第10話

「それでね、セレスティアったらロニーを連れて侯爵領の小川に落ちてしまって」


「か、川に……? それは大丈夫だったのかい、セレスティア」


「何も、何も問題ありませんわ、殿下」


 空がすっかり紺色に染まるころ、マレット侯爵家は賑やかな晩餐会を開いていた。両親とロニーと囲む食卓に殿下がいるのは何だか妙な気分だが、不思議と心が温まる。


 だが、それは別として両親やロニーから暴露される私の昔話が、あまりにもお転婆なエピソードばかりで、頭を抱えているところだった。十年前の私に文句を言えるものなら言ってやりたい。なぜ刺繍や詩歌に勤しまなかったのか、と。


「侯爵領の丘でそり遊びをしているときもなかなかだったな。顔に傷を作って、流石に少し心配したんだぞ」


 お父様まで私の幼少期のエピソードを披露なさるので、もう私に抗う術は無かった。殿下は私が怪我をしたという話を聞くたびに、軽く顔を青ざめさせて私をまじまじを見つめてくる。お城育ちの殿下にとっては、刺激の強いエピソードばかりなのだろう。


「……痛かっただろうに。無事でよかった、セレスティア」


「怪我と言っても木の幹で少し頬を擦り剥いただけですもの。命に関わるようなものではありませんわ」


 そりで滑った際に勢い余って木に激突してしまったというだけなのだ。とはいえ、傷が残らなくて良かった。傷が残るような怪我だったら、きっと私は殿下の婚約者になることもできなかっただろうから。


「……それにしても、セレスティアは思ったよりもお転婆だったんだね。やっぱり見てみたかったなあ、セレスティアの小さいころ」


 メインディッシュの銀食器を置いて、殿下はどこか悪戯っぽく微笑む。お転婆な幼い頃の私なんて、恥ずかしくてとても殿下には見せられない。


「……あれ、でも、エルドレッド殿下と姉上は以前会っているのではないのですか?」


 不意に思い出したと言わんばかりに、ロニーが口を開く。どくん、と心臓が跳ねるのが分かった。


 恐らくロニーは、5年前のあの夕暮れ、エルドレッド殿下に「僕の傍に近寄るな」と言われたあの時のことを指しているのだろう。珍しく泣きじゃくる私に、不安そうに寄り添っていたロニーにだけは、エルドレッド殿下に暴言に近い言葉をいわれたと、打ち明けてしまったのだ。


 でも、当時ロニーはまだ8歳。まさか、今もそれを覚えているなんて。


「……セレスティアと僕が? 婚約前に顔を合わせたことがあったっけ?」


 殿下はまるで心当たりがないというように、私に視線を投げかけてきた。これには驚いてしまう。


「……覚えていらっしゃらないのですか?」


「何年前くらいの話だろう。気になるな、そこで僕とセレスティアはどんな話をしたの?」


 興味津々と言わんばかりに殿下は穏やかな笑みを向けてくる。つられるようにして曖昧な笑みを浮かべながらも、内心は酷く戸惑っていた。


 殿下は、あの一件を覚えていらっしゃらない。つまりは、私のことを暴言を吐くほどに嫌いなあの令嬢だと認識していないということなのだろうか。


 私を嫌っているわけではない、と言ったわけも、そういう事情があったからと考えれば納得がいく。途端に、背筋にすっと寒気が走った。


 怖い。本当は殿下が私のことをお嫌いなのだとしたら。この優しさも甘い時間も全て、勘違いから生まれただけの泡沫の幸福だったとしたら。


「いえ……本当に、些細なことですから」


 忘れているのなら、無理に思い出していただく必要もないだろう。突如として湧き上がった恐怖から逃れるように、そんな言い訳めいた考えをぐるぐると巡らせながら、私は話題を転換しようと試みた。


