第13話

 背後から捕まってしまったので、相手の顔はよく見えないが、身長差からして男だろう。そのままたっぷりとした黒い外套の中に隠されてしまう。


 大きな手で口元を強く押さえられ、本能的に命の危険を感じた私は、咄嗟にナイフを振り上げて男の腕に突き刺した。


「っ……」


 ぶわりと血が噴き出すのと同時に、痛みに耐えるように男は息を吐き出した。だが、私を拘束する手は一切緩めない。それどころか、背後から私を抱きしめるように腕の力を強めると、そっと耳元で囁いた。


「命を守るための素晴らしい判断ですが、残念、私です。エディですよ……っ」


 痛みに耐え忍ぶような切実な声は、確かに耳慣れたエディ様の声だった。口元を塞がれたままなので声は出せないが、代わりに視線でエディ様の顔を確認する。


「っ……」


 黒髪の間から覗く深緑の瞳は、間違いなくエディ様のものだ。私がナイフを刺したせいで額には脂汗が浮かんでいたが、普段の優し気な面持ちも変わらない。


 やってしまった。よりにもよってエディ様を傷つけるなんて。


 いくら恐怖に駆られたからと言って、顔を見ずに刺すのはやりすぎだった。激しい後悔に襲われて、自然と両目に涙が溜まる。エディ様の腕には今もナイフが突き刺さったままで、ぽたぽたと零れ落ちる血が私のドレスも濡らしていた。


 だが、エディ様は私の涙の意味を恐怖から来るものととらえたようで、まるで幼い子供に言い聞かせるように、優しい声で囁いた。


「怖かったですね……。良くここまで逃げて来てくださいました。もう大丈夫です。一緒にエルドレッド殿下の元へ帰りましょう」

 

 ぎゅっと私を抱きしめるその手つきは、途方もなく温かなもので、一応は異性に抱きしめられているというのに不思議と安心感しか湧かなかった。エディ様がただ慈愛の心で、医師として、そして年上の立場として私を守ろうとしてくれているからなのかもしれない。


 安心感とエディ様への申し訳なさで、涙が止まらなかった。ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちては、私の口を押さえるエディ様の手の甲を濡らしていく。


「苦しいでしょうが、彼らを撒くまではこのままで」


 耳に触れるくらいの近さで紡がれる囁き声は、恐らく私以外には聞こえないだろう。風の音や木々のざわめきが掻き消してくれているはずだ。


「おい、どこへい逃げた?」


「まだ遠くへ行っていないはずだ、捜せ!」


 すぐ近くで男たちが私を探している。彼らが馬車を守っていた護衛騎士たちを動けなくさせたのだ。かなりの腕前だと見受けられる。


 エディ様は彼らの気配を感じて、無言でぎゅっと私を引き寄せた。そのたびにナイフが突き刺さった腕からぶわりと血が滲み出るが、エディ様は僅かに呼吸を乱れさせるだけで呻き声一つ上げない。


 背中越しに、エディ様の心臓の動きが伝わってくる。私よりも少しだけ遅いが、緊張していることは明らかで、私もぎゅっと目をつぶって耐えた。なるべく物音を立てないよう、木の陰で息を潜めながら彼らが遠ざかるのを待つ。


「おい、こっちは確認したか?」


「いや、まだだ」


 声が近づいてくる。男たちの狙いは何なのだろう。私の命か、それとも誘拐でもして身代金でも要求するつもりだろうか。


 がさがさと男たちが近づく物音に、エディ様が苦しいくらいに私を抱きしめた。抱きしめたところで私を隠し通せるわけでもないのに、心情的にそうせざるを得なかったのだろう。エディ様が何とかして私を守ろうとしてくださっていることが痛いほど伝わってくる。


 だが、ついに男たちの足音が目と鼻の先まで迫っていた。それも、それなりの人数がいる。5人はいるだろうか。


 演技や知識といった面ではずば抜けて優れているエディ様だけれども、武芸に秀でているという話は聞いたことがない。それも、私の護衛騎士を倒したような手練れを相手に出来るとは考えにくかった。

 

 お互いの心臓の音がこの上ないほどに早まっているのを感じた。


 ……エルドレッド殿下。


 神様に祈るべきなのに、こんな時にも思い浮かぶのは愛しいあの人の表情だった。私は、彼の元へ帰らなければならないのだ。彼にそう誓ったのだ。


 どうか、どうか見逃してください、と誰ともなしに祈り続けた。エディ様も彼らを相手にするのは不利だと感じているのか、ぎりぎりまで身を隠すことに決めているようだった。


 だが、その祈りは無情な形で遮られることになる。


「……おい、そこにいるのは誰だ?」


 私たちが身をひそめる木を挟んで、男たちが声をかけてきた。まずい、見つかってしまった。思わず縋るようにエディ様を見上げれば、彼はいつになく思い詰めたような、悲痛な表情をしていた。


