第9話
「……殿下」
偶然鉢合わせたのは、今日も今日とて消え入りそうなほど淡い色彩を持ち合わせたエルドレッド殿下だった。私も薄紫のドレスを摘まんで、敬意を示す。
「……おはようございます、エルドレッド殿下」
いざ殿下に顔を合わせると、どんな表情をしてよいのか分からない。だからこそ、敬意を示すために腰を折ったこの状況に私は救われていた。
「セレスティア……どこかに出かけるのか?」
「……少し、庭を散歩しようかと」
顔を伏せたまま殿下の質問に答えていると、不意に肩に殿下の手が置かれた。たったそれだけで、昨晩のことを思い出してしまって、大袈裟なくらいに肩を震わせてしまう。
「……昨日は、済まなかった。本当に。どうしてあのようなことをしてしまったのか……本当に後悔しているんだ。無かったことにできたら、どんなにいいか……」
後悔している?
その一言が、信じられないほど鋭く胸の奥に突き刺さるのを感じた。
……そう、昨夜のあの一件は、殿下にとっては後悔するようなものだったのね。
殿下に嫌われていることを考えればごく自然のことだというのに、どうしてか胸の奥が張り裂けそうなほどに痛んだ。逃げ出したのは私の方なのに、随分と自分勝手な心だ。
確かに、突然口付けられて驚いた。抗えないことが怖くもあった。
でも、それ以上にあの口付けは、私にとっては初恋の人との初めての口付けで、恋焦がれる人の熱を初めて知った、かけがえのない瞬間でもあったのだ。
それを、殿下に後悔していると言われたことが、何だかとても悲しくてならなかった。殿下にとっては、やり直せるものならば無かったことにしたい汚点であるのだと知って、このところ殿下に優しくされて舞い上がっていた心が凍てつくようにきりきりと痛む。
よく考えれば、当たり前のことなのに。殿下にとって、私は罪人同然の令嬢。たまたま昨夜はそういう気分になって、目の前にいた私に口付けてしまっただけ。それだけなんだ。もしかすると、嗜む程度に飲んだお酒のせいもあったのかもしれない。
初恋を踏みにじられた、というにはあまりに身勝手な気もするけれど、似たような感情に心が支配されていくのが分かった。じわりと滲んだ涙を悟られないよう俯いたまま、私は震える声で言葉を絞り出した。
「……忘れます」
「え?」
「昨夜のことは、全部……全部忘れます。無かったことにしてくださって結構です」
「セレスティア?」
戸惑うような殿下の声にも、顔を上げられない。私はただ自分の手をぎゅっと握りしめて、胸の痛みと勝手に舞い上がっていたことへの恥ずかしさに耐えた。
「セレスティア、怒っているのか?」
殿下の声には、明らかな焦りが滲み出ていた。まるで私の機嫌を伺うようなその素振りに、勘違いしそうになる。殿下に大切にされているのではないかという、夢のまた夢にも及ばないような幻想を抱かせる。
「本当に、済まないことをした。さぞかし怖かっただろう、ごめん、ごめんセレスティア……」
殿下のその優しさが、誠実な謝罪が、何より昨日の口付けは過ちだったのだと証明しているようで、これ以上聞いていられなかった。思わず殿下の手から逃れるように後退ってしまう。
「もう……もう結構です。忘れると申し上げましたでしょう? この話は、それでおしまいではいけませんか?」
この言い方は卑怯だ、と頭のどこかでは分かっている。一方的に話を終わらせようとしているのだから。でも、自分のずるさを分かっていても尚、今はこれ以上殿下と向き合っていたくなかった。
「……触れるのも厭うほどに僕が嫌か、セレスティア。少しは近づけていると感じたのは……僕の勘違いだったようだね」
「これ以上、私に近付いてどうなさるおつもりですか? それほどに、私の心を弄ぶのは殿下のお気に召したのでしょうか」
ああ、嫌だ。大好きな人にこんな棘のある言葉を投げかけてしまう私は、なんて弱いんだろう。言った傍から後悔しているのに、凍てついた心は醜い言葉を次々に生み出してしまう。
「これが殿下を欺いた私への罰だというのなら、甘んじて受け入れましょう。でも、そうではないのなら……もう、私の心に触れないでください。放っておいてください」
涙に滲んだ目で睨むように殿下を見上げれば、彼の淡い色の瞳がひどく戸惑うように、そしてどこか寂し気に揺れるのが分かった。ああ、どうして大嫌いな私に対してそんな表情をするのだ。胸が締め付けられてどうにかなりそうだ。
もう、これ以上は耐えられない。涙が零れる前に殿下の前から立ち去りたい。その一心で、私は殿下に一礼すると、ナタリーに「行きましょう」とだけ告げて足早に立ち去ろうとした。
だが、その目論見は背後から伸びてきた殿下の腕によって阻まれてしまう。痛いほどに腕を掴まれ、僅かな驚きと怯えと共に殿下を見上げれば、彼は酷く翳った瞳で私を見下ろしていた。
「どこへ行くんだ?」
「オリヴィア姫」の幻覚を見ていた時とはまた違う、歪んだ熱を帯びたその瞳の翳りに背筋がぞわりと粟立つ。怒らせた、だとか、そう言った一言で表せる感情の一線を越えてしまったような気がして、自業自得だと分かっていても身が竦んでしまう。
「……散歩へ。もちろん、お許しが出るのなら、このまま出ていきますけれど」