 だが、その試みはロニーの一言によって失敗に終わってしまう。


「些細なこと? 滅多に泣かない姉上が、あんなに泣きじゃくっていたではありませんか」


 ああ、またしても余計なことを。私のどんなお転婆な失態よりも、それを明かされたことがどこか腹立たしくてならなかった。思わずロニーを睨むように見つめてしまう。


「ちょっと待て、僕がセレスティアを泣かせたのか……?」


「この話は――」


 酷く動揺したような殿下の言葉を遮るようにして、私は顔を上げる。


「――この話は、ここでおしまいにしましょう。それより、まだデザートが残っておりますわ」


 取り繕うような笑みを浮かべ、殿下を見つめれば、彼の淡い青の瞳が戸惑うように揺れていた。


「セレスティア……」


 話すにしても、ジャスティーナ城でするべきだ。実家で殿下とすれ違う姿を見せて、両親に余計な心配をかけたくなかった。


 デザートを食べる時間は、ロニーの持ち前の明るさのお陰で何とか先ほどまでと同様の穏やかな時間を過ごすことが出来たが、殿下は穏やかな微笑みの間にも思い詰めるような表情を見せていた。


 殿下は、私との出会いを思い出そうとしているのかもしれない。そう思うとやっぱり怖くて、それ以上殿下のお顔をまっすぐに見られなかった。私と殿下の間に漂う空気は食事が終わるまで、何ともぎこちないものになってしまったのだった。




 食事が終わったあと、湯浴みを終えた私はふと通りかかった書斎の照明がついていることに気がついて、ちらりと中を覗いてみた。


 薄手のワンピースにストールを羽織っただけの姿なので、殿下の御前に出るわけにはいかないが、家族だったら問題ない。どうやら書斎にいるのはお母様のようだったので、そのまま私は書斎へ足を踏み入れた。


「お母様、何をしていらっしゃるの?」


「セレスティア」


 何やら古びた羊皮紙を眺めていたお母様は、私を見るなりふっと頬を綻ばせた。この数年で少し小皺が増えたが、品のいいお顔立ちは相変わらずだ。


 お母様がお持ちになっている羊皮紙をちらりと覗き込めば、どうやらマレット侯爵家の家系図のようだった。どうして突然こんなものを、と理由を尋ねるようにお母様を見つめれば、お母様はどこか懐かしむような微笑みで羊皮紙を撫でた。


「いえ……あなたと殿下の白銀の髪を見ていると、先々代の当主夫人のことを思い出してしまって……」


 先々代の当主夫人、私からしてみれば曾祖母に当たる方だ。お母様の隣の椅子に腰かけながら、家系図を辿り曾祖母の名前を眺める。


「そういえば、私の白銀の髪はその方以来でしたね」


「ええ、そうよ。よく覚えているわね」


 お母様は細い指先で曾祖母から家系図をゆっくりとなぞっていた。黒い線はお祖父様に繋がり、やがてお父様に繋がっている。


「この方もね、あなたと同じような見事な白銀の髪をもっていたらしいわ」


 お母様は悪戯っぽく笑ったかと思うと、先々代の当主夫妻の下に記された、お祖父様と並んだある女性の名前をそっと指さす。


「これは公にはあまり知られていないことなのだけれど……この方――イライザ様は、あなたのお祖父様の妹君なのだけれどね、駆け落ちをしてマレット侯爵家との縁を切ってしまったの」


「まあ、駆け落ちですか……」


 そう穏やかな話でもない。家系図の上で繋がりを絶たれたようにぽつんと記されたイライザ様のお名前をまじまじと見つめる。


「そのころのマレット侯爵家は、序列も上から数えた方が早いくらいの名家でね、当然イライザ様にも相応しい婚約者をあてがわなければ、って、先々代の当主夫妻は必死だったそうよ」


 イライザ様の婚約者候補として上がった方々の家は、今も名を轟かせる公爵家や侯爵家ばかりで、マレット侯爵家がその家々に肩を並べていた過去があったことに何だか驚いてしまった。


「でも、イライザ様は恋をしていたの。ある子爵の青年に、それはもう惚れ込んでいたそうよ」


「子爵家、ですか」


 当時勢いづいていたマレット侯爵家のことを考えれば、多少家格の差は気になるところだが、全くあり得ない話ではない。本人たちが望んでいるのなら、と結婚を許す場合だって多いはずだ。


「でも、先々代の当主はそれをお許しにならなかった。燃えるような恋をしていたイライザ様は、それならばもうマレット侯爵家との縁を切る、と宣言して子爵の元へ単身で嫁いでしまったのよ」


「それは……なかなか思いきりの良い方ですね」


「そうでしょう? まあ、それを機に、この方とマレット侯爵家の縁は完全に終わってしまったのだけれどね」


 家族か恋人か、そのどちらかを選ばざるを得なかったイライザ様の境遇を思うと不憫に思う部分もあるが、それでも自分の信じた道を突き進んだ彼女の生き様は憧れる部分があった。


