第7話
エルドレッド殿下に晩餐に招かれたのは、その夜のことだった。
いつもと違ったのは、普段食事を摂る食堂ではなく、舞踏会を開くような広間に来るよう指示されたことだろうか。
この二か月間というもの、ジャスティーナ城の広間を見学したことは無かったのだが、足を踏み入れた瞬間、私はそのあまりの美しさに息を飲んだ。
惜しみなく贅の凝らされたシャンデリアや大理石の床に刻まれた繊細な模様、至る所にあしらわれた金細工、何より壁と言っても差し支えないようなガラス張りの大きな窓から見渡せる深い森が、この上なく神秘的な雰囲気を醸し出していた。
ジャスティーナ城は美麗な城として有名だが、その片鱗を垣間見た気がする。そして、どこか妖艶で、怪しげな美しさを漂わせるこの城は、エルドレッド殿下にぴったりだとも思ってしまった。
「セレスティア」
先に広間を訪れていたらしいエルドレッド殿下が、私に近付いてくる。正装というわけではないけれども、この豪奢な広間に相応しい服装をなさっていて、こんな状況下だというのに見惚れてしまった。
絵に描いたような王子様、というには殿下の纏う雰囲気には物憂げな色が濃すぎるが、ただただ「綺麗」の一言に尽きた。思わず、感嘆の溜息が漏れてしまうほどに。
「……そのドレス、着てくれたんだね。良く似合っている」
とろけるような甘い笑みでそんなことを言われてしまっては、勘違いしそうになる。私は軽く視線を伏せて、今朝殿下から贈られたばかりのミントグリーンのドレスの生地をじっと見つめた。裾のあたりに濃い緑色の糸で施された繊細な刺繍の柄を目に焼きつけて、何とか胸の高鳴りに耐える。
……舞い上がってはいけないわ。多分、これはきっと何かの間違いなのだから。
エディ様は殿下の御心をもう一度診察してくださったのだろうか、とちらりと顔を上げて彼の姿を捜せば、広間の隅で控えるエディ様に意味ありげな笑みを向けられてしまった。
エディ様があの表情をなさるということは、今の殿下には何も問題はないということなのだろうが、私に対する態度は今朝よりも一層甘くなっているような気がしてならない。
「たまには別の場所で食事を摂るのはどうかと思って、晩餐はここに運ばせたんだけど……どうかな」
「……初めて参りましたが、とても美しい場所ですね」
嘘偽りのない感想を述べれば、殿下はどこか嬉しそうに笑った。そんな無邪気な表情をされると、ますます彼の考えていることが分からなくなってしまう。
「気に入ってくれてよかった。セレスティアさえよければ、いつかここに君の友人や家族を招いたりして過ごすのも悪くないね」
「……私の友人や、家族を?」
罪人同然の私に、そこまでの好待遇をなさる意図が分からなかった。処刑の前の最後の情けにしたってやりすぎだ。
「まあ、僕としてはセレスティアと二人きりの方が嬉しいけど」
そんな甘い台詞と共に、殿下の手が私の手に触れる。食事の席は目と鼻の先だが、どうやらエスコートしてくれるつもりらしい。
手を握る仕草も、私の歩調に合わせるようなゆったりとした動きも、何もかもが私を勘違いさせそうになる。殿下にとって私は、こんな風に優しく扱うような存在ではないはずなのに。
銀食器が並べられた席の前に着くなり、殿下の手が離されたかと思うと、彼は事もあろうに私の椅子を引いてくれた。あまりに驚いて、はしたなくも一歩後退ってしまう。
「いけません、殿下が、そのようなこと……」
「いいから、座って、セレスティア。僕がしたいことなんだから別にいいだろう?」
端整な顔立ちに悪戯っぽい笑みを浮かべて、殿下は再び私の手を引き、椅子に座らせる。嬉しいと思う以上に、混乱していた。何もかもが想像と違って、いっそ夢だと言ってくれた方が納得するかもしれない。
殿下が向かいの席に座る光景すら、何だか夢の中の出来事のようで、どこかぼんやりとした眼差しで見つめてしまう。だが、今夜の殿下の笑顔は、私が「オリヴィア姫」を演じている間、あれ程見たいと願っていた清々しい幸せそうな表情で、それを見られただけでこの世に未練はないような気がしてしまった。