「駄目だ、出ていくことは許さない。……散歩にも行くな」
殿下にしてはあまりに横暴な言葉だと目を見開いたのも束の間、ぐいと殿下に引き寄せられてしまう。そのまま半ば強制的に、私室へと押し戻されてしまった。
「……殿下?」
ぱたり、と扉が閉じる寸前に、不安げに私たちの様子を窺うナタリーと目が合った気がした。彼女は今も廊下にいるので、この部屋には私と殿下の二人きりだ。
何とも言えぬ気まずさに視線を泳がせていると、不意に殿下が笑みを含んだような穏やかな調子で口を開いた。
「……昔から僕は、一度好きになったものはずっと好きな性質でね。中でも殊更に気に入ったものは、誰の目にも触れないように大切に大切にしまい込むのが癖だった」
突然に昔話を始める殿下の笑みは、どこか自嘲気味で、仄暗い。だがその陰鬱な雰囲気が、一層殿下の顔立ちの端整さを際立たせていた。思わず身震いするほどに美しい笑みというのは、まさにこういうものを言うのだろう。
「それは長い長い御伽噺の本であったり、蝶の標本であったり、年齢によってその時の興味は様々だったけど……」
笑みを深めた殿下の手が、そっと私の頬を撫でる。緊張を強いる殿下の笑みを前にして、私は全く身動きが取れなくなっていた。先ほどまでの可愛げのない刺々しさすらも、すっかりどこかへ行ってしまったようだ。
「君を収集品のように扱うつもりはないと言ったが、あれは撤回するよ。……誰かをしまい込みたいと思ったのは、君が初めてだ、セレスティア」
殿下に追い詰められるようにして、気づけば私はソファーの上に座り込んでいた。翳りのある表情で笑う殿下から目が離せないまま、僅かに指先が震える。逃れようのないような執着を宿した殿下の淡い青の瞳が、今だけは怖くて仕方が無かった。
殿下は、そんな私ににこりと笑いかけると、私に視線を合わせるように屈みこむ。殿下の左手の指が、膝の上に置かれた私の右手に絡んだかと思えば、彼はゆったりとした仕草でくすんだ金色の鍵を取り出した。
「……この部屋にはね、鍵があるんだよ。外側からかけられる鍵がね」
まるで小さな子供に言い聞かせるような調子で、殿下は穏やかに笑った。その鍵というのは、今、殿下が手にしておられる金色の鍵のことだろうか。
「だから、君をしまい込むのはとても簡単なことなんだけど……君は蝶の標本でも御伽噺でもない、生きている女の子だからね。そんな酷いことはしたくない」
右手に絡められた殿下の指が、まるで鎖のように冷たかった。私はただ言葉もなく、目の前で信じられないほど端整な微笑みを浮かべる初恋の人を見つめることしか出来ない。
「君だって、この城の中さえ出歩けなくなるのは嫌だろう? もう二度とこの部屋から出られない生活なんて、望むはずがないよね?」
考えるまでもない。私は殿下に促されるままに、ぎこちなくこくんと頷いた。
「……じゃあ、もう二度とこの城から出ていくなんて言わないでくれるかな。それが約束できるなら、今日の所はこの鍵を使わないでおいてあげるよ」
一見譲歩しているように聞こえるが、それは殆ど脅迫だった。裏を返せば、この城から出ていくと言ったり、その素振りを見せれば、この鍵を使って私をこの部屋に軟禁するつもりなのだろう。
「……ほら、約束できるよね? もう二度と、僕の前から逃げ出そうとしないって。ね? セレスティア」
当然ながら、私に選択肢などない。あまりに衝撃的なことを言われ続けているせいで、どこかぼんやりとした意識のまま、私はぽつりと呟いていた。
「……約束、します」
震えるような、情けないほどに弱々しい声だったのに、殿下はどこか満足そうに笑みを深めると、指を絡ませた私の手にそっと口付けを落とした。
「ありがとう、セレスティア。分かってくれて嬉しいよ」
瞳の翳りはそのままに、どこか上機嫌に微笑む殿下の姿は、どうしようもなく不安を煽った。
私が、言いすぎたのだろうか。あまりに棘のある言葉ばかり投げつけてしまったから、殿下を傷つけてしまったのだろうか。
……あるいは、これが殿下の本性なのかしら。
殿下はようやくかがみこんだ姿勢から立ち上がると、頬にかかった私の髪を耳にかけて、そっと顔を寄せる。そして、くすんだ金色の鍵を上着にしまい込む様をあからさまに見せつけながら、笑うように囁いた。
「……信じてるよ、セレスティア」
言葉通りに受け取れば、それは信頼の証なのだろうが、この状況のせいで脅し文句にしか聞こえない。今にも震えだしそうな指先をぎゅっと握りしめながら、どうしてこのような事態になってしまったのか、とぐるぐると考えを巡らせた。
でもやっぱり、答えは出ない。思わず縋るように殿下を見上げれば、彼はとても満足そうに仄暗い笑みを見せるばかりだった。
やがて殿下の後姿が扉の先へ消えていったのと入れ替わるようにして、ナタリーが部屋に飛び込んできたが、茫然としてしまった私は彼女に何も言えずにいた。それがますますナタリーの不安を煽ったようだが、昨夜同様、今の私には彼女の心を思いやれるような余裕はなく、ただただぼんやりと、たった今殿下に言われたことを脳内で繰り返すことしか出来なかった。
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