第10話

 それから数日。


 殿下のあの反応からして、しばらくは私室からも出ない方が良いだろうという自己判断のもと、部屋に引きこもっていたのだが、不意に殿下に散歩に行こうと誘われ、数日ぶりの外を満喫しているところだった。


 殿下が散歩の目的地に選んだのは、この間中止にせざるを得なかった散歩で向かおうとしていた温室だ。ガラス張りのちょっとした家といった大きさの温室の中には、あらゆる種類の花々が咲き乱れていた。


 優秀な庭師がいるのだろう。どの花も、見事に咲いている。蕾のままの花もいくつかあるが、一見すれば咲いている花の方が多いように見えた。


 これは、図らずも良い時期に足を運んだのかもしれない、と数日ぶりに心が癒されるのを感じる。甘い花の香りを胸一杯に吸い込めば、自然と頬が緩む気がした。


「……セレスティアは、花が好きなんだね」


 エスコートするように私の手を取った殿下は、私の笑みにつられるようにしてふっと笑う。数日前に見せたあの翳りは今も健在だが、久しぶりに見る穏やかな笑顔だった。


「はい、見るのも、育てるのも好きです」


 実家にいる頃には、庭作業を少し手伝ったりもしていた。もっとも、育てると言ったって、没落寸前とはいえ侯爵令嬢だった私にさせてもらえたことは、花に水をやるだとか、余計な蕾を摘むだとか、綺麗な部分ばかりだけだったので、一から育てるとなると難しいだろう。


「そうか……。何か好きな花があるなら、取り寄せようか?」


「いえ、そこまでしていただくわけには……」


 殿下のその優しさが、今の私には何ともつらい。その優しさに隠された感情は何なのだろう、とこの数日間ずっと考え込んでいる。


 私を部屋に軟禁することを仄めかしたあの時の発言からして、何となく、殿下が私に抱いている感情は良くも悪くも「嫌い」というものには収まらないような気がしていた。


 執着を見せるほどに私をこの城に留めようとするからには、恐らく私の何かが殿下のお心に留まっているのだろうし、その目的のためならば私の心を踏みにじっても良いと考えているような素振りを見せるあたりには、やはり憎悪にも似た感情を想定せざるを得ない。


 大嫌いなはずの私の何が殿下のお心に留まっているのか、私なりに考えてみたが、強いて言えばこの銀の髪と青い瞳なのではないだろうかというのが私の中では有力だった。


 そう考えれば、私にドレスや装飾品を贈ってくださる理由にも一応の納得がいく。銀の髪を映えさせるために、それなりの格好をしろということなのだろう。殿下の昔話に照らし合わせれば、やはり私は殿下にとって収集品の一つのようなものなのかもしれない。

 

 いつか、蝶の標本や御伽噺と一緒に誰の目にも触れない場所に閉じ込められてしまうのかしら、と思うと僅かに恐怖を感じるのは確かだったが、それでも、曲がりなりにも初恋の人の手元に置いてもらえるのなら、と思う気持ちがないわけではない。


 案外、私の初恋は重いわね、と思わず笑みが零れる。それくらいに、殿下に恋焦がれているのは事実なのだ。たとえ部屋に軟禁することを仄めかされようと、簡単に嫌いになれるような場所には、既に私はいなかった。


「……セレスティアは、寂しい笑い方をするんだね」


 不意に殿下の指先で頬を撫でられて、ゆっくりと彼の淡い青の瞳を見上げる。かく言う殿下こそ、とても寂し気な微笑みで私を見下ろしていた。


「君にそういう表情をさせてしまっているのは恐らく僕が原因なんだろうが……ごめん、それでもこの間言ったことは変わらないよ。僕は君をこの城から逃がしてやれない。ごめんね、セレスティア」


 誠実な謝罪をされると、ますます殿下のお考えが分からなくなってしまう。心の中でもやもやと燻る疑念が深まっていく。


 本当は思い切って、「どうして大嫌いな私にそのように優しくしてくださるのですか?」と訊きたい。そもそも、5年前のあの夕暮れに私に暴言を吐いた理由は何なのかと問い詰めたい。それはずっとずっと願っていることだった。


 でも、いざ殿下を前にすると問い質せない。これ以上傷つくことが怖くて、言葉が出て来ない。


 このままではいけないと分かっているものの、今の殿下の歪な優しさに甘えているほうがずっと気が楽で、ついつい流されてしまう。もう少し心を強く持たなければ、と反省ばかりが深まって、なかなか前進しないもどかしい日々だ。


「……でも、君にそんな表情をさせているのが僕だと思うと、どこか嬉しく思うのも事実なんだ。君の表情の全てが欲しい。君が泣くのも笑うのも、全部の原因が僕であればいいのにな……」


 捉えようによっては熱烈な愛の言葉ともとれる台詞に、戸惑うように殿下を見上げてしまった。相変わらず歪んだ熱を帯びた翳りは、淡い青の瞳の中で揺らめいていて、一度目を合わせると逸らせなくなる。


