第二章 すれ違いの初恋
第1話
酷く動揺したようなナタリーが部屋から飛び出してからしばらくして、上質な調度品で飾られた広い私室に、ノックの音が響き渡る。
ナタリーが戻ってきたのだろう、そう思い、ソファーで休みながら小物類をまとめていた私は気軽に入室を許可した。
宝石類はもともと持っている物が少ないため、私一人でも十分に片づけられる。ああ、社交界デビューの際にお父様がなけなしのお金で買ってくださった金の指輪は、殊更大切にしまっておかなくちゃ。
「ナタリー、驚かせて悪かったわ。でもね、私――」
指輪を小さな小箱に仕舞い込みながら、顔を上げたその瞬間、心臓が止まるかと思った。
目の前にいたのは、部屋を飛び出していったナタリーではなく、事もあろうにエルドレッド殿下だったからだ。
「っ……殿下!?」
慌ててソファーから立ち上がり、敬意を示すため礼をしようとするも、殿下が私の名を呼ぶのが先だった。
「セレスティア……」
思い詰めたような眼差しは、昨日まで見ていたものとよく似ている。決定的に違う点と言えば、その瞳に仄暗い翳りがないことだろうか。
ああ、殿下は完全にご自分を取り戻しておられるのだわ。
それを確信した私は、殆ど反射的に殿下から距離を取るように後退ってしまった。数年前のあのお茶会の夕暮れの声が、不意に蘇ったからだ。
――僕の傍に近寄るな!!
その言葉に従わなければ殿下がご不快な思いをなさってしまう、と考えたのはもちろんだが、拒絶以外の何物でもないあの言葉を、今の殿下に言われてしまったら、きっと立ち直れなくなると直感したのも確かだった。歪だけれども穏やかだったこの一か月半の思い出が、粉々に打ち砕かれるような気がしてならなかったのだ。
「っ……申し訳ありませんでした!」
殿下のお顔を直視できず、俯いたままぎゅっと手を握りしめる。悪い意味で、ばくばくと心臓が暴れだしているのが分かった。
「結果的に、殿下を騙すような形になってしまったこと……本当に申し訳ありませんでした。お咎めは何でも受けます、だから……どうか何も仰らないで」
この一か月半の思い出を、宝物にしようと決めたこの初恋の記憶を、どうか奪わないでいてほしい。それ以外ならば、なんだってする。どんな罰だって受けるから。
その一心で、私は深く腰を折り、祈るように指を組んだ。
「……殿下のお気持ちはよく存じております。このまま、殿下の婚約者の座に収まろうなんて厚かましいことは考えておりません。正式な婚約破棄は、後日レナード殿下にお願いして手続きを進めていただくように致しますから……」
初恋の相手であるエルドレッド殿下に、またあの夕暮れのように怒鳴られてしまったら、私はきっと立ち直れない。この場で情けなく泣き崩れてしまうことが目に見えていた。そんな醜態だけは避けたい。一刻も早くこのお城から立ち去りたかった。
「……婚約破棄? 何を言っているんだ、セレスティア」
怒りを滲ませたような声に、思わずびくりと肩を震わせてしまう。じわりと涙が滲むのが分かった。このまま下を向いていたら涙が零れ落ちてしまいそうだ。
きっと、婚約破棄なんてあまりに当たり前のことで、わざわざ話題に出したのがわざとらしかったのだろう。私も往生際が悪い。
「ごめんなさい、殿下……。すぐに、すぐに出ていきますから……」
これ以上、私の声など聞いていたくもないのだろう。殿下からは明らかな苛立ちが感じられて、思わず私は逃げるようにクローゼットに駆け寄り、実家から持ってきた刺繍の施された生成り色の外套を羽織ると、着の身着のまま部屋から飛び出そうと決めた。
荷物は、後で送ってもらえばいい。一番大切な指輪は既に持っているし、何なら残りは破棄してもらっても構わないくらいだ。
ナタリーやエディ様にちゃんと挨拶をできないのは心苦しいけれど、諦めよう。機会を改めるか、後日手紙を送ればいい。このままここにいて、エルドレッド殿下の怒りを買うことの方がずっと恐ろしかった。
「待て、セレスティア!」
大きな声で名前を呼ばれただけで、びくりと肩が震えてしまう。しかもあろうことか、殿下が私の進路を塞ぐように私をクローゼットの前に追い詰めたため、いよいよ涙が零れそうになってしまった。
