第三章 疑惑の建国祭

第1話

 涼やかな風が吹き抜け、色づき始めた葉が揺れる。向日葵の迷路はすっかり枯れてしまったが、ジャスティーナ城の庭は、四季折々の美しい姿で絶えず見る者の目を楽しませてくれる仕様のようだ。


 レナード殿下の訪れから二週間ほどが経ったある日、私はエルドレッド殿下と共に秋に染まり始める庭を散歩していた。夏の名残と秋の初めが同居するような風景は、様々な発見があって面白い。


「まあ、見てください、殿下。どんぐりが」


 木々の間に落ちていた小さなどんぐりを拾い、殿下にお見せする。まだ完全に色づいていないが、可愛らしい形に思わず頬が緩んだ。


「本当だ、落ちるのは少し早かったみたいだね」


 殿下も私に合わせるようにして屈みこむと、私の掌の上に乗せたどんぐりを覗き込んだ。どんぐりにはしゃぐなんて、少々子供っぽかったかしら、と今になって恥ずかしさが襲ってきた。


「それにしても、感心しないな」


 エルドレッド殿下の指先が、そっと私の手に触れる。それだけで、大袈裟なくらいに心臓が跳ねた。


「二人きりのときは名前で呼んでほしいと言ったのに」


「あ……申し訳ありません、まだ、慣れなくて……」


 エルドレッド、と呼ぶことも躊躇われるこの状況じゃ、彼を愛称で呼ぶ日は遠そうだ。それでも、殿下の望みなのだから一刻も早く慣れなければ、と意気込むと、殿下はふっと楽し気な笑みを見せた。


「いや、無理はしなくていいんだよ。呼ぼうと頑張ってくれているだけでも、嬉しいから」


 甘やかすようなその台詞に、一気に頬に熱が帯びる。本当に、この王子様は、と言葉にならない幸せな嘆きを飲みこんだ。


 このところ――そう、あの雨の日に、殿下が私のことを嫌っているという誤解が解けた日から、殿下はずっとこの調子なのだ。「オリヴィア姫」を演じていた頃に負けずとも劣らない甘やかしぶりだ。


 今まで優しくされたことにすら戸惑っていたのに、そんな風に甘い言葉ばかり囁かれると、どんな表情をしてよいのか分からなくなってしまう。幸せなことに、それこそがここ最近の私の悩みだった。


「それ、気に入ったなら城に持って帰ろうか?」


 恥ずかしさを誤魔化すようにどんぐりを弄んでいると、殿下がくすりと笑うように提案してくれる。


「いえ……こういうものは虫が出てくることもありますから、持ち帰るのは止めておきますね」


 昔、侯爵領で遊んでいるときに酷い目に遭ったんです、と笑えば、殿下はどこか眩しそうな微笑みを見せた。


「そうか……見てみたかったな、セレスティアの小さいころ」


「ふふ、悪戯っ子で、弟と喧嘩ばかりしていましたので……。とても殿下にお見せできるような姿ではありませんわ」

 

 3歳年下の弟を連れまわして、侯爵領を遊びまわったものだ。両親も良く自由にさせてくれたものだと思う。もっとも、そのおかげで、私は自然の風景が大好きになったのだが。


「そうか、セレスティアには弟さんがいるんだね。……いつか会ってみたいなあ。セレスティアのご両親にも、ちゃんとご挨拶できていないことだし」


 それは、暗に私との婚約を継続したいと思ってくださっている証なのだろうか。はっきりとした言葉にはなっていなくとも、期待してしまう私がいた。

 

 私と殿下を繋ぐのは、今も書類の上だけで決められた婚約関係だけだというのに、時折心が通い合っているような気持ちになってしまうからいけない。殿下に嫌われていないからといって、殿下が私を好きになってくれるかどうかは別の話だというのに。


 気を抜くとすぐに舞い上がってしまいそうになる。だらしなく緩みそうになる頬を何とか引き締めて、手のひらの上のどんぐりを地面に戻した。ころころと僅かに転がったどんぐりを眺め、顔をあげれば、不意にお城から出てきたナタリーの姿が目に入る。