「……君に出会うまで、僕は自分がこんなにも歪んだ人間だなんて知らなかったよ」


「歪んでいるだなんて、そんな……」


 あまりに自嘲気味な言葉を聞き流せなくて、思わず否定するように首を横に振ってしまう。殿下はそんな私を見て、やっぱりどこか愁いを帯びた笑みを見せた。


「部屋に軟禁されかけているこの状況で、よく僕を庇えるね。寛容とかそういうのを通り越して、心配になるよ」


 それは、私に非があると自覚しているから諦めているためであり、私を軟禁しようとする張本人が初恋の相手であるからだ。見ず知らずの相手に軟禁されようとしていたら、全力で抗って今頃どうにかして逃げ出しているに決まっている。


「心配で心配で仕方ないから、やっぱり、セレスティアをこの城から出すわけにはいかないな」


 なんて、ちょっと言い訳じみているね、と笑う殿下の顔を見ていると、何とも言えぬ切ない気持ちが湧き起こってきた。


 殿下はどうも、私がこの城にいることは全くの不本意であると思い込んでいるようだが、殿下のお気持ちも私たちの間の事情も何もかも無視すれば、殿下のお傍にいたいというのが私の本来の願いであることを考えると、このすれ違いには何だか胸が痛んでしまう。


 殿下のお言葉を借りるわけではないが、殿下にそんな寂しい表情ばかりさせているのはひょっとすると私のせいなのかもしれない。そう思うと、気づけばぽつりと呟きを零していた。


「……殿下のお傍にいる毎日は、とても楽しいです。この城で過ごす毎日だって、辛いことより幸せなことの方が多いですわ」


 近頃は別として、この二か月ほどの全体を通して考えれば嘘ではないだろう。殿下への恋を自覚した向日葵の迷路も、お茶会を繰り返した部屋も、夢のような晩餐会を開いたあの広間も、すべてこの城の一部なのだから、この場所には幸せな記憶の方がきっと多い。


「……気を遣わせてしまっただけなのかもしれないが、君にそう言ってもらえるととても嬉しい」


 殿下の指先が、そっと私の手に触れる。見上げた殿下の表情は、先ほどまでよりいくらか晴れ晴れとした表情で、切なさの名残はあるものの、言葉通りの明らかな喜びが窺える笑みだった。


 たったあれだけの私の言葉で、そんな風に嬉しそうに笑うなんて。


 勘違い、しそうになってしまう。初恋の相手にこんな反応をされたら、誰だって自分は大切に想われているのではないかと妄想を抱いてしまうだろう。


「……抱きしめても、いいだろうか」


 恐る恐ると言った様子で訪ねて来る殿下は、執着を見せたときのあの横暴な態度からは考えられないほどの健気さで、思わず母性のようなものがくすぐられてしまう。


 分かっていてやっていることではないのは明らかなのに、惜しみなくご自分の魅力を振舞う殿下を前に、どこか恨めしい気持ちを抱いてしまった。そんな風に真摯に頼み込まれて、殿下に恋している私が断れるわけがない。


「……はい」


 その返事を聞き届けるなり、殿下はそっと私を抱き寄せた。身長差があるせいで、殿下の肩に頭を寄りかからせるような形になってしまう。私の背後に回った殿下の腕に、骨が軋みそうなほどにきつく抱きしめられる。


 まるで縋りつくようなその抱擁に、ほんの少しの憐れみと、愛おしさが募っていく。エルドレッド殿下はとても寂しいお方だ。きっと、孤独を癒す術を長い間探し続けておられるのだろう。


 そして、少なくとも今この瞬間、殿下の孤独を癒して差し上げられるのは、多分、私だけだった。


 そう思えば、自然と私も殿下の背中に手を回してしまう。殿下ほど強い力ではなく、背中に手を添えるだけのほんのささやかなものなのだけれども、彼は息を呑むようにして明らかな戸惑いを見せていた。


「っ……それは反則だ、セレスティア」


 やはり、私が殿下を抱きしめるのは良くなかったようだ。ごめんなさい、と口を開きかけるも、殿下の胸に顔を埋めるように後頭部を押さえつけられてしまったので、断念する。


 どれくらい、そうしていただろう。殿下は苦しいほどに私を抱きしめたまま、切なげな声で、ある願いを口にした。


「セレスティア……もしよければ、僕を名前で呼んでくれないか」


 それは、何もかもを手に出来るはずの王子様が願うには、あまりにも小さな望みのはずなのに、決して叶わないことを口にするかのような切実さが漂っていた。


「今すぐに、というわけではない。本当に、君の気が向いたらで構わないんだ。君から自由を奪っておいて、名前の呼び方まで強制するつもりはない」


 それほどまでに、私に名前を呼んでほしいのだろうか。そう思うと、初恋のときめきばかりを感じていた頃と同じような、温かな何かが胸の奥に広がっていく気がする。


 やはり、殿下が私に向ける感情は「大嫌い」の一言で済むようなものではないのだろう。


 私たちの間には、何か思い違いがあるのだろうか。相変わらず、殿下の御心は読めないままだけれど、いがみ合うだけの二人が交わすには、温かで穏やかすぎる抱擁に酔いしれながら、私はそっと殿下の心臓の音に耳を澄ませたのだった。

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