第13話

 降りしきる雨の中で、私は身動きも取れぬまま、エルドレッド殿下と向かい合っていた。ぱらぱらと打ち付ける雨音だけが、どこか遠い世界のもののように響き渡っている。


 レナード殿下をお見送りしている間に、エルドレッド殿下がいらしたのだろうか。バルコニーにいたせいで、全く気づけなかった。


 白に近い白銀の髪の隙間から覗く殿下の淡い青の瞳は、かつてないほどに翳り、淀んでいた。今朝まで宿っていたはずの歪んだ熱すらも失われて、ただ、執着と憎悪だけが残されたような虚ろな瞳だった。


 その殿下の髪から、上着から、ぽたぽたと雨粒が滴っているのを見て我に返る。いけない、私はともかく、殿下が雨に濡れてしまったら体調を崩されてしまうかもしれない。


 そう思い、室内に入りましょうと声をかけようとした瞬間、ぞっとするほど冷たい声音で、エルドレッド殿下は口を開いた。


「……先ほどまでここにいた男は、義兄上か?」


「え? ええ……私のことを心配してきてくださったようで……」


 もとより、レナード殿下がいらしたことを隠すつもりもなかったので素直に認めれば、エルドレッド殿下の淡い青の瞳に一層憎悪のような黒い感情が宿るのが分かった。


「へえ……そうか、囚われの姫に会いに来る王子なんて、お伽噺顔負けの感動的な話じゃないか。僕に囚われる悲劇の中で重ねる逢瀬は、さぞかし盛り上がっただろうね?」


 皮肉気な言葉と共に、どこか自嘲気味な笑みを浮かべる殿下は、ゆっくりと私との距離を詰めた。そのただならぬ雰囲気に、思わず息を飲む。


「逢瀬だなんて、そんな……。レナード殿下は、ただご厚意で――」


「――言い訳なんて聞きたくない」


 吐き捨てるようなその言葉と共に、痛いほどに腕を掴まれる。そのまま問答無用で手を引かれ、時折足をもつれさせながらも、殿下に導かれるままに歩き出すしかなかった。


 バルコニーの扉をくぐり、室内に足を踏み入れれば、ひどく動揺したようなナタリーが私たちの姿を見守っている。その腕には白い布が何枚も重ねられており、恐らく私たちに手渡すために準備してくれていたものだと思うのだが、鬼気迫った殿下の雰囲気にのまれて、身動きが取れないようだった。


 無理もない。普段あれだけ穏やかな殿下が、明らかな怒りを滲ませているのだ。戸惑わない訳が無かった。実際、私だって内心ひどく混乱している。


 殆ど不可抗力に近い話だったとはいえ、レナード殿下にお会いしたこと自体良くなかったのだろう。エルドレッド殿下からしてみれば、私がレナード殿下に助けを求めているように見えてもおかしくない。どうやって誤解を解こうか、と逡巡しているうちに、気づけば私たちは誰もいない寝室に移動していた。


 当然ながら、殿下が私の寝室にいらしたのはこれが初めてのことだ。見慣れた寝室の中に殿下がいらっしゃるのは何だか新鮮で、薄暗い部屋の中で佇む殿下の姿に不覚にもどきりとしてしまったが、背後で扉が閉まる音が響き、我に返る。


 今まで殿下と密室で二人きりになることは無かったので、そこはかとない不安と共に扉を振り返っていると、殿下に掴まれた腕が今まで以上の強い力で引かれるのが分かった。


「っ……」


 バランスを崩し、姿勢を保ちきれずにベッドに倒れ込んでしまう。そのまま殿下も私に覆いかぶさるようにベッドに乗り上げると、私を押し倒すような形で虚ろな瞳を向けてきた。淡い青とは似ても似つかない、黒く澱んだ感情を目の当たりにして、息がつまる。戸惑いや恐怖を通り越して、身動きが取れないほどの衝撃を受けた。


「窓にも鉄格子をつければいいのか?」


 ぽたぽたと、雨の名残が殿下の白銀色の髪から滴り落ちる。質問の意図を捉えきれずに殿下を見つめ返していると、私の手首を掴む殿下の手に一層力がこもった。


「そうすれば、君は義兄上のことは諦めて、僕に囚われて……ずっとこの城にいてくれるんだろうか」


 自嘲気味な笑みを浮かべて、雨に濡れた殿下の指先が私の頬を撫でる。冷えたその指先は、まるで救いを求めるかのように震えていた。


「どうすればいい? どうすれば、君は……」


 切なげに揺れる殿下の瞳を見ていると、やっぱり言葉が出て来なかった。殿下のこの動揺は、執着は、一体どんな感情から来るものだろう。それが分からないから、殿下の求めている言葉も見つからない。


