第12話
ふう、と一息をついて読み終えたばかりのお伽噺をそっと閉じる。
幸せな結末が約束された物語というのは、意外性に欠けるのかもしれないが、やはり心穏やかに読めるという点で私は大好きだった。みんなが幸せになれるなんて、現実の世界ではありえないからこそ、お伽噺の中でくらいは夢見ていたい。
気づけばすっかり日は暮れて、どんよりとしていた外は一層薄暗くなっていた。ぱらぱらと雨音がガラスに打ち付ける音が響いている。
エディ様が持ってきてくださった本のお陰で、部屋から一歩も出ずとも一日を過ごすことが出来た。案外、私は幽閉生活にも耐えられるような性質の人間なのかもしれない。
「セレスティア様、ご気分はいかがですか?」
ただ、ナタリーはどうも私のことが心配でならないようで、少しでもぼんやりとしているとこうして声をかけに来てくれる。大袈裟な心配の仕方だが、この城の人々は皆過保護になりがちであることを考えると不思議はなかった。
「悪くないわ。この本も、とても面白かったの」
後でまたエディ様にお礼を言わなくては。そっと革張りの表紙を撫でながら決意を固めれば、ナタリーがどこか憐れむような眼差しで私を見守っていることに気が付いた。
「……どうかした? ナタリー」
なるべく穏やかに微笑みかければ、彼女もつられたように弱々しく笑う。
「いえ……セレスティア様は、このお城にいらしてから辛い思いをされてばかりだな、と。仮にもご婚約者様をお部屋に閉じ込めるなんて……殿下は、どうしてしまったのでしょう」
「……何かお考えがあるのよ、きっと」
そう誤魔化しでもしなければ、再び鬱々と考え込んでしまいそうだった。今の私に出来ることは、ただ殿下の訪れを待ち、この部屋の鍵が開かれる瞬間を待つことだけ。焦ったって仕方がない。
「それは……もしかして、レナード殿下に関係のあることなのでしょうか」
「レナード殿下に?」
意外な人物の名前が挙がったことに驚いてナタリーを見つめ返せば、彼女は白いエプロンのポケットから何枚かの小さな紙を取り出した。
「……ドアの隙間でメモをやり取りして、他のメイドたちから情報収集をしていたのですが……どうやら今この城に、レナード殿下がいらしているようなのです」
「そうだったの……」
ただ黙って待っているだけでなく、情報収集を試みるとは、やはりナタリーは有能なメイドだ。彼女の意外な手腕に感心してしまう。
「先ほど帰られたとのことですが、セレスティア様のことをとてもご心配なさっていたようです」
「それもそうね。このところ、全く連絡できなかったもの」
それどころか、エルドレッド殿下が「オリヴィア姫」の幻覚から目を覚ましたことすら知らなかっただろう。今日この城を訪れて、レナード殿下は酷く驚かれたはずだ。
「……セレスティア様は、その……叶うなら、レナード殿下の元へ行きたいと考えておられますか?」
「え?」
「もしそうなら……あたし、何とかしてセレスティア様が逃げ出す道を考えます。このままここで閉じ込められているセレスティア様は、とても見ていられなくて……」
指を組むように両手をぎゅっと握りしめながら、ナタリーは軽く俯いていた。確かに、ナタリーや他のメイドたちの協力を得られれば、この城から出ていくことはたやすいのかもしれない。
でも、私は殿下のお許しが出るまでこの城から出ていく気は全くなかった。殿下が私を罰したいとお考えであるのならば逃げるわけにいかないというのはもちろんだが、このところの私たちの間にあるらしい思い違いもこのままにはしておけない。この城から出ていくときは、全てが解決したときだ。
「あのね、ナタリー。私が恋をしているのは――」
エルドレッド殿下なのよ、と告げようとしたその瞬間、不意に、バルコニーの方でガタガタと物音がした。明らかに、雨音とは別の音だ。
「……何でしょう、見て参ります」
「……ええ」
ナタリーが表情を曇らせて、早速バルコニーの方へ駆けていく。彼女の後姿を追うように、私もまたバルコニーの方へ向かった。
ここは、お城の中でもそれなりに高い場所にある。階数としては3階に当たる場所だが、一つ一つのフロアの天井が高いので、実際のところどれくらいの高さなのか見当もつかなかった。
だからこそ、侵入者などは考えにくいはずなのだが、怪しげな物音が響いたバルコニーを見て私は自らの認識の甘さを恥じた。
そこには、黒い外套を羽織り、フードを目深に被った男がいた。ナタリーが震える手で口元を押さえている。あまりの恐怖に声も出ないのだろう。
もう日は暮れたとはいえ、夜も更けていないうちに賊が侵入を試みているのだろうか。ひやりとしたものを感じながら、真っ先にするべきことは何かと考えを巡らせたが、フードの隙間から覗いた赤髪を見て思い留まる。
