第8話

 その翌日、建国祭初日の華やかな夜会の広間を前にして、私はかつてないほどの緊張に見舞われていた。広間の扉の前で入場を待つ私たちの下にまで、華やかな音楽や賑やかな人々の話し声が届いてくる。ローウェル王国の主要な貴族という貴族が集められているのだから、それはもう豪華な宴となっているのだろう。


「緊張してるの、セレスティア」


 穏やかな口調でそう語りかけてくるのは、深い紺色の正装に身を包んだエルドレッド殿下だ。上着に合わせた手袋だとか、胸ポケットから覗く、私の深緑のドレスと合わせたハンカチだとか、隅々まで気を遣った装いは、本当に素晴らしい以外の何物でもなかった。


「え、ええ……正直に申し上げますと、少し」


 ちらりと殿下のお顔を見上げるも、何だか恥ずかしくてすぐに俯いてしまう。


 煌びやかな光の下では、殿下の白銀の髪は眩しいほどにきらきらと輝くのだと初めて知った。どこか怪しげな雰囲気の漂うジャスティーナ城では、今にも消え入りそうな儚さを醸し出していたのに、こういった華やかな場では誰にも負けないほどの存在感を放つなんて、とんでもない王子様だと思う。


 私も今日のために、深緑のドレスに黒の刺繍をあしらった、品の良いドレスを仕立てていただいたのだが、殿下のお隣に並ぶと霞んで見えなくなりそうだ。きっとご令嬢方からは、またしても揶揄われてしまうのだろうな、と考えるときゅっと胃の奥が痛くなる。


「大丈夫、怖いことなんて何もないよ。楽しみにしていたんだろう?」


 殿下の指先がそっと私の頬を撫でる。手袋越しの温もりが愛おしくて、自然と頬が緩んでしまった。


「ふふ……実を言えば、殿下のそのお姿が一番の楽しみだったのです」


「僕の?」


「普段から素敵ですが、今日は一段と王子様らしくて……その、直視できなくて困ってしまいます」


 現に今も、殿下のお顔をまっすぐに見上げることが出来ない。頬紅を薄めに抑えてもらってよかった。殿下のお隣にいたら、常に頬が熱くて真っ赤になってしまいそうだと危ぶんでいた予想が当たったようだ。


「参ったな……君に先に口説かれるなんて」


 殿下は可笑しくてたまらないという風に笑ったが、耳の端が僅かに赤くなっているのを見て、私の言葉で殿下も照れてしまったのだろうか、などとおこがましいことを考えてみる。


 そんなわけないわ、私の言葉ごときで。きっと、あの赤さはこの会場の熱のせいよ。


 舞い上がる気持ちを抑え込むように自分に言い聞かせれば、不意に殿下の手が私の頬に添えられた。


「……会場ではまた演技をしなきゃいけないから、今のうちに」


 広間から流れる音楽に掻き消えそうなほどの小さな声でそう告げたかと思うと、殿下は軽く屈んで私の耳元で囁いた。


「今日のセレスティアは本当に綺麗だ。叶うなら、このまま誰にも見せたくないくらいだよ」


 真っ直ぐな賞賛と少しの独占欲を滲ませたその言葉は、初恋にしがみ付く私には刺激が強すぎた。頭の中まで熱を帯びるような感覚を覚えながら、視線を泳がせつつ何とか「光栄です」と震える声で言葉を絞り出した。


 殿下がそんな風に言ってくださるのは、今も私を収集品のように思っているからなのか、それとも何か特別な感情が隠されているのか。


 それはまだ分からない。分からないけれど、いずれにせよ好意に近い感情を感じ取ってしまって、眩暈がするほどの幸福感に酔いしれてしまう。


 殿下に嫌われていると思い込んでいたあの時からは考えられないほどの幸せだ。

 

 戸惑っているうちに、エルドレッド殿下と私の名を呼ぶ声が響き渡る。それを合図に使用人たちの手によってゆっくりと開かれていく扉の先の光に目を細めながら、私は殿下にエスコートされるがままに一歩を踏み出したのだった。




 きらきらとシャンデリアの光が反射しては、目が眩みそうになる。殿下の腕にそっと手を添えたまま、私は殿下の婚約者として恥ずかしくないよう、なるべく毅然とした態度を取り続けていた。


 仮にも第六王子殿下の婚約者が、俯いてばかりでは情けない。そう思い、周りの視線など気にするまいと顔を上げ続けているのだが、不思議なことに私に注がれる視線は侮蔑や好奇の視線ではなく、羨望や恍惚に似たようなものが多いように感じられた。


