第7話
「義兄上、彼女にあまり触れないでいただきたい」
お茶会の会場を離れ、中庭に出たところでエルドレッド殿下はぶっきらぼうにそう言い放った。レナード殿下は言われるがままに、私の腕を掴んでいた手を離す。
「ああ。悪い。一刻も早くお前たちをあの場から連れ出したくてな……」
「ご親切に、どうも」
エルドレッド殿下は手短に礼を述べると、改めて私にぴったりと身を寄せて、先ほどパメラ王女に叩かれた私の指先をじっと観察した。
「あの、殿下、大丈夫ですわ。ちょっと驚いただけです」
「君をあんな目に遭わせるつもりはなかったんだけど……本当にごめんね」
エルドレッド殿下は見るからにしょんぼりとした様子で肩を落とすと、そっと私の髪を耳にかけてくださった。演技の延長なのかもしれないが、慈しまれていると感じてしまうような動作だ。
「義姉上たちにも困ったものだね……。ジェーン義姉上のあの気性の荒さも、パメラ義姉上の卑屈さも、年を経ていくらかマシになっているかと思ったんだけど……」
「とんでもない。年々悪化しているぞ」
レナード殿下は深い溜息交じりに呟くと、ゆっくりと中庭を歩き始めた。すらりとした長身と、はっきりとした態度が、あのご兄弟の論争を見た後では一層頼もしく思える。
「せめてナイセル公爵令嬢が諫めてくれれば……と思っていたんだが、彼女は王妃になって自分の思うままに王宮と国を動かすことにしか興味がないらしい。王太子殿下のあの様子じゃ、即位したその日にナイセル公爵家に国を乗っ取られるぞ……」
レナード殿下のその言葉は、中庭とはいえ、王城内で話すにはなかなか繊細な話題のように思えたが、エルドレッド殿下は慣れているのか表情一つ変えない。
「……セドリック義兄上が、王太子殿下に心酔する訳が分かりませんね」
セドリック殿下。今日は体調がすぐれずお茶会に参加しなかった疑惑の第二王子殿下だ。エディ様の一件を知ってからというもの、第二王子殿下の名前が出るだけで、心臓が飛び跳ねるような心地だ。
「お前と俺の意見が一致するなんて珍しいな。セドリック義兄上もお告げだなんだって騒いでいたこともあったが……まあ、ご自分の体が思うように動くなら、自分が王になろうと思っただろうな。でも、病弱に生まれてしまったのだから仕方がない。それならば、同腹の王太子殿下を推そうと考えるのもまあ、そう不自然な話ではないがな」
「いっそ、あなたが王位を継いでくだされば、僕としては安心なんですがね」
エルドレッド殿下は何気ない微笑みと共にレナード殿下を見上げた。レナード殿下はぎょっとしたように琥珀色の目を見開き、思わず立ち止まってしまう。
「お前、滅多なことは言ってくれるなよ……。王太子派が俺に刺客を送る理由を増やすな」
「大抵の暗殺者は殺してしまえるでしょう。彼女の部屋のバルコニーまで辿り着ける義兄上ならば」
妙に皮肉気な言い方からして、あの雨の日に、レナード殿下が私の部屋に訪れたことをエルドレッド殿下は相当根に持っているらしかった。もう何週間も前のことなのだが、彼の中では未だ怒りが収まっていなかったらしい。
「何だお前、気づいていたのか。……お前がセレスティア嬢に頑なに会わせないから不安になったんだ。お前はセレスティア嬢を嫌っていると彼女から聞いていたし……最悪の結末を予想しただけだ」
「最悪の結末、ね。僕が彼女を殺すとでも?」
「……あの日のお前はそれくらい危うげなものがあった」
「ひどい義兄上だ」
ね、セレスティア、と殿下は同意を求めるように私を腰を引き寄せた。やっぱり、今日はいちいち距離が近い。
「ええ……殿下は、そんな冷酷なお方じゃありません」
ちょっと不器用だけれども、エルドレッド殿下は、本当は慈しみ深くて優しいお方なのだ。私の大好きな、初恋の人。
「まあ、お前たちが仲良くしてくれているのは大いに結構なんだが……その演技は何なんだ? 目が覚めたんだろう、エルドレッド」
「話せばあまりにも長いので、今日の所はご勘弁を。レナード義兄上には、このまま僕らの味方でいていただきたい、とだけ申し上げておきます」
「言われなくても、あいつらとつるむくらいならお前たちの傍にいるさ」
再び深い溜息をついて、頭を抱えるレナード殿下は相当お疲れのようだった。私だって、あの一瞬のお茶会でうんざりしてしまったくらいなのだから、仲裁役を引き受けざるを得ないレナード殿下の苦労は計り知れない。