思えば、すらりと背の高い、この恵まれた体格にも見覚えがある気がした。私はそっとバルコニーのガラス張りの扉の方へと近づき、突如として現れた侵入者をまじまじと観察した。
「セレスティア様! 危ないですからおやめくださいっ!」
ナタリーが背後から私の腕を掴んで必死に止めようとするが、ガラス越しにこちらの様子を窺う琥珀色の瞳を見て確信した。
「……大丈夫よ、ナタリー」
半身振り返って彼女に微笑みかけながら、私はバルコニーのドアを開けた。
「レナード殿下だわ」
「え、レナード殿下……?」
呆気にとられたような声を上げるナタリーを怯えさせないように、ゆっくりと黒い外套の青年を招き入れれば、室内に入るなり彼は外套のフードを下ろし、見事な赤髪を露わにした。
「……突然すまない、セレスティア嬢」
「……レナード殿下、どうしてこちらへ?」
ナタリーに何か拭くものを持ってくるように頼みながら、雨に濡れたレナード殿下のお顔を見上げる。エルドレッド殿下とはあまり似ていないけれど、相変わらず精悍な顔つきをされていた。見ようによっては少し威圧的に見えるかもしれない。
「君の姿が見えない上に、どれだけ粘っても面会の許可すら下りなかったから、最悪の事態を予想してきたんだが……そうか、生きていてよかった」
「心配してきてくださったのですか……?」
こんな雨の中、しかもこれほどに高いバルコニーまで。レナード殿下のお優しいお心に、胸を打たれる。
「でも、どうやってここまで……」
「これでも体だけは鍛えているからな。自分の城でも、どの部屋からも逃げられるように訓練しているんだ。この位の高さなら、何とか侵入できる」
王子様だというのに、大したお方だ。どのようにすればこの高さまで登りきることが出来るのか見当もつかないが、実際彼はそれをやってのけたのだ。半分呆気にとられるような気持ちで彼の琥珀色の瞳を見上げてしまう。
「エルドレッドは、どうやら幻覚から醒めたらしいな」
「はい、ご連絡できず申し訳ありません……」
「いや、いいんだ。何か事情があったんだろう。それにしても……なぜエルドレッドに閉じ込められているんだ? エルドレッドは君が婚約者であることが不満なのか?」
「初めはそう思っていたのですけれど……」
そう、初めはエルドレッド殿下が私をこの城に留める理由は、殿下を欺いた罪人である私に罰を与えるためだと思っていたのだが、このところの殿下の様子を見ているとどうも違う気がする。殿下からは明らかな執着が感じられるし、何より理由の分からない優しさも向けられている。
この状況は、どう説明すべきなのだろう。言葉に迷っていると、レナード殿下は小さく溜息をついた。
「いや、こんなこと君に訊いたって仕方ないな。昔から何を考えているのか分からない義弟だったが……近頃はますます行動が読めない」
ナタリーが運んできた清潔な白い布でわしゃわしゃと赤い髪を拭き終えると、レナード殿下は改めて私に向き直った。
「いずれにせよ、今、君が自由を奪われていることは確かなんだ。君たちの婚約を推し進めた立場としては、このまま見過ごすわけにはいかない」
随分と責任感の強い王子様だ。こんなお兄様がいたら心強いだろうな、などとどこか場違いな感想を抱きながら、レナード殿下の思惑を探るべく、琥珀色の瞳を見つめ続ける。
「セレスティア嬢、君は、どうしたい? もし望むなら、この城から連れ出してやることくらい容易いぞ」
「……このお城から?」
わざわざレナード殿下がこの部屋に来てくださった時点で薄々察してはいたが、どうやら彼は私をここから連れ出してくれるつもりらしい。傍目には、私は囚われの身にでも見えているのだろう。この状況だけを見れば無理はないのかもしれないが、私にとっては一も二もなく飛びつくほどの魅力的な提案ではなかった。
「セレスティア嬢が、エルドレッドのことを憎からず思ってくれているのは分かっている。でも……この状況じゃ、悪い方向に行く気がして心配だ。一旦距離を置いて、俺を通して二人の婚約について改めて話し合う方が建設的だろう」
確かに、その方が私とエルドレッド殿下の婚約の行く末についての話は進めやすいのかもしれない。レナード殿下の仰ることはもっともだった。
「あいつが取り返しのつかないことをするような奴だとは思っていないが……今日のエルドレッドを見ていたら何だか不安で仕方が無かったんだ。もしかしたら君は既に亡き者になっているのかもしれないと思うくらいには……危うげなものがあった」
レナード殿下はエルドレッド殿下の瞳に翳りを見て、そう思ったのだろうか。私はもうすっかり慣れてしまったので、今更怯えるようなことも無いのだが、そうか、傍から見れば殿下は思い詰めているように見えるのか。