「おい! 返事をしねえと――」


 ついに男たちが私たちの前へ躍り出る。エディ様はそれでも身じろぎ一つしなかった。エディ様に苦しいほどに抱きしめられている私もまた、一歩も動けない。

 

 エディ様には何か考えがあるのだろうか。もう一度エディ様を振り返ろうとした瞬間、ぽつり、とエディ様が消え入りそうな声で私に囁いた。


「――私を、信じてください、セレスティア様」


 それは一体どういう意味だろうか。視線で問い返そうとするも、私たちの前に躍り出た男たちが口を開く方が先だった。


「こいつは驚いた! エディ先生じゃねえか!」


 先ほど私が足を切りつけた大柄な男がぱっと表情を明るくさせる。残りの男たちも似たような反応を示した。


「……ご無沙汰しております、皆さん」


 エディ様は穏やかな口調で挨拶をしたが、何の感情も読み取れないような冷たい声音だった。


「その嬢ちゃんのこと捕まえてくれたのか……って、先生、刺されているじゃねえか!」


 男たちがエディ様の腕に刺さったナイフを見て、僅かに顔色を変える。エディ様は小さく溜息をつくと、乱雑にナイフを抜き取り、素早く血を振り落とした。赤い液体が点々と私のドレスに付着する。


「意外にお転婆なお姫様だ。あなたも刺されたんですか、情けないですねえ」


 エディ様は目の前の男に向かって嘲笑を浮かべたかと思うと、不意に私を突き飛ばした。そのまま私はなす術もなく地面に崩れ落ちてしまう。


「エディ様……?」


 あまりに予想外なエディ様の行動に、驚いて彼を見上げれば、彼は冷え切った深緑の瞳で私を見下ろしていた。


「あはは、そうか、そういやエディ先生は今、第六王子の下で医者をやってるんだったか。成程な、このお姫様とも面識があるわけだ」


 男は下卑た笑いを浮かべたかと思うと、先ほど同様に私の髪を引っ張った。鈍い痛みはやっぱり何度経験しても不快だ。


 エディ様の名前を知っていることからして、この男たちは恐らく第二王子殿下の手の者なのだろう。彼らもまた、エディ様が仰っていた、策略のための第二王子殿下独自の組織の一員なのかもしれない。


 第二王子殿下の手の者と親しげに話し、私を突き飛ばしたエディ様の行動に、嫌な予感ばかりが募る。


 どうして? エディ様は、エルドレッド殿下に忠誠を誓ったはずなのに。第二王子殿下の元へ戻るくらいなら命を絶った方がマシだと考えるほどに、第二王子殿下の意のままに動くことを厭うておられたはずなのに。


 エディ様、どうして、と問いかけるように思わずエディ様を見上げる。髪を引っ張られている鈍い痛みのせいで、じわりと涙が滲んだ。


「理解できないって顔してるぜ、エディ先生。よっぽど上手く取り入っていたんだなあ。正体を明かしてやったらどうだ?」


 下卑た笑いを浮かべる男の言葉をエディ様は眉一つ動かすことなく受け流す。だが、大柄な男の肩越しに、エディ様の深緑の瞳と目が合った瞬間、彼は一瞬だけ痛みに耐えるように瞳を揺らがせた。


 その表情と、私と突き飛ばす寸前にエディ様が仰った「私を、信じてください」という言葉に、ある考えが湧き起こった。彼が本当に私たちを裏切っているとしたら、それらはあまりに不自然な言動だ。


