第8話

 僅かに開け放たれた窓から、爽やかな風が吹き込んでくる。


 私は薔薇の花弁を浮かべたお湯に浸かりながら、ナタリーがくしゅくしゅと髪を洗ってくれる感覚に身を委ねていた。頬に当たる朝の風が心地よい。


 夢のような晩餐会から一夜明け、昨夜ろくな身支度もせずに眠ってしまった私のために、ナタリーが朝からお湯の準備をしてくれていた。香りのよい薔薇の花弁まで浮かべて、まさに至れり尽くせりだ。


「セレスティア様の御髪はとても美しいですね。羨ましいです!」


 いつも通りの明るいナタリーの声が降ってきて、私は束の間の平穏に思わず頬を緩めた。薔薇の花弁をお湯ごとそっとすくいながら、私は軽く彼女の方を見上げる。


「ありがとう、私もあなたの癖のある赤毛が好きよ。とても優しい色をしているわ」


「セレスティア様に比べたら、あたしの髪なんて……」


 ナタリーは冗談を言われたとでも言わんばかりにけらけらと笑っていた。本心だったのだが、どうもうまく伝わらなかったようだ。


「セレスティア様のご家族も、白銀色の御髪をお持ちなのですか?」


 心地の良い温度のお湯で、髪がすすがれていく。ナタリーの手から零れ落ちた髪が一筋湯船の上に浮かんだ。私はそれを摘まみ上げ、まじまじと観察する。


「お父様やお祖父様はこれに近い灰色の髪なのだけれど……白銀色というのは、私の曾祖母に当たる方――マレット侯爵家の先々代の侯爵夫人以来らしいわ」


 私には3歳年下の弟がいるが、彼もお父様と同じ灰色の髪だ。お母様は美しい金色の髪をお持ちだけれど、残念ながらその色は私にも弟にも受け継がれなかったらしい。


「血というものは不思議ですね。見た目はあんなに赤いのに、白銀色や灰色まで継いでいくなんて!」


 そのように捉えたことは無かったが、確かにそう言われてみれば不思議かもしれない。


「エディ様に訊いたら、何か教えてくださるかもしれないわね」


「説明されたところであたしの頭でわかるかなあ……」


 他愛もないおしゃべりをしながらも、ナタリーは手際よく私の髪をまとめ、清潔な布で水分を拭きとっていく。さっぱりとした気分だ。


 私も湯船から抜け出し、バスローブを羽織るようにして肌に纏わりついた水分を拭きとっていると、ナタリーがどこか気遣うような視線を向けた。


「……冷やした布をお持ちいたしますね。目元が、腫れてしまっていますから」


「あ……」


 昨夜、あまりの動揺に泣きじゃくったせいで目が腫れてしまっているのだろう。ここまで敢えて昨夜の話題に触れなかったナタリーの心配りに感謝しながら、私は曖昧に微笑んだ。


「ありがとう。昨夜は、その……迷惑かけてごめんなさい。驚いたわよね、いきなり私が泣きじゃくりながら部屋に飛び込んできて……」


「心配はしましたが、セレスティア様が謝罪なさるようなことではありません」


 ナタリーはてきぱきと私のバスローブの紐を結び合わせながら、何てことないというように笑ってくれた。普段は彼女の明るく朗らかな様子に癒されることが多いのに、こういう場面では包容力を発揮してくるからナタリーは有能なメイドだ。


「……殿下と、何かおありになりましたか?」


「……ええ」


 いっそ昨夜の出来事をナタリーに話してしまおうかと思ったが、今はまだ恥ずかしくてとても説明できない。


 驚きと、僅かな恐怖。何よりも、どうして殿下は私に口付けたのだろう、という大きな疑念。それらがぐちゃぐちゃと混ざり合った感情は、とても一言で形容できるものではなかった。


 ただ一つ確かなのは、その中に僅かに浮かれるような気持ちもあるということだろうか。どんな理由であれ、恋焦がれる人が、私に口付けてくれた。その事実は、初恋を忘れられずにいる私に甘い期待を抱かせるには充分すぎた。


 何かの間違いかもしれないけれど、ひょっとして殿下はそれほど私のことを嫌っておられるわけではないのかもしれない。このところの優しさも、本当に私に向けられたものだとするならば、昨夜のあの口付けは、もしかすると私のことを――。


