第3話

「失礼いたします」


 エディ様と向日葵の迷路でお話を終えた私は、殿下の書斎を訪れていた。エディ様が自主的に明かしてくださった彼の過去について、殿下に相談したいと考えていたからだ。


 バイロン子爵家の子どもたちが次々と襲われたなんて事件があったとしたら、世間に疎い私は知らなくとも殿下ならば何かご存知かもしれない。


「――では、頼んだぞ。なるべく早急にな」


「かしこまりました、殿下」


 殿下の書斎には、この城の使用人頭の男性の姿があった。彼は私の存在に気づくなり、深々と礼をすると、私と入れ違うように書斎を後にした。殿下がわざわざ使用人に直接仕事を依頼するなんて、珍しいこともあるものだ。


「……何か急なご用事が出来たのですか?」


 殿下のいらっしゃるテーブルの前に足を運びながらも、横目で使用人頭の後姿を見送っていると、殿下はテーブルの上の書類を纏めながら、何てことないように言ってのけた。


「エディの身辺を調べるように頼んだだけだよ」


「エディ様を……?」


 昨日のエディ様のちょっとした動揺をきっかけに、随分大ごとになってしまっているような気がする。殿下とエディ様の関係が拗れるような事態にならなければいいのだが、と思わず視線を彷徨わせてしまった。


「……信じるためには疑わなければ。それだけのことだよ、セレスティア。僕の精神状態が安定していれば、あいつが来た3年前にするべきだったことを、この機会にやっているだけだから」


 殿下はこのところの態度に違わず優し気な口調で述べたが、先ほどのエディ様とのやり取りでざわつく胸が落ち着くことはなかった。


「君は建国祭に赴く準備でもしていても構わないんだよ。そうだ、新しいドレスを作るために仕立て屋を呼ぼうと思うんだけど、君の都合はいつがいい――」


 立ち上がって私の手を取った殿下だったが、私の顔を覗き込むなり表情を曇らせる。淡い青の瞳に憂いが帯びるのを見て、はっと我に返った。


「……浮かない顔をしているね。エディのことが気にかかる?」


「あ……殿下、その……」


 私が、考えすぎなだけなのかもしれない。それでも、向日葵の迷路を立ち去る間際に見せた、エディ様の寂し気な横顔が気にかかるのだ。


 エディ様がよく繰り返す「傍観者」という言葉、深緑色の瞳に滲む諦念。明らかに私たちとの間に線引きをする彼が抱えるものが、何だか彼自身を押しつぶしてしまいそうな気がしてならなかった。


「……バイロン子爵家のお子様たちが、昔、賊に襲われた、というような事件を耳にしたことはございますか?」


「バイロン子爵家の?」


「ええ……」


 殿下は表情を曇らせると、私をエスコートするようにしてソファーに座らせる。並んで腰を下ろした殿下は、遠い記憶をさかのぼるように僅かに視線を伏せた。考え込むお姿も素敵だ、と心のどこかで場違いな感想を抱きながらも、殿下のお言葉を待った。


「……この3年間に起こった事件であれば分からないが……それ以前は、貴族が賊に襲われた、というような事件についてはすべて目を通していた。自分や……オリヴィアの身を護るためにも」


 オリヴィア姫の名を口にする際の殿下は、一瞬だけ胸の痛みに耐えるような苦し気な表情をなさる。いくら姫の幻覚から醒めたとはいっても、姫を失った悲しみは、今も薄れていないのだろうと察する。


「だが、バイロン子爵家が襲われた、という話は聞いたことが無いな。それに……バイロン子爵家はそれほど子どもに恵まれていなかったはずだが……エディに兄弟がいたとは」


 殿下は表情を曇らせて、考え込むような素振りを見せる。王族からしてみれば末端の貴族である子爵家の構成まで、大まかにでも把握している殿下の記憶力の良さには驚かされた。やはり、この城でひきこもるには相応しくない聡明な王子様なのだろう。


「……エディの身辺の調査が上がってくれば、そのあたりも何かわかるかもしれないな。ありがとう、セレスティア」


「いえ……私は何も」


 私はただ、出来ることならば殿下とエディ様にはこの先も友人同士のように過ごしてほしいだけなのだ。

 

 それに、亡き弟妹達を慈しむように殿下に仕えるエディ様のような存在は、とても貴重だった。エディ様が何らかの事情を抱えているのだとしても、彼が殿下を大切に思う気持ちに嘘は無いように思えた。


 殿下を託すような言葉と共にエディ様が口付けを落とした手の甲に、そっと触れてみる。あれは一体、どんな感情からの言葉だったのかしら。

 

「手が痛むの?」


 隣に座った殿下が、不意に私の手を覗き込むように近づいてくる。私がずっと手の甲を摩っていたせいだろう。殿下の目ざとさに驚きながらも、曖昧に微笑んで殿下を見上げた。


「いえ。ただ少し、エディ様のことを考えていただけです」


 見上げた殿下の顔は思ったよりも近い距離にあったが、後退るのも失礼だろう。殿下との至近距離のせいで顔が熱くなるのを感じながら、そっと目を伏せると、殿下の手が私の頬に触れた。