「その後イライザ様は、子爵家で幸せに暮らしたそうよ。イライザ様の銀髪を受け継いだ、とても美しい女の子にも恵まれて」


「……それは良かった。イライザ様は、ご自分で幸せを掴んだのですね」


「ええ、そしてイライザ様の娘は、やがて現在の国王陛下のお目に留まってお妃様になるのよ」


「……え?」


 お母様の顔に浮かんでいた悪戯っぽい笑みが深まる。一方の私はきっと、物凄く間抜けな表情をしていただろう。


「イライザ様の娘の名前はエイリーン様――国王陛下の三番目の側妃様……つまりはエルドレッド殿下のお母様ね」


「エルドレッド殿下の……?」


 まさか、そんなことがあるだろうか。思わず、洗い晒した自分の銀色の髪を摘まむ。オリヴィア姫とよく似たこの銀髪に、まさか本当にオリヴィア姫との縁があったなんて。


「……つまりは、エルドレッド殿下と私は遠縁の親戚ということでしょうか」


「そういうことになるわね。あなたのお父様とエイリーン妃は従兄妹同士ということになるのだもの」


 あまりに衝撃的な事実に、どこかぼんやりとしてしまう。こんな時に思い出すのは、あの晩餐会の翌日に、私の髪を洗ってくれたナタリーが呟いた何気ない一言だ。


 ――血というものは不思議ですね。見た目はあんなに赤いのに、白銀色や灰色まで継いでいくなんて!


 マレット侯爵家との縁が切れた後でも、イライザ様の白銀の髪が次の世代へと着々と継がれ、そして今、私がエルドレッド殿下と巡り合ったことに、なんとも言葉には表現できない感動を覚えてしまった。


「……だから、殿下があなたに妹姫の面影を見ているという噂を聞いたときには、不思議な気持ちになったわ。とても大きな視点で見れば、殿下にとってあなたは妹みたいな存在ですものね」


 それはあまりにも大雑把な気もするが、確かに遠縁の親戚という点では、私が殿下のことを「お兄様」と呼ぶのも全くの間違いというわけではないのだろう。もっとも、殿下にとってそんな風に呼ばれたい相手は、オリヴィア姫ただ一人だと分かっているのだが。


「だからね、もしもあなたが無理をしているのなら……殿下の婚約者としてではなく、遠縁の親戚としてお話し相手を務める、という道もあるのよ。王家からの支援金のことは気にしなくてもいいわ。あなたにはあなたの思うように生きてほしいもの」


「お母様……」


 お母様には、私が無理をしているように見えたのだろうか。殿下に振り回される可哀想な娘だと思われてしまったのだろうか。


 いや、きっと違うだろう。お母様は、私が殿下に向ける想いの微妙な揺らぎを感じ取っているのだ。そして恐らくその原因は、5年前のあの夕暮れに殿下に暴言を吐かれたこと、本当は殿下は私のことを嫌っておられるのではないか、という疑念のせいなのだろう。


 やはり、この問題はきちんと整理しなければ。ジャスティーナ城に帰ったら、思い切って殿下に5年前の夕暮れの話をしよう。そうして私の想いもきちんとお伝えするのだ。


「……お母様、私、叶うならこのまま殿下の婚約者でいたいです。だから……ちゃんと伝えます、私の気持ち。気になっていることも思い切って尋ねてみます」


 何だか少しだけ清々しい気分だ。思いがけずお母様に気持ちを整えてもらってしまった。やっぱりお母様には敵わないなあ、なんて思いながら、思わず頬を緩ませる。


「そう、それならいいのだけれど。殿下もあなたのことをお気に召しているようだし、何より優しそうで素敵だわ」


 これは絶対に殿下に幽閉されかけたなんて言えないな、と苦笑を零す。


「セレスティアは殿下のどこが好きなの? ねえ、お母様に教えてごらんなさいな」


「もう、お母様、恥ずかしいですから!」


 結局この後私は、殿下がいかに素晴らしいか、どれだけ慈しみ深くお優しいお心の持ち主であるかを延々と話してしまい、「もう結構よ」とお母様の笑顔を引きつらせることになるのだが、それでも話し足りないような気がしてしまう。


 図らずも殿下への想いを再認識し、真っ直ぐに殿下と向き合うことを決めた夜はそのまま静かに更けていったのだった。

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