第11話

 温室での穏やかなひと時を過ごした日から更に数日が経とうとしていたころ、私は私室でエディ様からおすすめの本について伺っていた。


 温室から戻った後も、あまり私室から出ないようにしているため、心配したエディ様が時折こうして訪ねて来てくださるのだ。近頃は、エディ様おすすめの本を持ってきてくださるのが常だった。


「あまり暗いお気持ちになるのも良くありませんから、お伽噺や童話集なんかもいいかもしれませんよ。こういうときに複雑なお話を読んでは心が疲れてしまうでしょうから」


 エディ様が持ってきてくださったのは、子どものころ読んだお伽噺の原作や童話集がまとまった分厚い本だった。こういったものは、いくつになっても面白く、新たな発見があるものだ。今日はこれを読んで一日を過ごそう、とそっと表紙を指先でなぞる。


「ありがとうございます、エディ様。いつも申し訳ありません」


「いや……こんな状況になるのを止められなかったことに、私も責任を感じておりますので」


「エディ様が?」


 いくら殿下のお医者様だと言っても、エディ様が責任を感じるようなことは何一つないはずだ。殿下とは対照的な黒髪の隙間から覗く深緑の瞳をじっと見つめれば、エディ様はどこか気まずそうに口を開いた。


「以前、図書室でセレスティア様から殿下についてのご相談を受けた後……私なりに殿下にご忠告差し上げたんです。お二人の間には、何か思い違いがあるようだと」


「それは……私も薄々感じておりました」


 私と殿下の間にある、なんらかの認識のずれ。第三者の立場であるからこそ、エディ様はいち早く気付けたのかもしれない。彼は小さく溜息をつくと、ちらりと窓の外を見つめた。今日の空には、どんよりとした厚い灰色の雲が広がっている。


「だから、もう一度ちゃんとセレスティア様と話し合ってみてくださいとお伝えして、晩餐会を開いたところまでは良かったのですが……。その翌朝にはあなたを私室に閉じ込めようとするなんて……」


 正直、これは私にもお手上げです、とエディ様は深刻そうに再び溜息をついた。きっと、あの晩餐会の夜に殿下が私に口付けたことまでは知らないのだろう。エディ様が見ていたのは、穏やかな晩餐の光景だけなのだから、翌日に私たちの関係性が悪化していたら匙を投げたくなる気持ちも分かる。


「殿下は、随分執着気質なお方のようですね。3年以上お傍におりますが、このような一面は初めて見ました」


 何と答えてよいか分からず、私は曖昧な笑みを浮かべたまま、ナタリーが用意してくれたハーブティーを口に運んだ。少しぬるくなってしまっているが、爽やかな口当たりにほっとする。


「私たちのために、心を砕いてくださってありがとうございます、エディ様。でも……私は大丈夫ですわ。エディ様は、殿下のお味方であってくださいませ」


「そういう訳にも行かないと言いたいところなんですが……どうも私がセレスティア様のお部屋をこうして訪ねるのも良く思われていないみたいでしてね。セレスティア様のお部屋から戻ると、毎回私を睨んで来るんですよ、あの王子様」


 何度目か分からない溜息をついて、エディ様もハーブティーを口に運んだ。どことなく疲れているような横顔に、ますます申し訳なさが募る。


「それなら、無理して足を運ばれることはありませんわ。エディ様からおすすめしていただいた本はまだありますし、いざとなれば自分で図書室へ行けますもの」


「そう言って、滅多にお部屋から出て来ないではありませんか。これでも、私はセレスティア様の御心を心配して――」


 その瞬間、私室にノックの音が響き渡る。ナタリーがすぐさま扉の方へ向かうが、この絶妙な間の取り方のノック音は扉を開けるまでもない。殿下がいらっしゃったのだ。


「……殿下がいらしたようですわ」


 扉の方に注目していたエディ様は、私の言葉に再び向き直ると、深緑の瞳に何とも言えぬ憐みの色を浮かべた。


「……ノックの音だけで殿下の訪れが分かるのですか。何だか、ますますあなたが憐れでなりません」


 言葉通り可哀想なものを見るような目でエディ様は私を見つめていたが、私はただ微笑み返すことしか出来なかった。もともと、ノックの音で誰がやって来たのか聞き分けるのは得意な方なのだ。特別憐れまれるようなことでもない。


