第11話
お母様と書斎でお話をした後、私はバルコニーへ出てぼんやりと星空を眺めていた。
薄手のワンピースにストールだけでは、秋の夜風は多少冷たい。それでも、たった今知った殿下との意外な縁について考えていると、不思議と気にはならなかった。
ちかちかと瞬く星空を眺めていると、殿下に教えてもらった星座を思い出す。あの赤い星と、あれとあれを繋げれば――。
「星を見ていたの?」
不意に背後から響いた優しい声に、びくりと肩を震わせて振り返れば、ラフなシャツ姿の殿下のお姿があった。殿下も湯浴みを済ませたのだろうか。白に近い銀の髪は少し濡れているようにも見えた。
「殿下、申し訳ありません。こんな格好で……」
流石に殿下の前に出るには心許ない服装だ。とはいえ、このまま立ち去るのも名残惜しく、肩に羽織ったストールを胸の前で掻き合わせるにとどめた。
「寒くない?」
すぐ背後に殿下の存在を感じ、少しの躊躇いと期待を込めてぽつりと返事を返す。
「……少しだけ」
そう答えるか否かという段階で、殿下の腕に背後から抱きしめられる。私がこう返事をすることを分かっていたのだろう。私も私で軽く殿下にもたれかかりながら、視線だけは星空へ向け続けた。
「これで少しは温かい?」
「ええ、とても」
「……甘い匂いがする」
「ふふ、石鹸の香りでしょうか」
私の頭に横顔をくっつけるようにして密着する殿下は、どこか甘えているようにも感じられて可愛い。殿下のお顔を見られないのは残念だが、何とも安心する体勢ではあった。
「……さっき、ロニー君が言っていたこと、少し考えたんだけど」
「……はい」
涼やかな秋の風の中で、ぽつりぽつりと紡がれる殿下の声に静かに耳を傾けた。
「一つだけ、思い当たることがあるんだ」
ずきり、と胸の奥が痛む。駄目だ、この痛みから逃げ出すばかりじゃ私たちは先に進めないと分かっていても、耳を塞ぎたくなってしまう。
「でも、ここで話すにはちょっと繊細な話題でね。まあ、こんなにもったいぶるほどの大層な理由じゃないんだけど、あのときの女の子が君なのだとしたら……多分、ひどく驚かせてしまっただろうな、と思う」
殿下の声には、確かな後悔が滲んでいた。普段の殿下の様子からしても、あのような暴言を吐く方でないことは分かっている。恐らく、やむにやまれぬ事情があったのだろう。
「ただ、一つだけ信じてほしい。僕は君のことを嫌ってなんかいないんだ。君を疎ましく思ったことも一度もない」
私の体の前に回された殿下の手が、私の指に絡む。何だか、いつもより体温が高いような気がした。
「……むしろ、僕の気持ちはその対極にある。君に、傍にいてほしい」
とても静かな声だったが、確かな熱を帯びた言葉だった。まるで告白のようなその台詞に、思わず殿下を振り返ろうとするも、彼の腕がそれを許してくれない。
「っ……今は振り向かないで。多分、すごく顔が赤くなっているから」
そんな風に言われると、私まで恥ずかしくなってしまう。秋の風に当たっているというのに顔が熱くなるのを感じながら、私は戸惑いを誤魔化すようにぎゅっと殿下の手を握り返した。
「……私も、あなたの傍にいたいです。エルドレッド」
彼の顔を見ていないせいか、いつもより抵抗なく彼の名を呼べた。そのまま私の指に絡んだ殿下の指先に口付ければ、やっぱり途方もない愛おしさが込み上げてくる。
それに応えるように、殿下が私を背後から抱きしめる腕に力がこもる。お互い言葉は無かったが、多分、考えていることは同じだった。
どれくらい長い間そうしていただろう。完全に二人の世界に入り込んでいたが、不意に背後からかけられた妙に明るい声に、私も殿下もはっと我に返る。
「姉上! 久しぶりにチェスでも――」
そこまで言いかけて、私にぴったりと寄り添う殿下の姿が目に入ったのかロニーは言い淀んだ。私も殿下も咄嗟に離れながら、誤魔化すような笑みを浮かべる。
「ろ、ロニー。チェスをしたいの? いいわね、ええ、是非しましょう」
「……何だかお邪魔をしてしまったようで申し訳ありません」
ロニーの妙な気遣いを受けて、殿下と私はぎこちない笑みを浮かべて、先ほどまで漂っていた甘い空気を必死に誤魔化した。
「よろしければ殿下もいかがです?」
「……そうだね。ご一緒させてもらおうかな」
ロニーの鋭い視線をひしひしと感じながらも、私と殿下は引きつったような笑みを浮かべるしかなかった。
「流石は殿下、とてもお強いのですね」
ロニーに連れられるがままに、リビングでチェスをしていた私たちだったが、殿下の腕前に感心せざるを得なかった。私もロニーもそこそこチェスを嗜んできたと思うのだが、殿下には敵わない。
「オリヴィアに散々付き合わされたからね。単に経験の差だと思うよ」
オリヴィア姫はちょっとしたゲームがお好きだったと聞くから納得だ。
「オリヴィア王女も殿下くらい強かったのですか?」
ロニーが興味津々といった様子でオリヴィア姫の話題を掘り下げようとする。殿下がご気分を害されていないだろうかとちらりと殿下の表情を窺えば、意外にも彼は楽しそうにオリヴィア姫のことを口になさった。
「それはもう強かったよ。勝敗は半々くらいだったかなあ」
「それはすごい! いいな、俺も強くなりたいです」