「……国王陛下にはご挨拶に伺ったか?」
秋に染まり始める中庭の中、背の高いレナード殿下は木々の色づいた葉に触れながら、ちらりとエルドレッド殿下を一瞥する。
「いいえ。これから伺おうかと」
「そうか、ちょうどいい。セレスティア嬢の顔見せがてら――」
そこまで言いかけて、ふとレナード殿下は葉に触れていた手を下ろす。
「いや……やめておいた方がいいか。あまり刺激しない方がいい」
「僕もそう思います。ですから、僕一人で伺おうと考えていました」
「そうした方が賢明かもな。じゃあ、セレスティア嬢の相手は俺が――」
「――結構です。他に適任がおりますので」
ばっさりとレナード殿下の提案を却下したかと思えば、エルドレッド殿下は小さくエディ、と呟いた。それとほぼ時を同じくして、エディ様が茂みから姿を現す。
今まで私たちをつけていたのだろうか。まったく気配を感じなかった。
「お呼びでしょうか、エルドレッド殿下」
「セレスティアのエスコートを頼む。くれぐれもレナード義兄上に触らせるな」
「御意」
エディ様が過去を打ち明けてからというもの、エディ様の役目は医師の範疇を越えたものとなってしまったが、不思議と彼の表情は以前よりも清々しいものだった。エルドレッド殿下という新たな主に忠誠を誓ったからなのかもしれない。
「酷い言い草だ。ジェーン義姉上の言っていたことを気にしているのか?」
「……警戒しておくに越したことはありませんから。それに、義兄上にとっても義弟の婚約者と二人で歩いていた、なんて噂は喜ばしくないでしょう」
「まあ、それもそうだが……」
ここまで無愛想に淡々と言葉を連ねていたエルドレッド殿下だったが、不意に私に向き直ると、甘い笑みを浮かべてそっと私の頬を撫でた。
「それじゃあ、僕はちょっと父上の所に行ってくるよ。君はここでエディと一緒に散歩をしておいで。疲れたら先に私室へ行って休んでいるといい」
「……本当に、私も一緒にご挨拶に伺わなくてよろしいのですか?」
一応は、エルドレッド殿下の婚約者なのに、というどことなく寂しい気持ちがないと言えば嘘になる。
エルドレッド殿下は私のそんな些細な感情の揺れを察したのか、少しだけ困ったように整った眉を下げた。
「本当は一緒に行きたいけどね……。国王陛下はほら、僕の父上だから血は争えないというか……結構、不安定なんだ。君の姿を見たら、オリヴィアのことを思い出して余計にお心を病んでしまうかもしれない。それはちょっと可哀想だからね」
国王陛下がオリヴィア姫を殊更に溺愛していたという話は有名だ。お心を病まれていた当時のエルドレッド殿下が、銀の髪に青の瞳を持つ私にオリヴィア姫を見たように、国王陛下も私の姿をご覧になったら、亡きオリヴィア姫のことを思い出さずにはいられないのだろう。
娘を失った悲しみに暮れる国王陛下のお気持ちを思うと、確かに私はご挨拶に伺わない方が賢明な気がした。自分の感情ばかりを優先しようとした己の浅はかさに、恥じらいにも似た気持ちを覚えて思わず頭を下げる。
「……国王陛下のお気持ちを考えれば、それも当然ですね。差し出がましい真似をいたしました、申し訳ありません」
「謝らないで。……僕は少し嬉しかったんだ。君が、寂しそうな表情をしてくれて」
言葉通り、エルドレッド殿下は幸せそうに目を細めると、不意に私に顔を近づけた。あとほんのわずかな距離で殿下の唇が頬に触れようかという時に、思い留まったように殿下の動きが止まる。
「あ……えっと、頬に口付けてもいい?」
ぎりぎりで思い出したと言わんばかりに許可を願う殿下の声が、耳もとで甘く響いて却って心臓に悪い。そうだった。先ほどの演技は別として、このところの殿下は私を抱きしめるにしても指先に口付けるにしても、必ず許可を取ってからするのだ。
分かっている。殿下に口付けられたときに、泣いて逃げた私に気遣って、殿下は紳士的にも許可を取ってから実行に移してくださっているのだと。それでも、このやり取りがあまりにも恥ずかしくて、気づけば私は口走っていた。
「あ、あの、もう、許可は取らなくても結構です。私は殿下の婚約者ですもの……!」
頬が熱くなるのを感じながら思い切って言い切れば、殿下は意外だとでもいう風に目を見開いた。