 そこまで考えただけで、頬に熱が帯び、様々な感情から涙目になりそうだ。殿下が私に好意を持って口付けてくれたかもしれないなんて、妄想するだけでも罪深いような気がしている。私は殿下にとって罪人同然の大嫌いな女のはずなのだから、そんなことはあり得ないと頭では分かっているのに、初恋を忘れられない心が、淡い期待に縋ろうと足掻くのを止めることは出来なかった。


「……こんなことを申し上げるのもなんですが、私は、セレスティア様の味方です。お辛いときは、一人で抱え込まないでくださいね」


 同性同士の方が話しやすいこともあるでしょうし、とナタリーは軽くウインクをする。確かにそうだ。昨夜の一件を、エディ様に相談できるわけが無かった。


「ありがとう、ナタリー。いつも感謝しているわ」


「私には身に余るお言葉です、セレスティア様。……さあ、今日は何色のドレスをお召しになります? 昨日は薄い緑でしたから、気分転換を兼ねて暖色系の色にしてみてもいいかもしれませんね」


 ナタリーに手を引かれるようにして、私はクローゼットの方へと歩き出す。ぐちゃぐちゃになってしまった心は未だ静まるところを知らなかったが、ナタリーのお陰で、いくらか気を紛らわすことが出来た朝の時間だった。




 この数日では珍しく、殿下からの朝食の誘いも無かったので、私は私室で簡単な朝食を済ませた。呼ばれてしまえば行く以外に選択肢はなかったものの、この状況で殿下にどのようなお顔でお会いすればよいのか分からなかったので、一人で食事を摂れたことに、どこかほっとした自分がいるのも確かだった。


「今日一日は、何も考えずに遊んでしまいましょう! たまにはこんな日があってもいいではありませんか、お供いたします!」


 昨夜の一件を引きずったまま、もやもやとした気持ちと罪悪感すら伴うような淡い期待を抱えた私に、ナタリーは溌溂とした笑顔で言いきった。もとより、処刑を待つ罪人のような身の上である私には、急ぎの仕事も役目も無いので、彼女の提案に乗ったところで何の支障も来さないのは明らかだった。


 殿下にはいずれご挨拶に伺わなければならないだろうが、午前中は忙しくされていることが多い。午後のお茶の時間にでも、昨夜逃げるように立ち去ってしまったことを詫びに、殿下の書斎へ伺うとしよう。


 それまでこの部屋で悶々と悩み続けるよりは、ナタリーと共に散歩でもした方がずっといい。そう考えた私は、朝食を終えるなり、早速彼女と共に庭に出てみることにした。


 柔らかな紫色のドレス姿で、花飾りのついた帽子を被って姿見の前に躍り出る。結局、ナタリーの勧める橙色や淡い桃色のドレスを着る勇気はなかったので、実家から持ってきた普段着に近い紫のドレスを纏うことにしたのだ。やはり、このような落ち着いた色合いの方が私にはしっくりくる気がする。


「お綺麗です、セレスティア様」


 ナタリーがお決まりのお世辞を言ってくれる。実家にいたメイドも必ず言ってくれていたことなので、もう慣れていた。それを曖昧な笑みを浮かべて、受け流すのもいつものことだ。


 そのまま私室の扉の方へと向かい、ぼんやりと庭のことを考える。そろそろ向日葵も枯れ始める季節だろう。殿下と出会ったばかりのころは、鮮やかな黄色を誇っていた向日葵だけれども、このところは色褪せ、萎れる姿ばかり見ていた。咲いた以上枯れるのが花というものだとは分かっていても、何だか物寂しいような気がしてならない。


 ……オリヴィア姫のお墓に行くことが許されたら、向日葵の一輪や二輪、お供えして差し上げたかったわ。


 もっとも、大切な妹姫の墓標に私が赴くことを、殿下が許可なさるとも思えない。お願いするのも憚られるような望みだった。


「よろしければ、今日は温室に足を運ばれるのはいかがですか? セレスティア様がお好きだと仰っていたカトレアも咲いているかもしれません」


「まあ、温室があるの?」


 それならば、温室の花を眺めているだけでも、ささくれた心が癒されるかもしれない。少しだけ心が浮足立つのを感じながら、私は扉を開いたナタリーのすぐ後ろに続いた。


 だが、私室から数歩と離れない場所でナタリーは足を止めてしまう。そのまま慌てて壁際に寄り、メイド服のスカートを摘まんで深々と礼をした姿を見て、顔を上げるまでもなく目の前にいる人物を察してしまった。

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