ロニーはきらきらと目を輝かせながら、チェスの駒を見つめていた。オリヴィア姫が殿下と渡り合えるほどのチェスの腕前だったとは。殿下が私にオリヴィア姫を見ているときに、チェスに誘われなくて良かった、とよく分からない安堵を覚えた。
「そう言えば、殿下が姉上にオリヴィア姫の面影を見ている、という噂がありましたが、姉上はオリヴィア姫によく似ておられるのですか?」
「ロニー」
悪い子ではないのだが、まだ踏み込んでいい部分とそうでない部分を見分けきれないところがある。殿下を相手に話すには、少々繊細な話題だ。
「……そうだなあ、この綺麗な銀色の髪と青い瞳は似ているのかもしれないね」
殿下はやっぱり穏やかな物腰で、慈しむようにそっと私の髪に触れた。ロニーの手前、感情を抑え込んでいるという素振りでもなく、ごく自然な様子でオリヴィア姫のことを口にする殿下の様子は、以前とはかなり異なっていた。
「でも、中身はやっぱり全然違うよ。オリヴィアは我儘で、いつだって前しか向かなくて、無邪気なところが可愛い子だったけど……セレスティアは思慮深くて、いつでも相手の気持ちを考えていて、途方もなく優しい人だ。意外にお転婆だったところとか、似ている部分もあるのかもしれないけど……やっぱり、僕にとっては別人だなあ」
「じゃあ、殿下が姉上をお気に召しているのは、オリヴィア姫と似ているからではないのですね」
ロニーはどこかほっとしたような表情を見せ、殿下を見つめる。殿下もまた、穏やかに微笑み返した。
「それについては断言できるよ。君の姉上は、僕にとっての唯一の人だ」
さらりと言ってのけたが、心臓に悪い台詞だ。思いが通じ合ったという確証もないのに、甘い気持ちばかりが心の中を満たしていく。
「……君は姉想いのいい弟だね。僕が言うのもなんだけど……いつ何が起こるか分からないのがこの世界だから、これからもセレスティアを大切にね」
「はい、殿下」
殿下のその言葉は、やけに重みを伴ったものだった。オリヴィア姫を突然に亡くした殿下だからこそのお言葉だ。殿下はロニーに向けて言ったつもりなのだろうが、私も胸に刻んでおこう。
日々誰かを失うことに怯えるばかりでは疲れてしまうけれど、この平穏は当然ではないのだと心のどこかに留めておけば、少しは悔いのない毎日を送ることが出来るのかもしれない。
「……明日、セレスティアを連れて帰ろうと思っていたけど、どうだろう。君が望むなら、もう少しここにいても構わないよ」
私たち家族の姿に思うところがあったのか、殿下は不意にそんなことを提案してくださった。
「……よろしいのですか? 殿下」
「うん。家族は大切にするに越したことはないからね」
幼くしてお母様であるエイリーン妃を亡くし、最愛のオリヴィア姫まで失った殿下だからこその言葉だった。一度は私を幽閉するほどの執着を見せたのに、私にここまでの自由を与えてくださるなんて。
それが何よりの信頼の証のような気がして、嬉しくなってしまった。思わず頬を緩めて殿下を見上げれば、殿下は苦笑交じりに続ける。
「でも、あんまり離れると寂しいから、一週間くらいで戻ってきてほしいけど……」
その言葉に、何だか泣きそうになるような温かい気持ちを覚えてしまった。殿下の淡い青の瞳をまっすぐに見上げれば、余計に笑みが深まる。
「ありがとうございます、殿下。必ず、必ず戻りますね」
それだけ告げて、そっと殿下を抱きしめる。深い孤独を抱えている彼が見せてくれた、最大限の思いやりに胸を打たれていたせいか、少々大胆になってしまったようだ。
「っ……セレスティア」
戸惑うような殿下の体を、ぎゅっと抱きしめながら、気づけば私は口走っていた。
「エルドレッドも、私たちの家族です。失ってしまった人への寂しさはきっと消えないけれど……それでも、これからは私たちがいます」
大きな視点で捉えれば、実際、私たちは血縁関係のある家族なのだ。それを今の殿下は知る由もないけれど、いずれお話していけたらいい。
「……ありがとう、セレスティア」
殿下の手がそっと私の背中に添えられる。温かくて、優しい手だった。
「じゃあ、俺、殿下のこと義兄上って呼んでもいいですか?」
「ロニー……あなたちょっと空気を読むということを学んだ方がいいわね」
殿下から体を離しながら横目でロニーを睨めば、ロニーは悪戯っぽく笑ってみせる。まったく反省していない。
「いいじゃないか、僕には姉も兄も妹もいるけど、弟だけはいないからね。何だか新鮮な気分だな」
「……殿下がそうおっしゃるならいいのですが」
折角少しいい雰囲気になったというのに、と言葉に出来ない幸せな不満を飲み込めば、殿下ははっとするほど端整な笑みを見せて私の頬を一度だけ撫でた。今まで見たことも無いくらい幸せそうなその表情に、何も言えなくなってしまう。
「じゃあ義兄上! もう一戦しましょう!」
私の動揺など露知らぬロニーは、再びチェスの駒を手にしてきらきらとした目で殿下を見つめている。ロニーもロニーで兄のような存在ができて嬉しいのかもしれない。
その光景の温かさに、気づけば私もふっと頬を緩めていた。殿下の計らいのお陰で、思いがけず素敵な夜を過ごしてしまった。殿下のお優しいお心に感謝しながら、私はとても幸福な心地で殿下とロニーの姿を眺めていたのだった。
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