第14話
どれくらいの時間、微睡の中にいただろう。
冷たくて堅い床の感触に、はっと目を覚ます。手足が縛られているのか、慣れない方向に手や足が曲がっており、節々が痛む気がした。何より、馬車の窓ガラスで怪我をした右肩が熱を帯びるような痛みを訴えている。
「目覚めましたか、セレスティア・マレット嬢」
星空が望める大きな窓が付いた広い部屋、真っ白で清潔なベッドの上に、その人はいた。
優しそうな紫の瞳と少し癖のある淡い白金の髪を持ったその人は、一見するとまるで天使のような、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。病的なまでに白い肌が、余計に彼に非現実感を与えている。
「っ……ここは……」
手足が縛られているために上手く体を起こせない。仕方なく視線だけで辺りを伺えば、部屋の隅に佇む黒い外套姿のエディ様の姿があった。月の光が強く、彼の表情までは窺い知れない。
「ここは僕の屋敷です。記憶が正しければ、あなたとは初めてお会いしますね。セレスティア嬢」
ベッドの上で微笑む青年が、穏やかな物腰で説明してくれた。一見すれば優しそうに見えるのはエルドレッド殿下と似ているのかもしれないが、この方は異様なほど浮世離れした雰囲気を持っていた。エルドレッド殿下はいつもどこか物憂げな雰囲気をお持ちで、それが彼の魅力の一つでもあるのだけれど、この方はあらゆる仄暗いものとは無縁の、怖いくらいに清らかな空気を纏っている。
「僕はセドリック・ローウェル。この国の第二王子です。あなたの婚約者の腹違いの兄に当たりますから……あなたにとって、僕は義兄のようなものでしょうか」
……ああ、この方がセドリック殿下なのね。
恐らく私を捕らえるよう指示した張本人のはずなのに、やけに穏やかな物腰が却って気味悪かった。言葉だけを聞けば紳士的にも聞こえるかもしれないが、捕らえた令嬢を冷たい床の上に転がしている時点で充分に冷酷な人だった。
「エディにも挨拶をさせましょうか? あなたの大切なお友だちだったのでしょう?」
「……裏切者に用はありませんわ」
意識を失う寸前まで続けていた演技を即座に再開させれば、セドリック殿下はどこか面白そうに紫の瞳を細め、エディ様の方を一瞥した。
「だそうですよ、エディ。残念でしたね、こんな美しいご令嬢に嫌われてしまって」
「ごっこ遊びには疲れていたところですから、特別未練もありません」
淡々とした声で言い放つエディ様に、セドリック殿下は意味ありげに笑みを深める。
「てっきり、君はエルドレッドやセレスティア嬢に通じていると思っていたのですがね……。セレスティア嬢に腕を刺されたと聞いて、考えを改めましたよ。僕に復讐も遂げられず、かといって新たな主を見つけるわけでもないとは……僕が思っていたより、君は愚鈍な人間のようですね」
まあ、その方が僕としては都合がいいのですが、と笑うセドリック殿下の声を耳にしながら、私は内心安堵していた。
エディ様に痛みを味わわせてしまったことは今でも心苦しいが、結果的に私がエディ様を指したことでエディ様はセドリック殿下の信頼を得られているようだ。ひとまず、エディ様が始末されるような事態にはならないのだと知って、少しだけ安心する。
これは、私が下手な演技をして疑われるわけにはいかなくなった。今まで以上に、エディ様に裏切られた可哀想な「お姫様」を演じなければ。
「許さないわ、エディ。私、あなたを信じていたのよ。お友だちだって。エルドレッド殿下にとっても、きっとご友人に近い大切な人なんだって」
ありったけの憎悪を込めて、床に這いつくばったままエディ様を睨み上げれば、彼は深緑の瞳で静かに私を見下ろしていた。
「……あなたのようなお人形に許されなかったところで、痛くもかゆくもありませんが」