 これが、エルドレッド殿下のお力か。これだけ美しい王子様の隣に立っているというだけで、ご令嬢たちに揶揄われてばかりだった私でも羨望の対象になるらしい。広間の中心で決められたとおりのダンスを披露したときも、ひしひしとご令嬢方からの視線を感じていた。それはそれでなんだがむず痒いような不思議な心地になるが、蔑むような視線を向けられるよりはいくらかマシだった。


「顔が赤いよ。ちょっと暑かったかな」


 ダンスを披露した後、殿下は壊れ物に触れるかのような手つきで、そっと私の前髪を整えてくれる。今日は銀色の髪を結い上げているので、むしろいつもより涼しいはずなのだが、どうにも人の熱気に当てられてしまっているらしい。


「ええ、少しだけ。でも、とても楽しかったですわ」


 この夜会でも殿下は私にオリヴィア姫を見る演技を続けているが、昨日のお茶会ほどの恥ずかしさは無かった。夜会が開放的な雰囲気であるせいかもしれない。


 建国祭の夜会というだけあって、広間の賑わいはそれはもう騒がしいほどだった。流石に公の場なので、酔いつぶれるような真似をする人はいないが、若いご令嬢や子息を中心に普段より羽目を外したような行動がちらほらと見られる。 


 私にはあそこまではしゃぐだけの勇気はないが、見ている分には賑やかで楽しいものだ。くるくると踊り続けるご令嬢たちを微笑ましく思いながら、どこかぼんやりと広間を見渡していると、不意に殿下が私の腰に腕を回す。


「少しバルコニーへ行って休もう。夜風に当たれば気分も良くなるはずだよ」


「ありがとうございます。……今夜も星が美しいでしょうね」


 昨夜は約束通り、エルドレッド殿下と共に王城のバルコニーから星空を眺めた。殿下はどうやら星もお好きなようで、星座や星の名前を教えてくださったのだ。好きなものについて話す殿下はとても楽しそうで、その横顔を見ているだけで益々愛おしさが募ったものだ。


 殿下にエスコートされるようにしてバルコニーへ赴けば、休憩用の椅子が用意されていた。私たちのように人の熱気に当てられた参加者のために用意されているのだろう。


「何か飲物を持ってくるよ。ワインでいいかな?」


「ありがとうございます、殿下」


 ふわふわとしたクッションが敷かれた赤い布張りの椅子に腰かけ、殿下を見上げれば、彼もまた慈しむように私を見下ろしてくださった。彼の背後で瞬く銀色の星も相まって、まるで一枚の絵のような光景だ。


 なんて、綺麗な人だろう。恋焦がれるように殿下を見上げていると、殿下の淡い青の瞳が戸惑うように揺れる。


「……そんな風に見つめられると、その、結構恥ずかしいな。勘違いしそうになるよ」


「え?」


 そのまま私から視線を逸らしたかと思うと、殿下はいつもどおりの穏やかな微笑みを取り繕って会場の方を見据えた。


「すぐに飲物を取ってくるよ。君はここで休んでいて」


 淡い青の瞳は揺らいだままだったが、殿下はそれだけ告げて遠ざかって行った。ここに従者を呼び寄せても良かったのに、わざわざ取りに行ってくださるなんて。


 やっぱり、殿下はお優しい。お優しくて、慈しみ深くて、ちょっぴり不器用なところも憎めない。日に日に殿下への愛おしさが募って、どうにかなってしまいそうだ。


 たとえ、殿下にとって私は収集品に過ぎなくとも、それでもいつかこの愛おしさのひとかけらでもいいから愛を恵んでいただけたら。


 そうしたら、あまりの幸せに死んでしまうかもしれないわね、などと本気で考えながら、一人くすりと笑ってしまった。


「……随分楽しそうだな、セレスティア嬢」


「レナード殿下!」


 不意にバルコニーに姿を現したのは、昨日同様赤髪を片側だけ上げた色気のある装いのレナード殿下だ。いつもはどこか騎士然とした装いをなさっているが、今日はレナード殿下も正装らしい。少し冷たい印象は残るが、毅然とした王子様といった様子で、エルドレッド殿下とはまた違った魅力がある。