なぜ私にこんなに優しくするのか、と今問い詰めるのは無粋だろうか。殿下の思惑が何であれ、今この瞬間の殿下の笑顔だけは本物なのだろうから。
罪人同然の身でありながら、恋焦がれた人の笑顔を見ることが出来た幸福に感謝をして、私にとってはまるで夢のような、素敵な晩餐会が幕を開けたのだった。
食事を終えた後、私は殿下に誘われるままに城の庭を散歩していた。髪を結い上げているせいで露わになった首筋を、夏の夜風が抜けて行って何だかくすぐったい。
きらきらと瞬く星と、淡い月が私たちを優しく照らしている。殿下にエスコートされながら歩く庭は、格別の美しさだった。
晩餐会は、本当に本当に楽しい時間だった。
あの時間だけは、私は殿下に嫌われているセレスティアなのだ、ということも忘れて、殿下との他愛もない話に花を咲かせ、初恋の人と食事を摂ることが出来る幸福に酔いしれていた。あまり好きではない葡萄酒でさえ、またとない絶品のように感じられてしまったのだから、恋の力は偉大だ。
夢だと言われても信じられないくらいの、幸せなひと時だった。いや、きっとこれは夢なのだろう。あるいは、私は既に処刑された後で、ここは天国のような場所なのかもしれない。そうでも思わなければ、とてもじゃないが平静を保っていられなかった。
「今夜のセレスティアは楽しそうでよかった。たまにはこうして、普段と違う場所で食事を摂るのも悪くないね」
私が楽しそうにしていたとすれば、それは場所の問題というよりも、殿下がいてくださったおかげだと思うのだが、口に出すのも恐れ多いような気がして微笑むだけに留めた。
すると、殿下の淡い青の瞳が、僅かに揺らめきながら私を見つめ返す。
「あんな風に楽しげに笑ったと思えば、そんな目で見つめてくるなんて……。セレスティアには敵わないな」
「あ……その、失礼いたしました。不躾に見つめてしまって……」
慌てて視線を伏せる。よりにもよって殿下のお顔をまじまじと見つめるなんて、失礼にも程があることをしてしまった。
夏の夜風に煽られて、ひらひらとドレスの裾が揺れる。その様をじっと見つめていると、不意に殿下の手が私の頬に伸びた。
その手に上向かされるがまま、驚いて彼を見上げれば、殿下はまるで慈しむような目で私を見下ろしていた。淡い月影に照らされる殿下は、彼の持つ色素の薄さも相まって、今にも消え入りそうな儚さと神秘的な雰囲気を併せ持っている。
人を見た目でばかり判断するのは良くないと分かっているが、それでも殿下を前にするとその美しさを讃える言葉ばかりが溢れてきてしまう。本当に、なんて綺麗な人だろう。私などが見つめ続けていいお方ではないと分かっていても、目を離せない。
「君が望むなら、ずっと見ていても構わない」
「え……?」
大嫌いなはずの私に告げるにしては、あまりに甘すぎる言葉に目を見開いてしまう。多分、私の瞳は戸惑うように揺れていただろう。
このところの殿下はどこかおかしかったけれど、今夜は余計にそうだ。一体どうしてしまったのだろう。
「……綺麗な目だ」
殿下の指先が、私の目元に触れる。くすぐったいようなその感触に僅かに睫毛を震わせれば、私の頬を包み込むように殿下の手が添えられた。温かくて、優しい手だ。
「……お気に召したのなら、良かったです」
殿下が嫌う私の目でも、見るに堪えないよりは美しい方がいいだろう。初恋の人に褒められたという喜びに胸を高鳴らせるには、私たちの間には複雑な事情があり過ぎたが、南の海を思わせるこの深い青を少しだけ誇らしく思った。
「……そんな言い方をしないでくれ。僕は君を収集品のように扱うつもりはない」
不意に殿下の瞳が悲し気に揺れる。確かに、捉えようによっては多少棘のある言い方をしてしまっただろうか。
でも、だとしたら殿下が私の瞳の色を褒める理由も分からなかった。思わず訝し気に眉を寄せてしまう。
「その……申し訳ありません」
「いや、謝るのはこちらの方だ。君からしてみれば……そんな風に思っても仕方がないよな。僕が君をこの城に閉じ込めているようなものなのだから」
否定はできない。殿下のお許しさえ出たならば、私は今すぐにでもこの城から出ていくだろう。いずれ処刑されるにしても、殿下のお傍で最後の時を過ごすのは、彼に恋をしてしまった私にとってあまりにも残酷だった。