「……エディのことを考えるだけで、そんなに頬を赤くするのか」


「え?」


 驚いて再び殿下を見上げれば、彼は明らかに面白くなさそうな表情をして、私を見下ろしていた。頬が赤くなっているすれば、それは殿下のお顔が近くにあるせいなのだが、どうやら殿下を勘違いさせてしまったらしい。


「セレスティアの好みがわからないな。……てっきり、義兄上のように騎士のような男がいいのかと思っていたんだけど、エディみたいな理知的な奴も警戒しないといけないのか……」


「で、殿下、誤解です。私、そんなに惚れっぽい性格じゃありませんもの!」


 書類上の関係とはいえ、自分の婚約者が他の男性に現を抜かしているように見えたら、それは面白くないだろう。慌てて否定するも、殿下の疑惑の目はなかなか収まらなかった。


「じゃあ、セレスティアはどんな人が好きなの?」


 至近距離で、初恋の人にそんなことを聞かれて、動揺しない女の子がいるだろうか。少なくとも私の心臓は、ありえないほどに早まっていた。ここで「殿下のような方です」と穏やかな微笑みと共に答えられるような度胸は私にはない。


 ずい、と迫るような殿下から顔を背けながら、ぎゅっと目をつぶって何とか言葉を絞り出す。


「……い、慈しみ深く、お優しい方が好きです」


「それって、捉えようによっては誰にでも当てはまることじゃないか……。でも、まあ、そうか、そうだよな……。当然の答えだ」


 どこか落胆するように殿下は小さく息をつくと、姿勢を正して僅かに私から離れた。ようやく落ち着いて息ができる体勢になり、私も胸に手を当てて呼吸を整える。心臓に悪いやり取りだ。


「……僕は、君に酷いことを沢山してしまったけど……少しは、君に優しくできているだろうか」


 どこか視線を彷徨わせるように尋ねる殿下の横顔には、どうしてか緊張の色が見て取れた。白に近い銀の睫毛が震えている様を、美しいと思ってしまう。


「それは、もちろんですわ。私などには、充分すぎるほどに」


「……本当に?」


「ええ」


 再び私に向き直る殿下は、どこか不安そうな眼差しを私に向けた。私の言葉の真偽を窺うように私の顔を覗き込むその姿は、私より年上の男性に失礼だとは思いつつも、何だか可愛らしいものだった。


「ふふ、本当ですよ」


 殿下のお可愛らしさに思わず頬を緩めていると、一層殿下が距離を詰める。


「……抱きしめてもいい?」


「……はい」


 私に一方的に口付けたあの晩餐会からというもの、私に触れる際には必ず殿下は許可を取るようになっていた。その紳士的な態度にときめきつつも、私が泣きながら立ち去ってしまったせいで、殿下の御心を傷つけていたら、と思うといたたまれなくなるのも事実だった。


 殿下の腕に引き寄せられると、一瞬で頬が熱を帯びるのを感じる。幸せな戸惑いだ。少しの恥ずかしさと共に殿下の背中にそっと腕を回せば、一層引き寄せられる力が強まった。


 私をぎゅっと抱きしめたまま、殿下はどこか安心したように小さく息をつく。ふわりと漂う殿下の香りに、私もまた、目をつぶって酔いしれていた。少しずつ、この香りに安心している自分がいる。


「……名前を呼んで、セレスティア」


 私の肩口に顔を埋めるようにして、殿下は強請った。そんな風にお願いされたら、殿下に恋をしている私が断れるわけもない。


「……エルドレッド」


 戸惑いよりも愛しさを込めて、初恋の人の名を呟けば、殿下がふっと幸せそうに笑うのが分かる。それだけで、何だか私も嬉しくなってしまうのだった。





 エディ様への不安を抱えつつも、殿下と共に穏やかな一日を過ごしたその翌日、殿下の書斎に衝撃的な一報が飛び込むこととなる。


「……エディの持ち物に、毒薬が?」


 使用人頭からの報告を受けた殿下の表情は、僅かに強張っていた。


「はい。……一般的には、暗殺用の毒として有名なものです」


 現品はこちらに、と使用人頭は殿下の前に小指ほどの高さの褐色の瓶を二つ置いた。予想外の展開に、共に報告を受けた私も言葉が見つからない。


 ……まさか、誰かの暗殺を目論んでいたの?


 そしてその誰かというのは、おそらく限られていた。このお城でわざわざ毒薬を使ってまで殺める価値のある人は、一人しかいない。


 エルドレッド殿下だ。


 建国祭にまつわるエディ様の不安を探ろうとしただけなのに、まさか、こんなことに。


 いや、そう判断するのは早計過ぎるかもしれない。毒も使いようによっては薬になることだってあるはずだ。医術の心得が無い私たちでは、判断しきれない領域だった。


 それは、殿下も同じ考えだったのだろう。殿下はあくまでも冷静だったが、淡い青の瞳は僅かに翳っていた。


「……エディをここへ。あいつとは、きちんと話し合わなければならないことがあるようだな」


 そう指示を下した殿下の声は、私を抱きしめていた時のあの甘い声とはまるで別人のように冷たい響きを伴っていた。ぴり、と部屋の空気が張り詰めるのを感じる。


 いやに不穏な展開に、心がずしっと重くなる。エディ様は、殿下を慈しんでおられるはずなのに、それなのに、どうして。


 疑念と不安が渦巻く殿下の書斎に、エディ様が訪れたのは、それから間もなくのことだった。

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