「悪いことは言わない。ここから出よう、セレスティア嬢。俺だって、二人の婚約はこのまま継続してほしいと思っているが……君に何かあってからじゃ遅い。一旦距離を置けば、あいつも少し落ち着くだろう」
それについては賛成しかねた。エルドレッド殿下がどんな思いで私に執着なさっているのかはよく分からないが、このタイミングで殿下のお傍を離れたらきっとこの関係は悪化する。それこそ、レナード殿下が想像する最悪の事態に繋がるきっかけになってしまうかもしれない。
こんな雨の中、私を心配してきてくださったレナード殿下の厚意を踏みにじるようで心苦しいが、私は迷うことなく彼の琥珀色の瞳をまっすぐに見上げた。
「……折角ですが、私はここに留まります」
柔らかく微笑んだつもりだったのだが、どこかぎこちのないものになってしまう。それを見たレナード殿下の表情がますます曇るのが分かった。
「エルドレッド殿下と、お約束したのです。このお城から出ていくような真似はしない、と。それを守っている限り、私の身は自由なのだと殿下は約束してくださいました」
半ば脅迫のような約束の仕方であったが、約束は約束だ。今日という例外はあったが、この数日間、エルドレッド殿下が私を無理に閉じ込めようとする素振りはなかった上に、殿下を信頼している気持ちの方が勝っていた。
「……セレスティア嬢」
「ご心配おかけして申し訳ありません。大丈夫、レナード殿下のご心配なさるような事態にはなりませんわ。エルドレッド殿下はとてもお優しい方なのですから」
以前は罪人として処刑されるのではないか、と恐れていた私が言うのも妙な話だが、このところのエルドレッド殿下のご様子を見ていると、少なくとも私の命を無闇に奪うような真似はなさらないのではないか、と思っていた。だから、レナード殿下の考える最悪の結末を迎えることは無いはずだ。
「……あなたの意思は固いんだな」
レナード殿下は、納得のいっていないような表情を浮かべたが、確認するようにじっと私の瞳を覗き込んだ。
「はい、私はエルドレッド殿下を信じておりますから」
今度こそ、穏やかな笑みでそう告げれば、レナード殿下は小さく溜息をついて、黒い外套のフードを被り直した。
「セレスティア嬢がそこまで言うのなら、俺の出番はないな。生きていることを確認できただけでも、一安心だ」
レナード殿下は濡れた髪を拭いた布をナタリーに手渡すと、バルコニーへの扉に手をかける。
「……定期的に訪ねるようにはするが……何かあったら、メイドを使うなり何なりして知らせてくれ。俺はいつでもセレスティア嬢の助けになるつもりでいる」
「ありがとうございます、心強いですわ」
レナード殿下を見送るように、私もバルコニーへと躍り出る。ぱらぱらと雨粒が体に跳ねたが、部屋の中に一日閉じこもっていた身としては心地よい程度の雨だった。
「雨に濡れる、見送らなくていいからもう部屋の中へ戻れ」
「いえ、せめてこのくらいは。どうかお気をつけてお帰り下さいませ」
雨の中で、ドレスを摘まんで礼をすれば、ふ、とレナード殿下が笑う気配がした。
「……ああ、セレスティア嬢もな」
その瞬間、ばさり、と外套が雨になびく音に顔を上げれば、既にレナード殿下の姿は無かった。驚いてバルコニーの下を見下ろせば、レナード殿下は他の階のバルコニーやら、お城の装飾部分やらを利用して、素早く地面に降り立つ最中だった。
王子様とは思えぬ身体能力の高さに、思わず感心してしまう。護身のために鍛えていらっしゃるとのお話だったが、これは騎士顔負けの強さではないだろうか。
レナード殿下の護衛騎士は腕の振るい甲斐が無くてがっかりしているかもしれないわね、なんて思えば、思わずふっと笑みを零してしまった。レナード殿下のことだ、むしろ騎士に混じって一緒に訓練したりしているのかもしれない。
バルコニーから乗り出した身を戻し、雨の中で姿勢を正して空を見上げれば、頬を雨粒が伝っていった。冷たくて、心地が良い。ドレスを濡らしてしまったが、実家から持ってきたものなのでそれほど心は痛まなかった。
ナタリーにはいろいろと迷惑をかけてしまったわね、と内心反省しながら部屋の中へ戻ろうと踵を返したとき、一瞬、心臓が凍り付くような衝撃に見舞われた。
「っ……エルドレッド殿下?」
バルコニーの隅、私室へ繋がる扉の前で、エルドレッド殿下が雨に濡れることも厭わずに、濡れた白銀色の髪の隙間から、翳った淡い青の瞳でこちらを睨んでいたのだ。
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