「でも、それを分かっていても手放せない。諦めてくれ、君はこの城に来た時点で、もう逃げられない定めにあったのだと」
「……ええ、心得ております」
軽く目を伏せて微笑めば、私の頬に当てられた殿下の手が震えているような気がした。不思議に思って見上げれば、彼は酷く寂し気に私を見下ろしている。
「……晴れやかな気持ちというわけにはいかないのだろうが……せめて、君がこの城にいて楽しいと思ってくれるような瞬間が増えるよう、努力するつもりでいる。と言っても、今夜のような晩餐会を企画するくらいしか出来ないのだが……」
まるで私を気遣うような言葉に益々疑念は深まるが、その言葉に嘘はないように思えた。私の置かれている状況から考えれば矛盾だらけの言葉だったが、どこか戸惑うように言葉を選ぶ初恋の人を前にして、気づけば私は頬を緩ませていた。
「……ありがとうございます。今夜は、本当に楽しかったです。一生の宝物にします」
たとえどんな思惑が隠されていたのだとしても、今夜、私に向けられた殿下の優しさと笑みを忘れることは無いだろう。その確かな確信を胸に殿下を見上げれば、彼の淡い青の瞳が信じられないとでも言いたげに揺れていた。
そのまま言葉もなく、不意に殿下に抱きしめられてしまう。「オリヴィア姫」を演じているときに似たような抱擁を交わしたことはあっても、間違っても「セレスティア」を抱きしめるような真似はなさらなかったのに。
まるで状況が把握できない。それでも、初恋の人との抱擁に、無条件に心臓は高鳴っていく。
「……やっぱり、手放したくない。ごめん、ごめん、セレスティア。身勝手な僕で……ごめん」
何に対して謝っているのかと軽く顔を上げたその瞬間、不意に殿下の唇と唇が重なってしまう。
急に顔を上げた私が悪かった。ほとんど事故のようなものだ。唇が重なると言っても、僅かに掠めるだけのものだったので、戸惑いよりも申し訳なさの方が込み上げてきた。
「あの、申し訳ございません……。どうか、お許しを」
慌てて謝りながら殿下の腕から逃れようとするも、彼の淡い青の瞳がどこか歪んだ熱を帯びるのにそう時間はかからなかった。
「っ……」
気づけば、二人の唇は再び重なっていた。今度は、明確な意思を持って。
なぜ? どうして、殿下が私に口付けを?
戸惑いよりも頭が真っ白になって、同じような疑問ばかりがぐるぐると巡ってばかりいる。暴言を吐くほどに嫌いな令嬢に口付ける男性の心理なんて、恋愛経験のない私には少しもわからない。
次第に、その思考さえも奪うかのように口付けが深くなっていき、息苦しさとあまりの混乱に、気づけば頬に涙が伝っていた。信じられないほどに頬が熱くなっているのが分かる。
必死に抗って、何度も何度も逃げようとして、ようやく殿下の腕から解放された時には、もうほとんど何も考えられなくなっていた。ただ、ぽたぽたと涙が零れ落ちていく。どんな感情から流された涙なのかさえ、私にはよく分からなかった。
「っ……ごめん、セレスティア。泣かせるつもりは――」
恥ずかしさとあまりの混乱に、気づけば私はぼろぼろと泣きながら殿下の前から走り出していた。熱を帯びた頬は、夏の温い夜風ではとても冷えてくれない。
なんで、どうして、殿下は、こんなことを。
不快だったわけではない。ただ、殿下の考えていることがまるでわからなくて、この恋心さえも弄ばれているように感じて、言葉にならない感情が涙となって溢れ出していた。
そのままどうやって私室まで戻ったのかは、あまり良く覚えていない。
ただ、頬を赤らめたまま泣きじゃくる私を見たナタリーがひどく驚いて、慌てふためいていたことはよく分かった。
普段ならば彼女を困らせてしまって申し訳ないと思うところなのに、この時ばかりはそんな余裕すら私に残されていなかった。私は彼女にろくな説明をすることも無く、結い上げていた髪を解くと、ぐちゃぐちゃになってしまった心のままに、ベッドに飛び込んだのだった。
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