「セレスティア」


 ナタリーが私に知らせるよりも先に、エルドレッド殿下が入室してくる。私は席を立ち、深い青のドレスを摘まんで慎ましく礼をした。


「エルドレッド殿下、おはようございます」


「……エディもいたのか」


 どことなく不機嫌そうな声で呟けば、私と同じく頭を下げたエディ様が溜息交じりに言い訳をする。


「……お部屋に引きこもりがちなセレスティア様のために、簡単な読み物をご紹介していただけですから」


 これだから嫉妬深い男は嫌ですね、とエディ様は溜息交じりに呟く。独り言にしては大きなその声は恐らく殿下にも届いていたと思うのだが、殿下は特別反応を示すことも無く、そっと私の肩に触れた。


「今朝も変わりはないかい、セレスティア」


「はい、おかげさまで」


 無難な答えを返せば、殿下はふっと微笑みながら私の髪を耳にかける。近頃、殿下が私によくする仕草だった。


 朝食を終えたこの時間は、いつもならば殿下はお仕事をなさっている時間帯だ。珍しいこともあるものだ、と殿下の端整なお顔を見つめていれば、殿下はどこか気まずそうに視線を逸らしてしまう。淡い青の瞳に宿る翳りは相変わらずで、物憂げな横顔が妙に印象的だった。


「……セレスティア、悪いけど、今日はこの部屋から出ないで貰えるかな」


「……この部屋から、ですか」


 このところの行動範囲は専ら部屋の中だけだったので、特別困ることは無いが、殿下から言い渡される制限がお城の中から部屋の中に狭まったことには、胸騒ぎを覚えた。


 知らずの内に、何か殿下のお気に障るようなことをしてしまっただろうか。その不安から殿下のお顔を見上げていると、殿下はちらりと私を一瞥したが、すぐに顔を背けてしまう。


「……今日だけでいい、鍵も掛けさせてもらうが……」


「殿下、それはあまりにもセレスティア様が――」


 私を庇うように声を上げたエディ様だったが、殿下の淡い青の瞳に射殺さんばかりに睨まれ、口を噤んでしまった。怒っているわけではないのだろうが、今日の殿下はどことなく不機嫌な感じがする。


「……殿下、私は何かしてしまったのでしょうか。お城から逃げ出さない、という約束を守っていたつもりだったのですが、何か誤解させるようなことを――」


「――いや、セレスティアは何も悪くないよ。約束を破るようで心苦しいけど、今日だけはこの部屋でおとなしくしていてくれ。必要なものがあれば、いつも通り使用人に頼むように」


 私の言葉を遮るようにそう言い切ると、殿下は一度だけ私の頬を撫でる。その口元は微笑んでいたが、どこか心苦しいような、浮かない笑い方だった。


「……殿下?」


 私の呼びかけに答えることも無く、殿下は踵を返すとさっさと扉の方へと向かってしまう。その後ろ姿を、エディ様が慌てて追いかけていった。

 

 一体、何があったのだろう。完全に締め切られた扉から、ガチャリと鍵のかかる音が響くのを耳にしながら、私はどこか茫然と殿下の立ち去った後の空間を見つめていた。


「セレスティア様……」


 部屋の隅で様子を窺っていたらしいナタリーが、私に同情するように眉を下げて駆け寄ってくる。


 別に、不便はない。エディ様に持ってきていただいた本もあることだし、暇を潰す分にも何ら問題は無かった。


「大丈夫よ、ナタリー。いつも通り過ごすだけだわ」


 口ではそういったものの、胸騒ぎが止まないのは事実だった。どうして、殿下は突然私を閉じ込めるような真似をしたのだろう。そんな疑問に思考を支配されそうになる。


 だが、考えたところで答えが出る訳もない。私に出来ることは、殿下のお許しが出るまでこの部屋でおとなしくしているだけだ。


 今にも雨が降り出しそうな空を見上げながら、私は小さく溜息をついた。雨が降ってしまったら、バルコニーに出て外の空気を楽しむことも叶わない。


 何とも言えない息苦しさを紛らわすように、私はすっかり冷めてしまったハーブティーを飲み干した。同じ味のはずなのに、先ほどよりも全然美味しくない。


 私の心模様を表したようなどんよりと曇る空から目を逸らす。何だか、胸の奥がもやもやとして落ち着かない。それを誤魔化すように、私はエディ様が持ってきてくださったお伽噺に没頭したのだった。

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