「……エルドレッドと上手くやっているようで何よりだ」


「はい、おかげさまで……。エルドレッド殿下にはお会いになりましたか? 本当に素敵で、私、ずっと腑抜けた顔ばかりしてしまいますの」


 席から立ち上がり、思わずエルドレッド殿下の素晴らしさについて口走れば、レナード殿下にしては珍しいほどふっと柔らかい笑い方をなさった。


「セレスティア嬢は本当にエルドレッドが好きなんだな」


「ええ……それはもう。でも、この気持ちを正直に申し上げてご迷惑にならないかが不安なのです」


 殿下はお優しい方だ。もしも私を収集品としか思っていなかったとしても、好意を向けられたらきっと無碍には出来ないだろう。殿下に余計な気苦労を負わせてしまうかもしれないと思うと、なかなか一歩を踏み出せない。


「可愛いな、セレスティア嬢は」


「え?」


 レナード殿下にしては珍しい言葉に驚いてレナード殿下を見上げれば、彼の琥珀色の瞳もまた、驚いたと言わんばかりに見開かれていた。


「あ……その、妹、みたいな意味でだな。いずれはその、義妹になるわけだし」


 歯切れの悪い言葉はやっぱりレナード殿下らしくなかったが、彼が私を義妹として歓迎してくれているのならそんなに嬉しいことはない。


「ふふ、ありがとうございます。エルドレッド殿下のお気持ちは分かりませんが……レナード殿下に認めていただけるのは、励みになります」


 エディ様もレナード殿下もナタリーも、私の周りの皆さんはこの初恋を応援してくださる。それがどれだけ幸せなことか、噛みしめるように私は軽く礼をした。


「……レナード義兄上? 彼女に何か御用ですか?」


 不意に、ワイングラスを手にしたエルドレッド殿下がバルコニーへ戻ってくる。レナード殿下はどこか気まずそうに視線を彷徨わせていたが、広間の方を見据えてぽつりと呟いた。


「……建国祭は羽目を外す奴が多い。セレスティア嬢が一人で過ごしていたら、絡まれてもおかしくないと思って牽制に来ただけだ」


「エディが目を光らせていますのでそんな事態にはなりようがありませんが……ご厚意に感謝いたします。僕のを慈しんでくださっているようで、僕としても嬉しい限りです」


 婚約者、という言葉を強調するような言葉と共に、エルドレッド殿下は意味ありげにレナード殿下を見上げると、そっと私の腰を引き寄せた。


「……そう嫉妬するな。俺は今、お前がいかに素晴らしいかというセレスティア嬢の熱弁を聞いていただけなんだから」 


「レナード殿下!」


 そんな風にエルドレッド殿下に知らせてしまうなんて。あまりの恥ずかしさに抗議の声を上げれば、レナード殿下はふっと笑いながら、慈しむような眼差しで私とエルドレッド殿下を見据えた。


「本当のことだろう? せいぜい仲良くやれよ、お二人さん」


 ひらひらと手を振って広間の方へ戻るレナード殿下の後姿を見送れば、秋のバルコニーに何とも言えない気まずい空気が流れた。


 ああ、本当に恥ずかしくてならない。エルドレッド殿下のいないところで、殿下の美しさを褒め称えていたことがバレてしまうなんて。

 

「……今日の僕の姿はよっぽどお気に召したんだね?」


 恥ずかしさに耐えかねていると、エルドレッド殿下が追い打ちをかけるように私を見下ろした。どこか悪戯っぽく揺れる淡い青の瞳に捉えられて、何も言えなくなってしまう。


 殿下の持つワイングラスの中身がゆらゆらと揺れるさまを見ながら、頬に帯びた熱の逃がし方を模索していた。曇り一つないグラスが広間の光を反射して、少し眩しい。


 腰を引き寄せられたまま言葉を失った私は、結局、戸惑う心のままにそっと殿下に身を委ねた。


 恥ずかしさのあまり却って大胆になってしまった気がする。それでも、何だか殿下に甘えたい気分になってしまったのだ。優しい殿下の香りに包まれて、その安心感にそっと目を閉じる。


 もたれかかるように殿下の胸に顔をくっつけていると、心臓の音が聞こえてくる。殿下の鼓動も少しだけ早いような気がした。


 殿下は何も言わず、ワイングラスを持っていない方の手で私を抱きかかえると、私の頭に優しい口付けを落とした。何だかくすぐったいような気分になってしまう。


「……一緒に星でも見ようか」


「はい」


 殿下の腕に抱かれたまま、バルコニーの柵の方へと移動する。結局、ダンスなどの夜会らしいことよりも、殿下と二人きりで星を見上げているほうがずっと心が安らぐ気がした。


 この幸せな時間を切り取って大切にしまっておきたい。そう思ってしまうくらいには、美しい夜が更けていったのだった。

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