 彼女は、私と殿下が二人で過ごしているときにはよほどのことが無ければ近寄ってこない。何か急ぎの知らせでもあったのだろうか。


「ご歓談中失礼いたします。殿下、王城よりお手紙が届いております」

 

「……ああ、もうそんな時期か」


 殿下は手紙を受け取ると、中身を見ることも無く小さく溜息をついた。急ぎの知らせではないのだろうか、とちらりと殿下の表情を窺えば、彼は柔らかく笑んで私に手紙を手渡した。


「父上からだ。多分、建国祭の招待状だよ」


 その言葉通り、王家の紋章が刻まれた封蝋をまじまじと眺めれば、ああ、もうそんな時期か、と心の中で殿下と同じ感想を抱いたのだった。





 ローウェル王国の建国祭は、大抵、秋の中頃に行われる。


 王都はちょっとしたお祭り騒ぎと化し、地域によっては収穫祭もかねて盛大に祝ったりもする、賑やかな催しだ。貴族の家では夜な夜な舞踏会やら夜会が開催され、中にはちょっぴり羽目を外したりして面倒ごとに巻き込まれたりする令嬢や子息もいるくらい、愉快なお祭りなのだ。


 ただし、不作続きの我がマレット侯爵領はそうはいかなかった。


 他の領地のようにお祭り騒ぎではしゃぐわけにはいかず、建国祭の時期にすることと言えば、せいぜい普段より念入りに教会で祈るくらいのものだった。もちろん、私を含めた侯爵家の人間も遊び歩いたりはしない。


 だから、私としては建国祭はそこまで思い入れのある行事というわけでもなく、むしろローウェル王国の国民でありながら、どこか他人事のように思ってきた催し物なのだ。


 その建国祭に、私が参加することになるなんて。


 散歩を終え、書斎に戻った殿下は招待状の中身を確認するなり、私にも見せてくださった。その内容は、第六王子であるエルドレッド殿下とその婚約者である私を、王城で開かれる建国祭の夜会に招待するというものだったのだ。


 殿下は当然として、私まで招待されるなんて。よくよく考えてみれば、殿下の意思はともかくとして、書類上の婚約者は私なのだから私に声がかかるのも至って真っ当な話なのだが、殿下の婚約者らしい仕事はしたことが無かったので、何だか新鮮な気持ちだ。


 そもそも私は、夜会や舞踏会というもの自体にあまり良い印象はない。いつも同じドレスを着ていたせいで、ご令嬢たちに揶揄われた苦い思い出があることも勿論理由の一つであるし、そもそも人の多い華やかな場所では気後れしてしまう自分の性格のせいでもある。


 でも、王城で開かれる夜会――それも建国祭の催し物となれば、きっとエルドレッド殿下は正装で臨まれるだろう。その姿はきっと、惚れ惚れするほど美しいに違いない。想像するだけで、思わず頬が緩んでしまう。


「……嬉しそうだね、セレスティア」


 殿下とはソファーに並んで座っていたのだが、思ったよりも近いところで声が聞こえ、びくりと肩を震わせてしまった。気づかないうちに、殿下は私が手にしている招待状を覗き込むようにして私と距離を縮めていたらしい。


「建国祭に行ってみたい?」


 肩が触れ合う距離のまま、殿下は私の顔を覗き込むように尋ねてくださる。穏やかな微笑みを浮かべる殿下を見るだけで、愛しさが募るような気がするから恋と言うものは恐ろしい。