「……いいの? ほんとに許可とらずに触るし口付けるよ?」
「そ、そこまで宣言されると何だか恥ずかしいですが……二言はありませんわ」
半ば自棄になって決心を固めれば、殿下はこれ以上ないくらいの幸せそうな笑みを浮かべて、ぎゅっと私を抱きしめた。
「嬉しいな、少しは、君との距離が縮まったと考えてもいいんだろうか」
「……もちろんですわ、殿下」
むしろ、私と距離を縮めたいと考えてくださっていたことが、私にとっては嬉しくてならない。そっと殿下の背中に腕を回しながら彼の香りに酔いしれていると、今度こそ頬に口付けが落とされた。
「すぐに戻ってくるよ。夜には城のバルコニーから一緒に星を見よう」
「はい、楽しみにしておりますね」
今日はよく晴れていることだし、星空を眺めるには絶好の日和かもしれない。
いつになく上機嫌な殿下を見ていると、私まで頬が緩んでしまう。軽く私に手を振って遠ざかる殿下に私も手を振り返せば、愛おしさが込み上げてきた。
「……俺は今何を見せられたんだ?」
困惑しきったようなレナード殿下の声に、そう言えばこの場にはレナード殿下とエディ様がいらっしゃったのだと思い出す。あのやり取りを二人に見られていたかと思うと、途端に恥ずかしさが込み上げてきた。
「心の浄化作用がある、大変微笑ましいやり取りをご覧になったのですよ」
エディ様が大真面目に言うものだから、余計に頬が熱を帯びる。エディ様は私と殿下が仲睦まじくしていればしているほど、満ち足りたような表情をなさるのだ。彼が私と殿下のことを応援してくださっている証だと分かっていても、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「あいつがあんな風に笑っているのは久しぶりに見た……」
レナード殿下はどこか茫然と言い放つと、不意に私を見下ろし、ふ、と口元を綻ばせる。
「……セレスティア嬢、君を義弟の元へ連れてきたのは大正解だったようだ。義弟をもう一度あんな風に笑わせてくれて感謝する」
「いえ……感謝をしなければならないのは、私の方ですわ」
エルドレッド殿下にお会いして、初恋の喜びを知った。それだけでももう、私と殿下を巡り会わせてくださったレナード殿下には、感謝してもしきれないくらいだ。
「ふふ……あの舞踏会の夜に、レナード殿下にお会いできてよかった。あの出会いが私をエルドレッド殿下の元へ導いてくださったのですから」
幸せをかみしめるようにそっと目を閉じる。秋独特の涼やかな風が、ふわりと私の髪を揺らした。
「……そうだな、俺も良かったと思っている。あの夜に、君に会えて」
弟想いのお兄様だ。一見して威圧感すら感じるレナード殿下の秘められた優しさに心打たれながら、何度目か分からない微笑みを零した。
だが、そんな穏やかなやり取りの中に、不意にエディ様が割り込んで来る。
「レナード殿下、そのような発言はくれぐれもエルドレッド殿下の前ではなさらないでください。あなた様がセレスティア様を口説いていると思われたら、被害を被るのはセレスティア様なんですから」
「口説く? 今ので?」
「捉えようによっては充分です。……自覚がないというのも困りものですね」
はあ、と呆れたように溜息をつくエディ様を、レナード殿下はどこか困惑したように眺めていたが、やがて軽く頭を抱えるようにして小さく息をつく。
「……あいつの独占欲の強さはどうにかならないのか。セレスティア嬢はこんなにもエルドレッド一筋なのに」
「それがお判りにならないのが、あなたの鈍感な義弟君なのです。いいですか、くれぐれも気を付けてくださいよ」
セレスティア様が幽閉されているのを見るのはもう御免です、と、これまた大真面目にエディ様が窘めるものだから、思わずくすくすと声をあげて笑ってしまった。レナード殿下もそれにつられるように、溜息交じりの笑みを零す。
この三人で笑い合うことになるなんて、想像もしていなかったことだ。私たち三人に共通するのは、エルドレッド殿下に幸せになってほしいと願っていることだろうか。同じ願いを抱いたもの同士、とても気が合うのを肌で感じながら、秋の昼下がりの散歩の時間は過ぎて行ったのだった。
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