第12話
その翌朝、再び黒い外套を身にまとい、私の従者風の姿に身をやつした殿下は、屋敷の玄関広間で私や、私の家族に向き合っていた。
「この度は急な訪問でしたが、温かく迎え入れてくださったことに感謝しています」
「またいらしてくださいね、セレスティアと一緒に」
一日で随分と殿下に打ち解けた両親は、終始穏やかな表情を浮かべていた。どうやら二人も、殿下のことを好きになってくれたようだ。
「義兄上! 次にいらしたときには、またチェスをしましょうね! きっと、今日より腕を上げておきますから」
「それは楽しみだな、ロニー君。僕も時々練習しないと」
殿下はぽんぽんとロニーの頭を撫でると、屈託ない笑みを浮かべた。私やエディ様に向けるのとはまた違う、年下を慈しむようなその笑みに、不覚にもときめいてしまう。
……このところの私は殿下のどんな些細な表情にも見惚れてしまっていけないわ。
少し、気が緩みすぎているような気がしてしまって、何とか毅然とした態度を保つ。殿下はそんな私の考えさえも見透かすようにふっと笑うと、そっと私の手を取った。
「それじゃあ、一週間後に。この屋敷の周辺はエディを始めとした護衛たちに見張らせておくから、心置きなく休んでね」
「……エディ様もいらしていたのですね」
何となくそんな気はしていたが、エディ様は一体いつ休んでいるのだろう。殿下に忠誠を誓ったばかりに、随分と過酷な仕事内容になってしまったようだ。
「私がジャスティーナ城に戻った暁には、きっとエディ様にも休暇を差し上げてくださいね」
「そうするつもりだよ。君と二人で過ごしたいから」
あくまでも、エディ様のことを思って休暇を出すわけではないという体でお話なさるのが何とも殿下らしくて、思わずくすくすと笑ってしまった。
殿下は私のその表情をしばらくじっと眺めていたが、やがて握っていた私の手の甲に口付けを落とすと、私の顔を見上げるように微笑む。
「……待っているよ、セレスティア。僕ら二人の、あの城で」
「はい、必ず戻ります。……エルドレッド」
殿下はそのまま私の髪を一度だけ梳くと、一瞬名残惜しそうに私を見つめたが、そのまま外套のフードを深く被った。白銀の髪がフードに隠れてしまえば、誰も彼を王子様だなんて思わないだろう。
私もまた、どこか名残惜しいような気持ちを感じながらも、殿下に小さく手を振った。一週間後にはまた会えるというのに、まるで今生の別れのように感じてしまうのだから、恋の力は恐ろしい。
「殿下といい感じなのね」
殿下の乗った馬車が遠ざかるのを眺めながら、お母様がからかうように仰った。
「……そう、悪くは思われていないようですわ」
「またまた、謙遜しちゃって」
お母様はくすくすと笑うと、一足先に屋敷の中へと舞い戻っていく。後にはお父様とロニーと私の三人だけが残された。
「……幸せになるんだぞ、セレスティア。あの王子ならきっと……きっと大丈夫だ」
どことなく寂し気な眼差しでお父様はそう仰った。もともと反対なさっていたわけではないのだが、今回の私たちの姿を見て安心した部分があったのかもしれない。
「はい、ありがとうございます。お父様」
「姉上! 父上! 早速チェスをしましょう! 次に義兄上にお会いしたときには一戦だけでも勝ちたいんです!」
「殿下はそんなに強いのか」
お父様ははしゃぐロニーを穏やかな面持ちで眺めながら、そっと彼の頭を撫でた。
「まずは私に勝てるようにならねばな、ロニー」
「む、それはそうですね。精進します」
ロニーはよっぽど殿下とお会い出来たのが嬉しかったようだ。随分急な訪問になってしまったが、殿下をこの屋敷にお連れすることが出来て良かった、と一人思うのだった。
それから一週間、私は実に穏やかな里帰りを楽しんだ。
以前に比べればかなりマシになったとはいえ、侯爵領の復興に追われたお父様は常にお忙しそうに飛び回っておられたため、家族でどこかに出かけたりすることはなかったのだが、夜には一家団欒を過ごすことが出来たので大満足だ。
昼間は侯爵家の本を改めて読み直したり、ロニーの勉強の相手をしたりして過ごした。お茶の時間にはお母様と会話に花を咲かせ、ジャスティーナ城での暮らしぶりなどをお聞かせした。エディ様やナタリーを始め、お城の人々は皆私に良くしてくださると伝えたところ、心底安心なさったようだった。
屋敷周辺を散歩しているときには、エディ様にお会いすることもあった。一体どこに潜んでいるのかよく分からないのだが、特別疲れた様子も汚れた様子もなく、驚くほど普段通りのエディ様だったので却って驚いてしまったほどだ。あるいはこれもエディ様の演技の賜物なのだろうか。