「……殿下、誤解です。レナード殿下は、私の姿が見えないから心配してきてくださっただけで……私は、逃げ出すつもりも、レナード殿下に助けを求めるつもりもありませんでした」


「でも、嬉しかったんじゃないのか? 久しぶりに義兄上に会えて……言葉を交わすことが出来て、心が安らいだんじゃないのか?」


「それは……そうですが……」


 雨の中、私を心配してきてくださった方の行動を不快に思えるはずがない。その優しさに心打たれたことは事実だ。


「それが心の底から不快で仕方がないんだ。君が義兄上の目に触れないよう、君との約束まで破って部屋に鍵をかけたのに……それでも君は僕の手から擦り抜けようとするんだな」


 頬に触れていた殿下の冷たい指先が、露わになった首筋をなぞる。くすぐったいような、ぞわりとする感覚にぎゅっと目を瞑ると、苦し気な殿下の声が降ってきた。


「……壊れようが死んでしまおうが、君がここにいてくれればそれでいい」


 あまりにも物騒な言葉に、怯えるように殿下を見上げれば、意外にも、殿下の表情に宿るのは、憎悪ではなく何かを切望するような、切実な感情だった。


「――そう思えたら、いっそ楽なのに……それじゃ、嫌なんだ。僕は君の感情が欲しい。どうしても欲しい。義兄上に向けるような笑顔も、別れ際の切なそうな表情も、怯えも憐れみも……すべてを手に入れないと気が済まない」


 それは、大嫌いなはずの私に向けるには、あまりに不自然な熱のこもった言葉だった。彼は私の肩口に顔を埋めると、泣き出しそうな声で告げる。


「だから、お願いだ、セレスティア……。ここからいなくならないでくれ。君に……傍にいてほしいんだ」


 まるで愛の告白のような切実なその願いに、何も言えなくなってしまう。ベッドの上で初恋の人に抱きつかれている異様な状況なのに、恥じらいよりも戸惑いの方がずっと大きかった。


 何度か瞬きを繰り返して、殿下の髪から滴り落ちる雨粒を受け止めながら、気づけば私は問い返していた。


「……殿下は、私のことをお嫌いなのでしょう? なぜここまで、私に執着なさるのです?」


 ずっと、怖くて聞けなかったことだ。初恋が完全に終わってしまうことが怖くて、向き合うことを恐れていた問いだ。


 一体、どんな答えが返ってくるのだろう。多少怯えながらも、殿下のお言葉を待っていると、彼はゆっくりと私の肩口から顔を上げ、戸惑うような視線を投げつけてきた。


「……嫌う? 僕が? 君を?」


 あまりに予想外だったのか、殿下は先ほどまでの切なげな表情の一切を忘れて、困惑したように私を見下ろしていた。この反応には、私も戸惑ってしまう。


「……僕が、君のことを嫌いと言ったことがあっただろうか」


「いえ、明確にそう仰ったわけでは……」


 でも、私が殿下のお傍に近寄ることを厭い、姿を見せるなと言った旨のあの言葉は、私のことが嫌いだからこその発言ではなかったのだろうか。勘違いと言うにしては、棘のある5年前の殿下のお言葉に、何度目か分からない痛みを感じる。

 

「まさか、エディの言っていた思い違いはこのことか……?」


 まるで独り言のような調子で呟くと、殿下は訝しむように私をまじまじと見つめる。


「……セレスティア、君は、僕の気持ちを察してくれていると言っていたが……それはつまり、僕が君を嫌っていると思っていたということか?」


「え、ええ……」


 まさにその通りだ。否定する理由もないので頷けば、殿下が大袈裟なほど深い溜息をついた。


「そうか……じゃあ、さぞかしこのところの僕の行動は不気味だっただろうな……。あろうことか口付けまでして……許されることじゃないな……」


 殿下は私に覆いかぶさるような姿勢から、ベッドの縁に腰かけると、軽く項垂れるようにして手で顔を覆った。私も体を起こし、豹変した殿下の態度が心配で彼の横顔を見つめてしまう。


「一つだけ言っておくが、僕が君を嫌うなんてありえない。絶対にだ」


 その認識だけ改めてくれ、と呟いて殿下は再び俯いてしまう。本当は、5年前のあの一件についても伺いたかったのだが、殿下の打ちのめされようをみて、機会を改めようと決意する。