「……興味が無いと言えば嘘になります」


 自分が着飾ったところで高が知れているが、殿下の正装姿は見てみたい。そう、正直に告げても良かったのだが、何だか恥ずかしくて躊躇われてしまった。


「そうか、興味があるのか」


 殿下はどこか愉し気に私の言葉を復唱すると、テーブルに並べられた紅茶を口に運んだ。


 書斎のドアが慎ましくノックされたのは、それとほぼ同時だった。殿下は紅茶の香りを楽しむように軽く口元を歪めながら、入室の許可を出す。


「失礼します、殿下。王城からの手紙が届いたとお聞きしましたが――」


 ゆっくりとドアを開けて入ってきたのは、今日も今日とて理知的な面持ちのエディ様だ。黒髪の隙間から覗いた深緑の目と私の目が合うなり、ふっと柔らかい表情に変わる。


「――これはこれは失礼を。セレスティア様もご一緒でしたか」


「ごきげんよう、エディ様」


 ソファーから立ち上がって、ドレスを摘まめば、エディ様もそれに応えるように恭しい礼を返してくれる。このところのエディ様は、私と殿下が一緒に過ごしているところを見ると、明らかに嬉しそうな表情をなさるのだ。


「案の定、建国祭の招待状だったよ」


 エルドレッド殿下は私との距離を詰めたまま、優雅に足を組んだ。エディ様は殿下のお傍に近寄るなり、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべる。


「左様でございましたか。今年も、お断りする方針で――」


「――気が変わった。今年は顔を出そうと思う」


 その瞬間、本当に一瞬だけエディ様の顔から表情が失われたのを、私はたまたま見てしまった。いつも温厚で穏やかな彼からは程遠い、無機質な冷たい面持ちに、僅かに身震いする。


「……何か、ご心境の変化でも?」


 すぐに穏やかな笑みを取り繕ったエディ様だったが、深緑の瞳は決して笑っていなかった。ただ、それは変化というにはあまりにも些細なもので、単に殿下に予想外のことを言われたから動揺しているだけ、と言われたらそれまでのものだった。


「セレスティアが建国祭に興味があるそうだから、二人で行こうと思う」


 今までの話を聞いている限りだと、どうやら殿下はもともと建国祭に赴くつもりはなかったようだ。それなのに、私の一言でその予定が覆ってしまうなんて。


 あまりの動揺にまじまじと殿下を見つめていると、殿下は私を一瞥して、甘い笑みを見せる。


「……セレスティア様をお城の外に出すなんて、それこそ今までの殿下からは考えられない変化ですね」


 エディ様が戸惑ったように殿下を見つめれば、殿下はふっと可笑しそうに笑った。


「まあ、今までの言動を考えればそう思われても無理はないな。もちろん、なるべくなら城の外には出たくないが……たまにはいいだろう。セレスティアの息抜きになるのなら」


「それも……そうですが……しかし……」


 エディ様にしては珍しく要領を得ない返事に、殿下は僅かに眉を顰める。


「……驚いたな。お前ならば、喜んで僕らを送り出すと思ったんだが……。いつも新しい刺激が大切だ、とか言っていたじゃないか」


「それは、もちろん……。お二人の仲を深める意味でも、建国祭はまたとない機会です」


 そのままエディ様は軽く俯いて、口を噤んでしまう。いつもの彼らしくない反応だ。


「……僕の心の調子を心配しているのか? それならば、お前もついて来ればいい。夜会の間は、書店や王城の図書室に行っていても構わない」


 あらゆる分野の本を愛するエディ様であれば、問答無用で飛びつくほどの魅力的な提案のはずなのに、エディ様の深緑色の瞳に浮かんだのは、好奇心ではなく明らかな怯えの色だった。


「いえ……お二人の旅に水を差すわけにはいきませんから」


 微笑んではいるが、明らかに取り繕っていると分かるような表情は、エディ様らしくない。半ば唖然としてエディ様を見上げていると、彼は気まずそうに私たちから視線を逸らし、僅かに後退った。


「……申し訳ありません、急用を思い出しましたもので……これで失礼します」


 そのまま私たちから逃れるように部屋から出ていくエディ様の後姿を、私も殿下も呆気にとられるようにして見送った。ぱたん、と閉じられた扉を見て、やがてどちらからともなく顔を見合わせる。


 今日のエディ様はどこかおかしい。お互い、言葉にはしなくとも思っていることは同じだっただろう。見過すことのできない友人の違和感を前に、いつにない胸騒ぎを覚えてしまうのだった。

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