 この五人の男たちを前にして、エディ様が私を連れて逃げ切ることはきっと不可能だっただろう。


 それを瞬時に判断したエディ様は、第二王子殿下に忠実な振りをして、彼らと合流することで私を逃がす機会を伺うことにしたとしたら。


 ……彼らに怪しまれないために、私を裏切ったような演技をしているのだとしたら。


 良い方向に考えすぎなのかもしれない。もしかしたら、私のただの現実逃避に過ぎないかもしれない。


 でも、私は信じたい。エディ様があの日、エルドレッド殿下に誓った忠誠を。エルドレッド殿下が信じると決めたエディ様のことを、私も信じたい。


 それならば、私に出来ることは一つだけ。エディ様が私やエルドレッド殿下と通じていると悟られないように、私は「エディ様に裏切られた可哀想な令嬢」を演じるのだ。


 そうと決めたらとことんやってやる。エディ様には遠く及ばずとも私だって演じることは得意なのだ。伊達に二か月近く「オリヴィア姫」を演じていない。


 瞬時に瞳を潤ませ、軽く俯いたままに早速口を開く。「裏切り者」のエディ様に相応しい演技を、私も今、始めるのだ。


「っ……裏切ったんですか、エディ様。あなたは、あなただけは私と殿下の味方だと信じていたのにっ……!!」


 大粒の涙を零しながら、泣き叫ぶようにエディ様を見上げる。一瞬、エディ様の深緑の瞳が戸惑うように大きく揺らいだのが分かった。


「裏切るも何も、エディ先生は端からお前らの味方なんかじゃねえんだよ、頭ん中お花畑のお嬢さんだな。な、先生?」


 エディ様は泣きじゃくる私を冷静に見下ろしていた。まずい、やりすぎただろうか。エディ様の深緑の瞳の中に、僅かに悲痛な色を見た気がする。


「……本当に、その通りですよ。僕が味方だと信じ切って無邪気に私を信頼しているあなたを見ているのはなかなか面白かったですよ、セレスティア様」


 嘲笑に近い微笑みを浮かべて、エディ様は私の前に跪くと、怪我をしていない方の手で軽く私の頬を撫でた。ぴり、と鋭い痛みが走って、そういえば先ほど馬車で頬を切っていたことを思い出した。


「この刺し傷のお礼は近いうちに。私がこの手で必ず、あなたに場所に送って差し上げますよ」


 含みのある言い方だ。私に相応しい場所。もし本当にエディ様が私たちを裏切っているわけではないというのなら、それはエルドレッド殿下の待つお城だろうか。


「こりゃ相当お怒りだ。明日の朝には土の中かもな、お嬢さん」


 彼らからしてみれば、そういう意味合いに捉えてもおかしくないだろう。


 本当ならばエディ様にありがとう、と微笑みたいところだが、今の私にそれは許されない。決めたのだ。エルドレッド殿下が信じたエディ様を信じると。「エディ様に裏切られた可哀想な令嬢」を演じると。


 これは演技。そう言い聞かせて、私は頬に触れていたエディ様の手をぴしゃりと払いのける。今日は彼に痛い思いばかりさせていて罪悪感で胃が痛くなりそうだ。


「……っ触らないで! 裏切り者!! 私に触らないで!!」


 なるべく高飛車で、傲慢な令嬢を演じるほうがやりやすかった。そのまま私の髪を掴んでいた男に地面に押さえつけられるが、頬に土がついても出来る限り叫び続けた。


「っ……無礼者、恥を知りなさい。こんなこと……エルドレッド殿下が黙っていないわよ」


「妹姫の幻覚に縋りつくあの王子様が助けに来てくれるとでも? お伽噺の方がまだあり得そうな話だぜ」


 不愉快な笑い声の中、涙の名残が土に吸い込まれていく。エディ様が味方であれ裏切者であれ、エルドレッド殿下にはとんでもない心配をかけてしまうだろうな、と思うと途端に心細くなった。


 ……私、ちゃんとエルドレッド殿下の元へ帰れるのかしら。


 一度弱気になると、とことん悪い方向に考え出すのが私の癖だ。今更になって見知らぬ男に押さえつけられている恐怖を実感して、ぽろぽろと涙が零れる。


「……さっさと戻りましょう。このまま騒ぎ続けられても厄介ですから」


 エディ様は溜息交じりに男たちに指示を下すと、何やら小さな小瓶を取り出して、私の口元に運んだ。同時に首筋に何か冷たいものが当てられるのを感じる。恐らくは、先ほどまでエディ様の腕に刺さっていたナイフだろう。


「ほら、飲んでください。従わなければ痛い思いをしてしまいますよ」


「先生、まだ殺しちゃまずいからな。そこんとこだけ頼むぞ」


「……どうせ殺すんでしょうから、余計な手間をかけさせないでほしいですね」


「はは、違えねえ」


 心底面倒くさそうに私にナイフを突きつけるエディ様の振る舞いは本当に自然で、果たして演技なのか不安になるほどだ。


 どのみちこの状況では、小瓶の中身を飲み干すしかない。意を決して一口分程度の液体を飲み干せば、ようやく首筋からナイフが離される感覚があった。


「さあ、運びましょう。日が暮れる前に殿下に差し出さなければ」


「おうよ。任せとけ」


 次第に微睡む意識の中、大柄な男に担ぎ上げられる感覚がある。歪む視界がどうにも気持ち悪くて、ぽろぽろと涙が零れ落ちていった。


 ……エルドレッド殿下。


 曖昧になる意識の中で最後に思い浮かぶのは、やっぱり愛しいあの人のことで、頬の傷に涙が染みる痛みを感じながらも、気づけば私を意識を失っていたのだった。

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