「……悪かった、謝らせてほしい。君には本当に申し訳ないことをした。よりにもよって亡き妹の面影を押し付けるなんて……本当にすまなかった」
整った眉を下げて、言葉通りの申し訳なさそうな表情を見せる殿下を前に、私はただ首を横に振る。
「……いいのです、きっとあれは殿下のお心を守るための防衛反応のようなものですもの。殿下を責められるはずもありません。むしろ、一時でも、殿下の御心をお守りできたのならそれで……。私は私の役目を果たしたまでですから……」
「役目?」
昨日まではあんなにもときめいていた殿下を前にしているのに、今はどうしても、怖い、以外の感情が出て来ない。いや、殿下自身を怖いと思っているわけではない。再びあの夕暮れのように殿下に拒絶されることで、この美しい思い出までもが壊されてしまうことがただただ恐ろしいのだ。
「……殿下と婚約する前に、レナード殿下に言われたのです。私の髪の色や瞳の色は、オリヴィア様によく似ていると。だから、私がオリヴィア様を演じることで、殿下の御心は多少なりとも安らかなものになるかもしれないと……」
「……義兄上も余計なことをしてくれる」
深い溜息と共に吐き捨てられたその言葉に、再び私は肩を震わせてしまった。エルドレッド殿下のお怒りももっともだ。いざオリヴィア姫の幻覚から醒めたら、大嫌いな女が妹姫を演じてたばかりか、婚約者の座に居座っているなんて。
やはり、一刻も早くこのお城を発たなければ。ここから実家までは気が遠くなるほどに遠いが、途中の街で宿を繋いで、何日かかければ帰れないことも無いはずだ。途中で侯爵領に手紙を出すことだってできる。
「どうかレナード殿下をお恨みにならないでくださいませ。レナード殿下は、エルドレッド殿下をご心配なさっていただけで……」
「随分、義兄上を庇うんだな……。話を聞いている限り、義兄上の一言でこの城にやってきたようだし、何か弱みでも握られているのか?」
「弱みなんて……そんな、滅相もございません!」
慌てて否定するように顔を上げれば、クローゼットの前に追い詰められてから初めて殿下と目が合った。先ほどまで宝石のように澄み渡っていた淡い青の瞳が、怒りにも似た感情を携えて小さく揺らいでいる。
「……じゃあ、義兄上に何か特別な感情でも? 役目を終えたら嫁に来いとでも言われたか?」
その言葉に、レナード殿下のいつかの台詞が蘇る。
――大嫌いな君を見て、怒り狂い、正気を取り戻すのなら、それはそれでありがたい話だ。そのときは、俺のところにでも嫁に来い。
「あれは……ただの冗談だと思いますわ」
レナード殿下なりの責任の取り方ともとらえられるが、この城を出ていったからと言ってレナード殿下の元へ行く気はさらさらなかった。もちろん、婚約破棄後の事務的な手続きの場では顔を合わせることもあるかもしれないが、それ以上の関係にはなりようがない。
何故なら私の心は、今もエルドレッド殿下でいっぱいなのだから。
「そうか……言ったのか、君に、嫁に来いと」
一瞬で、エルドレッド殿下の淡い青の瞳が翳る。昨日までの翳りとはまた違う、歪んだ熱を帯びた翳りだった。
「義兄上は冗談が苦手な人だ。今頃、君を花嫁に迎える準備でもしているかもしれないな……」
あのレナード殿下が? 思わず私は今まで感じていた恐怖も忘れて、小さく笑いながら首を横に振る。
「まさか、それはないと思いますわ。……大丈夫です、この城を出て行ったあとは、二度とエルドレッド殿下の前に姿を現さないと誓いますから」
大嫌いな女が義兄の妻、要は義姉になることを懸念した上での発言だったのかもしれない。その想像だけで瞳を翳らすほどに私のことがお嫌いなら、やはり私は一刻も早くこの城を出ていくべきだ。
他ならぬ、エルドレッド殿下の幸せと平穏のために。
「二度と姿を現さない? 何を言っているんだ、セレスティア」
明らかな怒りを滲ませて、エルドレッド殿下は私を睨みつける。その瞳に宿った執着にも似た暗い感情に、思わず息を飲んだ。
