪い返すだけでなく……やり返さなければ気が済まないらしいですね」


 微笑みながらも、エディ様はご自身が身に着けているベストやタイを留めていた飾りを床に放り投げた。ころころと乾いた音が静かな部屋に響き渡る。


「……エディ様、装飾品がベッドの下にでも入ってしまったら大変ですわ」


 床に身に着けていたものを投げ捨てるなんて、エディ様らしくない。そう思って指摘したことなのだが、エディ様は薬品棚を漁りながら淡々と答えを返す。


「いいのです。俺はここで焼け死ぬことになっているので。燃えにくいものを残しておかないと証拠になりませんからね」


「……え?」


「あ、あくまでもそういうことになっている、というだけですよ。本当に死ぬわけじゃありません」


 エディ様は薬品棚からいくつかの小瓶を取りだしたかと思うと、懐中時計を確認した。


「そろそろですね……」


 エディ様のその言葉を待っていたかのように、屋敷のどこかから爆発音のような大きな音が響き渡った。思わずびくりと肩を震わせると、エディ様が私をベッドの上から抱き上げる。


「エディ様、今の音は……」


 明らかに何らかの異変があったとしか思えない。不安げにエディ様を見つめれば、彼は私を安心させるかのような穏やかな笑みを見せた。


「エルドレッド殿下ですよ。多分、セドリック殿下の寝室付近の部屋に火をつけたのでしょうね。あの方は、この騒ぎに乗じてセドリック殿下の悪事の証拠を探るらしいです」


「まさか……エルドレッド殿下ご自身が?」


「まあ、証拠を見つけるのは二の次で、一番の目的は俺たちをこの屋敷から脱出させやすくすることらしいんですがね」


 屋敷の主の部屋が燃えそうだったら、使用人たちも慌てふためくでしょう? とエディ様はにこにこと微笑む。エルドレッド殿下もエディ様も、一見すれば優しそうなのに、やることがえげつない。


「……そんなことをして、エルドレッド殿下は大丈夫なのでしょうか?」


「あの人はお城に引きこもっていたおかげで、あまり面が割れてませんからね。万が一のことがあれば、セドリック殿下の駒の一人に上手く成り済ますと思いますよ」


 エディ様は私を抱き上げたまま部屋の中を見渡すと、意を決したように小さく息をついた。


「それではセレスティア様、俺にちゃんと捕まっていてくださいね。移動中は舌を噛まないようにお気を付け下さい」


「え、ええ……」


 言われるがままにエディ様の首に腕を回し、ぎゅっとしがみ付けば、エディ様はどこか可笑しそうにふっと笑った。


「この状況、殿下に見られたら俺は殺されちゃうかもしれませんね」


 冗談めかして笑うエディ様だったが、半分くらいは本気で恐れているような気もして、何だか私もふっと笑ってしまった。お城で繰り広げられるのと同じ、いつも通りの会話にとてつもない安心感を覚える。


「大丈夫、私がちゃんと庇って差し上げますわ」


「それは心強い。前向きにお城へ帰る決心が出来ました」


 エディ様は薬品の中身をドアのあたりにばしゃばしゃと振りかけると、僅かに遠ざかり、室内を照らしていた燭台を片手に扉の方へ向き直った。


「それでは行きますよ」


「ええ」


 エディ様の言葉を合図に、燭台が薬品をかけられた扉の方へ投げられる。ゆっくりと燃え上がる炎は場違いなくらいに綺麗で、私もエディ様もほんの数秒間だけその美しさに見惚れていた。


「……せいぜい焼き尽くしてくださいよ。この忌まわしい屋敷も、あの冷酷な第二王子のことも」


 エディ様は、ありったけの怒りと憎悪を込めるようにそう言い放った。その言葉に応えるように、ほんの少しだけ炎が大きくなったような気がする。


 エディ様はやがて燃え盛る扉に背を向けると、壁の一部を強く押し切った。軋んだ木の音と共に、冷えた風が吹き抜ける。どうやらこれが抜け道らしい。


「あまり良い空気とは言えませんので、顔を埋めていていてください」


「分かりました」


 エディ様に言われるがままに、しがみつくようにエディ様の外套に顔を埋めれば、彼はそれを合図に走り出した。抜け道の中は階段になっているようで、エディ様の靴音だけが響き渡る。


 再び軋んだ音を立てて、隠し扉が閉まっていく。燃え盛る炎の光が途絶えた抜け道は本当に暗かったが、エディ様は道順を覚えていらっしゃるのだろう。一度も立ち止まることなく、前へ前へと進み続けた。

 

 次第に、やがてエディ様は、小さな通気口のような場所まで辿り着くと、一旦私を床に降ろし、覆いを取った。薄い月明かりが差し込んでくる。


「俺が先に出て周囲を確認します」


「お願いします」


 エディ様は素早く外へ這い出ると、何度も辺りを確認した。エルドレッド殿下が仕掛けたという爆発のせいか、人の声はするものの、皆そちらの対応に追われているようだった。


「大丈夫です。セレスティア様、お手を」


 エディ様に言われるがままに左手を差し出せば、彼が手を引いてくれる。通気口を這い出る際に多少ドレスが汚れたが、外に出られた安心感で気に留める暇もなかった。


「参りましょう。エルドレッド殿下がお待ちですから」


「はい」


 再びエディ様に抱き上げられ、舌を噛まないようにぎゅっと唇を引き結ぶ。セドリック殿下のお屋敷は王都にあるのかと思っていたが、意外にも森の中に位置しているようだった。


 冷たい秋の夜風に短くなった髪が煽られる。切られた際の毛束がまだ少し残っていたのか、ぱらぱらと銀色が舞った。エディ様は一瞬だけ名残惜しそうにその銀色を眺めていたが、すぐに私を抱えたまま走り出す。


「森の中に、馬を留めてあるはずです。急ぎましょう」


 舌を噛まないように口を引き結んでいたため、こくりと頷くだけの返事をした。


 星空の中に浮かび上がる青白い三日月は、場違いなくらいに綺麗で、エディ様の腕の中でその美しさに見惚れてしまった。


 ああ、でも、三日月はエルドレッド殿下にとっては忌まわしいものだったはずだ。嫌でもオリヴィア姫の亡くなった日のことを思い出すはずなのだから。


 でも、もう大丈夫。もうすぐ、エルドレッド殿下に再会できるはず。


 その期待に胸を弾ませながら、私は体を安定させるためにエディ様の首元にぎゅっとしがみ付いた。エディ様の温もりを確かに感じて、この脱出劇が夢ではないことを改めて確認する。


「……もうすぐですよ」


 エディ様は私が怯えているとでも思ったのか、安心させるように囁いた。思えば私が刺した右腕は痛むはずなのに、それでもこうして私を安全な場所へ導こうとしてくださるエディ様の優しさにやっぱり泣きそうになってしまった。


 だが、順調に思われた脱出劇は突然に終わりを告げる。


「エディ先生?」


 低くしわがれた男の声が背後から響く。


 どくん、と心臓が跳ねるのが分かった。

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