「エルドレッド殿下にもしものことがあったら……私は絶対にあなたを許さない。この手が自由になったら、まず真っ先にあなたの首を絞めて差し上げるわ、エディ」
「これはこれは、随分物騒なご令嬢だ。エルドレッドも趣味が悪い」
セドリック殿下はくすくすと笑いながら私たちのやり取りを見守っていたが、やがて私に視線を止める。目が合ったのを機に、セドリック殿下をきっと睨み上げた。
「……私を捕らえてどうするつもり?」
「せっかちなお嬢さんだ。僕のことを、お義兄様、と呼んでもいいのですよ? あなたがエルドレッドにしたように」
セドリック殿下はくすくすと笑うと、深い紫の瞳で私を見下ろした。やっぱりその瞳はどこまでも優しそうで、少しの翳りも闇もない。エディ様の話によれば、彼の指示でいくつもの命が失われてるはずなのに、虫も殺せないような顔をしている。
「……敬意を払うべき相手は自分で選ぶわ。少なくとも、義弟の婚約者を誘拐するような人に払う敬意は持ち合わせていないの」
「話に聞いていたより強情そうなお嬢さんなのですね、セレスティア嬢は。そう思いませんか、エディ」
セドリック殿下はエディ様の方を見向きもせずに彼に語り掛ける。
「……生命の危機に陥って、本性が露わになったのでしょう」
「確かに、人の本性を見るには殺しかけるのが一番かもしれませんね」
セドリック殿下はベッドの上で上体を起こしただけの体勢で、ゆっくりと窓の外を眺めた。多少三日月に消されてしまっているものの、いくつもの銀色の星が瞬いていた。
「とはいえ、あなたの本性が何であろうがどうでも良いのです、セレスティア嬢。あなたには、エルドレッドの心を壊すために犠牲になってもらいます」
「……エルドレッド殿下の、お心を?」
思わずセドリック殿下の言葉を復唱すれば、深い紫の瞳がゆったりと私に向けられた。床に這いつくばったままであるので非常に屈辱的だが、セドリック殿下の笑みには思わずはっとさせられるような不思議な魅力がある。
「はい。このままエルドレッドがあなたという心の支えを得て、でしゃばるようになったら厄介ですからね。王太子殿下の地位を揺らがす害虫は、早めに始末しておくに限ります」
「まさか……エルドレッド殿下は王位になんて興味ないわ! それに、私を殺したところでエルドレッド殿下の御心は少しも揺らがないはずよ!」
前半はともかく、後半は真っ赤な嘘だと自分でも分かっている。私が死ねば、あのお優しいエルドレッド殿下はきっとひどく動揺なさるだろう。自惚れかもしれないが、涙が枯れるほどに私の死を嘆いてくださるに違いない。
それでも、出来る抵抗はすべてやっておきたいのだ。どれだけの嘘を並べようが、神に背こうが、最終的にエルドレッド殿下の元へ帰れるならばそれでいい。
「王の血を引くというだけで、目障りなんですよ。あなたの婚約者も、レナードも、そしてこの僕もね」
セドリック殿下は紫の瞳の中に恍惚の色を滲ませると、軽く指を組んで遠い場所を眺めるようにぽつりと呟いた。
「ああ……兄上が王になる日が待ち遠しい。あのお優しい兄上が王になれば、きっとこの世からあらゆる苦痛も悲しみも、綺麗に消え去るでしょう」
セドリック殿下は王太子殿下をそれはもう立派な王子様だと思い込んでいるようだったが、少なくとも建国祭のあのお茶会の席でお会いした限りでは、とても王の器には思えなかった。エルドレッド殿下のお言葉を借りるわけではないが、レナード殿下の方が余程相応しく思えてしまう。
「……あなたがそこまで王太子殿下に心酔するわけは、王太子殿下があなたと同腹のお兄様だからなの?」
「……これだから俗世に染まった害虫は嫌なんです」
はあ、と大袈裟な溜息をつくセドリック殿下は、枕元に置いてあった分厚い聖書を手に取って、愛おしむように立派な革表紙を撫でた。
「あの方は、神に遣わされた特別なお方です。王になるべくして、この汚らわしい世に舞い降りて来てくださった……」