「どうかご無理はなさらないでくださいませね。お疲れになったら、侯爵家の門をたたいてくださって構いませんのよ」
「何とお優しい……。私はセレスティア様に忠誠を誓えばよかったですね」
冗談めかして笑うエディ様につられるようにして、思わず私も笑ってしまった。
「でもこれはセレスティア様をお守りする大切な役目ですので……どうぞ私のことはお気になさらず。ご家族と楽しいお時間をお過ごしください」
「ええ……ありがとうございます、エディ様」
お城へ戻った暁には、ゆっくりと休んでいただこう。そう決意しながら、ひらひらと彼に手を振ったのだった。
そんなわけで、一週間の里帰り期間はあっという間に過ぎ、早くも私がジャスティーナ城へ戻る日になってしまった。
殿下には一刻も早くお会いしたいが、家族と離れるとなればそれはそれで何だか寂しいものだ。比較的動きやすい深い青の普段着に身を包み、ドレスと合わせたケープを羽織った私は、一週間前の殿下と同様に、玄関広間で家族と対峙していた。
「それじゃあ、行って参ります。お父様、お母様、ロニー」
「気をつけてな」
「殿下によろしくお伝えしてね」
「また手紙を送ります、姉上!」
再会を果たしたときと同様に家族四人でぎゅっと抱きしめ合えば、やっぱり離れがたいような気もしてしまう。けれども、私には帰る場所があるのだ。エルドレッド殿下の待つ、あの美しい城が。
名残惜しいと思いつつも別れの挨拶を済ませた私は、マレット侯爵家の紋章が刻まれた馬車へ乗り込んだ。王都へ来た時に使った殿下の馬車よりは随分質は劣るけれど、馴染みの馬車に久しぶりに乗れたことが嬉しくて、不思議と心は弾んでいた。
馬車の周りには護衛の騎士が数名ついている。多分、見えないところにもいるのだろう。エディ様の姿も見えないことだし、恐らく遠巻きに私を見守ってくださっているはずだ。
馬車の窓から侯爵家を振り返り、馬車を見送る家族に目一杯手を振った。彼らの姿が随分小さくなったころ、ようやく前を向いて、気持ちを切り替える。
これから私は殿下の元へ帰るのだ。話さなければならないことがたくさんある。
5年前の夕暮れのこと、エルドレッド殿下とマレット侯爵家の意外な繋がり、そして、私が殿下に抱く想い。
その全てを、ジャスティーナ城へ着いたらきっとお伝えしよう。今のこの関係から、一歩踏み出すためにも。
殿下は、この一週間どのようにお過ごしになられただろう。私がいなくて、少しは寂しいと思ってくださっただろうか。
……お城についたらまず、殿下を抱きしめることを許してくださるかしら。
ちょっとの期待を込めて、ぼんやりと馬車の窓から外の景色を伺う。郊外にあるジャスティーナ城への道は長いが、次第に素朴な街並みや森が増えているのは、お城へ近づいている証だ。
だが、その瞬間、馬車の外で金属がぶつかり合うような音と馬の嘶く声が響き渡り、はっと我に返る。
馬車に何か不調でもあったのだろうか、と耳を澄ませるも、金属のぶつかり合う音の中に悲鳴や呻くような声が聞こえてきて、さっと血の気が引くのが分かった。
……この馬車が誰かに襲われているのだわ。
金目当ての賊か、あるいは私を狙っているのか。今まではただの没落寸前の侯爵家の娘だったから、狙われるような理由もなかったけれど、第六王子の婚約者となった今ならば訳が違う。
だからこそエルドレッド殿下も、過保護なくらいに護衛をつけてくださったはずなのだが、馬車の中から音を聞いている限りでは、せめぎ合っているような印象も受けた。
「っ……」
どくん、と心臓が跳ねると同時に、血の気が引くような恐怖を覚える。だが、ここで悲鳴を上げるわけにはいかない。ぎゅっと目を閉じ、一度だけゆっくりと深呼吸をした。
再び目を開いた私は、なんとか気分を切り替えて、馬車の座席に忍ばせておいた護身用のナイフを手に取った。飾り鞘の付いた華奢なナイフは、恐らく実戦用ではない上に、私にナイフを巧みに操れるような技術はないが、一瞬相手を怯ませるくらいのことはできるかもしれない。
そう、一瞬でもいい。隙が生まれれば、開ける道もあるはずなのだから。
心臓はかつてないほど早鐘を打っていたが、呼吸を整えたおかげか頭は意外にも冷静だった。やることは一つ、どうにかしてこの場を切り抜けるだけ。
「セレスティア様!」
叫ぶような護衛騎士の声と共に、馬車が大きく揺らぐ。思わず座席に捕まったが、そのときには既に馬車が傾き始めていた。
……っ倒れる!