……殿下が私のことをお嫌いだとは分かっていたけれど、ここまで恨まれているなんて。
姿を現さない、なんていう条件では甘いのだろうか。殿下にとって、私がいつの間にか殿下の婚約者の座に居座っていたことは、こんなものでは許されないほどの大罪だったのかもしれない。
これは、良くて幽閉、悪くて処刑と言った線だろうか。冷や汗が背筋を伝っていく。
いや、私一人の身に収まるような罪ならばまだいい。もしも、マレット侯爵家にまで処分が言い渡されるような事態になったら、いよいよ侯爵領の復興は難しくなる。没落した貴族の領地として、他の人の手に譲渡され、今まで侯爵領が細々と続けてきた特産品の生産や伝統も、ここで途切れてしまうかもしれない。
それだけは、何とかして避けなければ。どれだけ寂れていようとも、私はあの侯爵領が大好きなのだ。
「……本当に、申し訳ありませんでした、殿下。……私の命で償えるのであれば、お好きなように処分していただいて結構です」
「そうだな……君が義兄上の花嫁になるくらいなら、いっそのこと……」
不意に、エルドレッド殿下の手が私の頬に伸ばされ、軽く上向かされる。強い怒りが滲んだ淡い青の視線に射止められ、息もできなくなりそうだった。
……昨日までは、偽りだったとしても、あんなに優しい姿を見せていたのに。
とても同一人物だと思えないくらいには、今のエルドレッド殿下は怖かった。失礼だとは分かっていながらも、数年前の彼の拒絶の言葉も相まって、怯えるように殿下を見上げてしまう。叶うなら、もうこれ以上、私の淡い初恋の思い出を壊さないで欲しかった。
「いつの間に、僕の心はこんなにも君に搔き乱されていたんだろうな……。僕も今、初めて知ったよ」
殿下は淡い瞳に歪んだ熱を携えたまま、どこか自嘲気味にふっと笑った。普段はお優しい雰囲気を纏っているはずの殿下をここまで不安定な表情にさせる私は、相当彼に嫌われているらしい。いや、これはもう、憎しみだとか、恨みと言った方がよさそうなくらいだ。
「絶対に、義兄上のもとへなんて行かせない。……逃げられるなんて思わない方がいい。もう二度と、君をこの城から出す気はない」
これは、もしや「この城から出ていく際には君は棺の中にいるんだから」と遠回しに言われているのと同義なのではなかろうか。だとしたら、あまりにも物騒な発言だ。思わず身の毛がよだつ。
初恋の相手にここまでの殺意を抱かれるなんて。この恋が叶うなんて始めから夢見ていなかったけれど、死を願うほどに憎まれているとは思ってもみなかった。あまりの空しさと悲しみに、胸が張り裂けそうだ。
彼が私を嫌っているなんて、初めから分かっていたことなのに、それでも好きになってしまった自分が憎らしかった。最早、この一か月半の思い出すらも、穏やかに思い返せるようなものではなくなってしまい、必死に守ろうとしていた宝物が壊れてしまったことに、とめどなく涙が流れてきた。
頬に添えられた殿下の指先が、そっと私の涙に触れる。殿下は、どこか嘲笑うような調子でふっと口元を歪ませながら、やっぱり私を睨むように見つめていた。
「……そうか、泣くほど嫌なのか。それもそうだろう、僕がしたことを思えば当然だろうな……」
一度溢れ出した涙は、留まるところを知らないようで、あっという間に私の頬を濡らしてしまった。殿下はその様子さえもどこか嘲笑うように見つめたかと思うと、ようやく私から手を離して、エディ様やいつの間にか駆けつけていたナタリーに指示を出していた。
初恋は、終わったのだ。美しい思い出に縋ることすらも、私には許されなかった。
その事実に打ちのめされ、昨夜の睡眠不足も祟ったのか思わずその場に崩れ落ちてしまう。
処刑するほどに私のことがお嫌いなのだとしたら、今すぐ終わらせてほしいのに。
膝に顔を埋めるようにして声を殺してなけば、慌てて駆け寄ってきたナタリーとエディ様に肩を揺らされる。
殿下は、こちらを一度も振り返ることなく、足早に出て行ってしまったのだった。
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