「神様に……?」
セドリック殿下がお持ちの聖書は、この国の最も主要な宗派のものだった。この清廉な空気からして、彼が敬虔な信者であることには納得だが、王太子殿下に対する認識には少し理解が追い付かない部分がある。
「はい。幼いころに夢の中でお告げがあったのですよ。王太子殿下は神に遣わされた神聖な方である。必ず王にせよ、と」
再び恍惚の表情を浮かべて、セドリック殿下はほう、と溜息をついた。お告げというものの存在を信じてはいないが、神殿では時折お告げと称した何らかの取り決めが発表されることもある。だが、王太子殿下が神に遣わされた特別な存在である、というお告げは耳にしたことが無かった。
「……神殿には伝えなかったのかしら?」
伝えたところで大半の貴族や国民は信じないだろうが、セドリック殿下は敬虔な信者のようだから、公に知らしめたいと考えるだろう。そう思っての質問だったが、ここにきて僅かにセドリック殿下の表情が曇る。
「しましたよ、もちろん。でも……あの汚らわしい第三王子派の連中が……それを揉み消したんです」
第三王子殿下。一番目の側妃様の今は亡き王子様だ。幼いころからすでに派閥があったらしい。
「悪魔のような連中でした。彼らを、このままこの国に蔓延らせておくわけにはいかない。そう思い、第三王子ごと始末することに決めたのです」
始末。その言葉に、さっと血の気が引いていく。ああ、やっぱり、この方が、セドリック殿下が手を下したのか。オリヴィア姫を始めとした、今は亡き二人の王子様と王女様の命を、この方が。
「そんな大切な秘密、私にお話になってよろしいの?」
ふつふつと湧き上がる怒りを誤魔化すように、敢えて挑発するような笑みを浮かべれば、セドリック殿下は清らかな笑みを浮かべて告げた。
「いいんです、あなたはどうせ、明日には死んでいますからね」
穏やかな笑みでさらりと告げられたその言葉に、一瞬心臓が凍り付くような心地を覚える。セドリック殿下が仰った「犠牲になってもらう」という言葉は、やはり私の命を奪うという意味だったようだ。
「その後も似たようなことの繰り返しです。害虫を駆除する作業も意外に骨が折れるのですよ?」
「……王子様はともかく、王女様まで殺す道理はないはずだわ」
この国で女王が即位した歴史はない。王位継承者に困っているならともかくとして、六人もの王子に恵まれ、王弟殿下までご健在の今、王女の暗殺は限りなく優先順位が低いはずだ。まだエルドレッド殿下やレナード殿下の存在を残した状態で、なぜ王女様にまで手をかけたのだろう。
「ああ、第三王女は第四王子を始末するついでですよ。一緒にいたから仕方ありませんね」
第三王女と第四皇子は、レナード殿下の同腹の姉上と兄上だ。二番目の側妃様の御子として生き残ったのは、レナード殿下ただ一人だった。
「あなたが演じていたオリヴィアは、あれは厄介な義妹でしたからね。国王陛下の寵愛を一身に受けていた。ああいう不安要素は潰しておくに限ります。ついでにエルドレッドも始末出来たら良かったのですが……あまり殺しすぎて僕が疑われても困りますからね」
翳り一つないその笑みが、今の私には怖くて怖くて仕方がなかった。人の命を何だと思っているのだ。あまりの熱を帯びた怒りと恐怖に、私は言葉を失っていた。
「だから、この先はなるべく殺したくはないんですよ。目障りにならない程度に大人しくさせることが出来ればそれでいい。レナードには足の一本や二本失ってもらうことにして、エルドレッドには心を壊して貰おうかと考えているのです」
ぱらぱらと聖書を捲りながら、セドリック殿下は心底幸せそうに微笑む。悪びれる様子など微塵もない。
「そこで、あなたの存在を利用させていただこうかと。あなたの気持ちがどうかは知りませんが、少なくとも今のあなたはエルドレッドにとっての心の支えになっているようですから、ここらでご退場願いたいのです」