そう覚悟した直後に、右半身が窓に打ち付けられる。馬車が横転したらしい。割れたガラスが頬を傷つけ、肩に刺さったような気がしたが、それよりも私は乱暴に開けられた扉の方へ注意を払わねばならなかった。
味方か、敵か。真っ黒な外套に身を包んだ大柄な男は、少なくとも私には心当たりのない人だった。
「あんたが第六王子のお人形、ってやつかい。悪いがちょっと来てもらうぞ」
第六王子のお人形。少なからず侮蔑の込められたその呼び方に、睨み上げるように男を見上げるも、今の私になす術はなかった。唯一の出入り口を男に塞がれてしまっているのだ。
「何のことか存じ上げませんわ。私はマレット侯爵家の侍女ですけれど」
苦しい言い訳だ。これで見逃してもらえるはずがないとは思いつつも、一応の言い逃れを試みる。
「はっ、その見事な銀の髪を持っておきながら誤魔化せるとでも思ってんのか。いいから行くぞ、痛い思いはしたくないだろ」
「っ……」
ほどけた銀の髪の端を掴むようにして男に引き寄せられ、鈍い痛みに顔を歪ませる。既に痛い思いをさせられているじゃないか、などとこの期に及んで何処か呑気なことを考える自分がいることにも驚いていた。
それは多分、エディ様がいらっしゃると分かっているからこその余裕なのだと思う。彼の元へ何とか辿り着くことが出来れば、私はエルドレッド殿下の元へ帰れるはずなのだから。
そのためには、やはり一瞬の隙を作らなければ。ドレスの袖の中に忍ばせた抜身のナイフの存在を確かめながら、私はようやく体を起こし、馬車から降りる素振りを見せる。
男に腕を引っ張られるようにして馬車を下りた先は惨状だった。血まみれで倒れた護衛騎士たちが、地面に蹲って呻いている。誰もが身動きを取れないような状況だ。
黒い外套を纏った男たちの中に、相当な手練れがいたらしい。思ったよりも悪い状況に肝が冷える感覚を味わいながらも、私はそっと辺りを観察した。
辺りには鬱蒼と茂る森が広がっている。エディ様がいるとしたら、恐らくあの森の中だろう。
あの森に逃げ込みさえすれば、きっとエディ様が手を貸してくださるはずだ。
「おっと、辺りは血まみれだな。お靴が汚れるかもしれねえぜ、お姫さんよお」
にやにやと下卑た笑みを浮かべる男が私に手を伸ばす。きっと睨み上げると同時に、私はナイフを素早く男の足に切りつけた。
「っ……てめえ!!」
咄嗟に伸ばされた男の腕を擦り抜けて、聞くに堪えない罵詈雑言を背中に受け止めながら全速力で走りだす。靴もいらない。血の海の中で華奢な細工が施された靴を脱ぎ捨てながら、薄手の絹の靴下で一気に森まで駆け抜けた。
あまり奥に入るわけにはいかないが、それ以上に追手に捕まる方が厄介だ。胸の奥が痛み、呼気に血の臭いが混じるのを感じながらも、私は必死に走り続けた。
「っ……」
その瞬間、木の根に足を取られてしまう。指が妙な方向に曲がった気がして、激痛が走った。
まずい、倒れ込んでいる暇などないのに。絶体絶命の状況に頭が真っ白になる。
だがその瞬間、私は背後から伸びてきた腕に絡めとられるようにして、身動きが取れなくなってしまった。
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