 それにしても、殿下が私のことを嫌っているわけではないなんて。


 このところ、殿下が私に向ける感情は「嫌い」の一言で収まるものではなさそうだとは察していたが、そもそも殿下が私を嫌っておられない可能性については考えたことが無かった。それくらいに、私の中では5年前のあの一件は絶対的なものだったのだ。


 でも、嫌われていない。私は、誰より愛しい初恋の人に嫌われていないのだ。


 噛みしめるように心の中でそう繰り返せば、思わずにやけてしまうくらいには嬉しかった。好きと言われたわけでもないのに、天にも上るような幸福感を味わってしまう。


 嬉しいな、本当に。殿下が、私のことを嫌っておられないなんて。


 だらしなく緩む頬に手を当てれば、ふと、未だ打ちのめされたように項垂れる殿下の姿が目に入った。俯いておられるお陰で私のこの腑抜けた顔を見られずに済んでいるのはありがたいが、何だか放っておけない横顔だ。


「……殿下?」


 恐る恐る呼びかけてみても、殿下は全く反応を示されない。自己嫌悪の悪循環に嵌っているようで、心配でたまらなかった。こういう時に放っておくのは、あまりよくないはずだ。


 何とか、お顔を上げていただければいいのだけれど……。


 何かいい方法は無いものか、と考えを巡らせれば、不意に温室で殿下が言っていたことを思い出してしまう。何だか気恥ずかしいけれど、殿下に嫌われていないと知った今ならば、言える気がする。


 姿勢を正し、軽く息を整える。なんてことない、ごく簡単なことなのに、初恋の人を前にするというだけで何とも言えない緊張感が漂った。やっぱりやめようか、と直前になってまで迷い始める心を振り切って、意を決して口を開く。


「……エルドレッド様」


 殿下の名前を、そっと呟く。たったそれだけで、殿下の肩がびくりと震え、彼は驚いたように目を見開いてこちらを見ていた。その淡い青の瞳を見据えて、もう一度お名前をお呼びする。


「エルドレッド様」


 やっぱり、何だか気恥ずかしい。敬称もつけているから何てことないはずなのに、初恋の人の名前であると言うだけで、私の中では特別な響きを持っていた。


「……敬称はいらないよ」


 それは余計に恥ずかしいけれど、名前を呼んだだけで明らかに表情を明るくなさる殿下を見ていると、叶えたい、と思ってしまった。これはもう、場の雰囲気に任せてしまおう。


「……エルドレッド」


 言ってから、なんて恐れ多いことをしてしまったのだろう、と軽く俯いてしまう。加えて、大好きな人の名前を何度も呼んでしまったせいで頬が熱かった。


 寝室が薄暗くて助かった。きっと、今頃私の頬は真っ赤になっているだろうから。


「セレスティアが名前を呼んでくれるなんて……こんな嬉しいことはないよ」


 言葉通り、先ほどまでとは打って変わって晴れやかな声でそう告げると、殿下はそっと私の手を取った。顔を上げれば、幸せそうに微笑む殿下と目が合ってしまう。


 ああ、私が見たかった笑顔はそれだ。つい先ほどこの部屋の薄暗さに助けられたはずなのに、出来ればその笑顔をもっと明るい場所で見たかった、と、惜しく思ってしまった。


「これからは、ずっとそう呼んでほしい。何なら、エル、と呼んでくれてもいいんだ」


「……それはまだ恥ずかしいので、お名前をお呼びすることに慣れてからでもよろしいでしょうか」


「もちろん。名前を呼んでもらえるだけでも、夢みたいだ」


 そんな風に言われると、何だか気恥ずかしくてどんな表情をしてよいのか分からなくなる。思わず殿下からふっと視線を逸らしながら、そっと殿下の冷たい手を握り返した。


「……わかりました、エルドレッド」


 何事においても慣れが肝心だ。早速積極的にお名前をお呼びすれば、とろけるような甘い笑みを浮かべる殿下と目が合って、一層頬が熱を帯びる。


 だが、先ほどまでからは考えられないような安らかな殿下の表情に、気づけば私も頬を緩めていた。密室のベッドの上という状況なのに、手を繋いで笑い合うだけの穏やかさにも心が癒された。

 

 ……もしかしたら私は、殿下ともっと良い関係を築けるのかもしれないわ。


 少なくとも、殿下に嫌われていないことは確かなのだ。それだけで、胸のつかえがとれたような、確かな解放感に満たされる。


 諦めるしかないと思っていた初恋が、再び芽吹く予感に、私は一人胸を震わせたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る