何気ない提案をしているかのような言い方だが、要はエルドレッド殿下の心を壊すために私の命を奪うと宣言しているのだ。
改めて、自分の置かれた状況の過酷さに身震いした。
……大丈夫、大丈夫よ。私には、エルドレッド殿下とエディ様がついているもの。
そう自分に言い聞かせてみたところで、命が危機にさらされているこの状況で、平静でいられるほどの余裕は私には無かった。
「噂通り、見事な銀の髪と鮮やかな青い瞳をお持ちですね。これは確かにオリヴィアを連想させるには充分だ」
セドリック殿下はぱたん、と聖書を閉じると、部屋の隅に控えるエディ様に視線を送った。
「エディ、明日の朝一番に、セレスティア嬢のこの美しい髪と眼球を、憐れなエルドレッドに届けてやりなさい。ああ、届ける前に、ちゃんと僕に見せるんですよ。義弟への大切な贈り物なのですから、抜かりの無いようにしなければ」
どくん、と心臓が大きく跳ねる。私の髪と、目を、エルドレッド殿下に? 一体どういう思考回路をしていたら、そんな残虐なことが思いつくのだろう。ただただぞわりと背筋が粟立っていく。
「……仰せのままに」
「ああ、瞳と髪を奪った後に、飼うのはもちろん駄目ですよ。遊ぶにしても今夜一晩だけです。流石の僕も、目のないお人形を慈しむ部下は持ちたくありません」
セドリック殿下はやっぱり清廉な笑みでそう告げると、憐れむようにもう一度私を見下ろした。
「……残念でしたね、セレスティア嬢。エルドレッドの婚約者なんかになったばかりに。この後、エディがあなたを最後の夢に導いてくれますが……そういえばあなたは、彼の腕を刺していたんでしたね。じゃあ、眠る前にちょっとだけ、痛い目に遭ってしまうかもしれません。でも、刺したあなたが悪いですよね? 出来るだけ恐怖に泣き叫んだ目のまま、絶命してくださいね」
その方が、義弟への贈り物が映えますから、とセドリック殿下は端整に微笑んだ。エディ様を信じていても、この人の笑みの前では自然と体が震えてしまう。気づけば頬を涙が伝っていた。
「……では、早速作業に取り掛かりますので」
そう断って、エディ様が私の方へ近づいてくる。私が信じている通り、エディ様が味方だったのなら、これを機に逃げるきっかけが生まれるはずだ。
だが、その目論見はセドリック殿下の呼びかけによって、無情にも打ち砕かれてしまう。
「エディ、始末する前に建国祭の報告を。彼女はいったん地下牢へ運んでおきます」
そう言いながらサイドテーブルに置かれていたベルを鳴らすと、数秒とせずに黒い外套を纏った男が二名現れる。セドリック殿下は彼らに私を地下牢へ運ぶよう指示を下した。
早速、男たちの腕が私を担ぎ上げる。一瞬舌を噛みそうになったが、何とか耐えた。
「っ……放して! 放しなさい!!」
無駄な抵抗と分かりつつも、高飛車な令嬢を演じて抗えば、不意にエディ様が近づいてきた。エディ様は私を担ぎ上げた男に何やら耳打ちしたかと思うと、男はふっと下卑た笑いを見せる。
「エディ先生がそんな執着を見せるなんて珍しいこともあるもんだ」
「無駄口を叩いていないで、さっさと行ってください」
「はいはい」
エディ様は男に一体何を告げたのだろう。男に担がれたまま、遠ざかるエディ様に不安げな眼差しを送れば、エディ様はセドリック殿下に背を向けているのをいいことに、ひどく悲痛な眼差しで私を見ていた。
その眼差しを、信じている。彼が、私を痛めつける素振りを見せるのは、私を救うためなのだと。その悲痛な目が何よりの証拠だと、信じている。
本当ならば頷きの一つでも返したいところだが、エディ様とは反対に私の表情はセドリック殿下に見えているため、下手なことはできない。そのまま睨むようにエディ様を見つめることしか出来なかった。
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