第17話(エルドレッド視点)
久しぶりに、視界がはっきりとしているような気がする。
昨日よりずっと澄んだように感じる空気を胸一杯に吸い込みながら、僕は、状況を把握しきれぬまま、ベッドに上体を起こした。
「……エディ、僕は、今まで何をしていた?」
領地に関する書類に記載した内容や、読んだ本の内容は覚えている。ただ、人とどのようにかかわっていたのかが、ひどく曖昧だった。
「……殿下、お目覚めになったのですね」
エディは理知的な深緑の眼差しで僕を見据えると、真面目な面持ちでベッドサイドの椅子に座った。
……そう言えば、彼とこうしてはっきりとした意識の中で話すのは、初めてのような気がする。
まるで、長い夢を見ていたかのような感覚だ。一刻も早く状況を把握したくて、気づけば僕はエディを縋るように見つめていた。
「……私のことはお分かりになりますか?」
何を当たり前のことを。からかわれているのかと思ったが、エディの真面目な顔を見て、これも診察の一環なのだと察し、大人しく答えることにする。
「……エディだろ。エディ・バイロン。僕に仕える医者で――」
その瞬間、ずっと心の奥にわだかまっていた重いものが、すっと溶けていくような気がした。
ああ、そうか、僕はずっと――。
「……僕の、心を診ていてくれたんだよな。――死んだはずのオリヴィアに話しかける、僕の心を」
ぶわり、とすべての記憶が瞬く間に蘇った。
オリヴィアを看取った際に彼女の頬を伝った透明な涙も、オリヴィアの葬儀の夜に浮かんでいた憎々しいほど美しい三日月も、やたらと僕を心配する医師のエディがやってきた日のことも、全部。
「はい、あなた様は、この3年間、ずっとオリヴィア様の幻覚を見ておられました」
「幻覚を……」
そうか、つい昨日までそばに居たかのような彼女は、もう3年も前にこの世の人ではなくなっていたのか。
その事実に、ぎゅっと胸を締め付けられる。何年たっても、唯一の肉親を失った悲しみというのは薄れることは無いらしい。
オリヴィアを弔うように、彼女の笑顔を思い出す。どこか強気な無邪気な笑顔も、はしゃぐような愛らしい声も、悪戯好きで人を困らせてしまう奔放さも、僕を惑わせるような甘い香りも――。
そこまで考えて、はっと我に返る。
甘い香り? 違う、あれはオリヴィアのものじゃない。そもそもオリヴィアとは、互いの香りが分かるような距離で過ごしたことなど、数えるほどしかないのだから、こんなにも鮮烈に記憶に残っているはずもなかった。
それも、あの甘い香りはつい昨日嗅いだような気がする。理性を失いかけるような、やさしい甘い香りを纏った彼女は、南の海を思わせる鮮やかな青の瞳を潤ませて、僕を見上げていたんだっけ。
間近で陽だまりのような笑みを浮かべる彼女は本当に愛らしくて、思わず額に口付けてしまった気がする。唇にしなかっただけ、紳士的だったと誰か褒めてほしい。
彼女のことを思い出す度に、穏やかでどこか甘い感情に心が満たされていくのを感じるのに、同時に嫌な予感が胸を締め付けていた。
なぜだろう、僕は、とんでもないことをあの可愛らしい令嬢に対してしてしまっている気がする。
彼女の、鈴の音のように美しい声を思い出して、何とか心を落ち着けようとしたその時、僕はすべてを悟ってしまった。
――お兄様、見て! お魚がいるわ!
つい昨日、美しい湖の畔で眩しいほどの笑顔を浮かべていた彼女を思い出して、絶望する。
ああ、まさか、僕は――。
「……エディ、僕は、オリヴィアの幻覚を誰かに押し付けていたか」
「はい」
「その相手は……先ほど僕の目の前に現れた、あのご令嬢だろうか」
「そうですね、殿下のご婚約者様のセレスティア様です」
どこか切ないような笑みを残して、逃げるように立ち去って行った彼女の、輝くような白銀の髪と深い青の瞳を思い出す。確かに、一見すればオリヴィアを連想するには充分な色合いを持っている。
同時に、このところ僕を悩ませていた「許されない想い」についても思い出した。
「……このところの僕は、オリヴィアに恋をしてしまったと悩んでいたように思うのだが……」
「そうですね、それはもう思い詰めておられました」
「……僕が恋をしていたのは、彼女――セレスティア嬢だったのか?」
確かに、このところのオリヴィアはどこか変わったと、幻覚を見ていながらもそんな風に思っていた気がする。それは、もしかするとセレスティア嬢にオリヴィアの幻覚を見るようになってからなのではないだろうか。
「まず間違いないでしょうね。セレスティア様が殿下のご婚約者としてこの城に来て、あの方にオリヴィア様の面影を見るようになってからの悩みでしたから……心のどこかでは、あの方をオリヴィア様ではないと正しく認識されていたのでしょう」
羞恥とも後悔とも言えぬ複雑な感情に、顔を覆って大きな溜息をついた。
最悪だ、よりにもよって婚約者に妹の面影を押し付けて、妹扱いするなんて。
しまいには、彼女に恋をしてしまい、それを妹に向けた許されない思いだと思い込むなんて、あまりにも滑稽だ。
「……言ってくれよ、僕が悩んでいるときに、彼女はオリヴィアじゃないって」
「言いましたよ。殿下が『このところのオリヴィアはどこか変わったようだ、お前もそう思うだろう』と尋ねられたときに『まあ、別人ですね』と。それに、ちゃんとご説明差し上げたところで、あのときの殿下はオリヴィア姫が幻覚だなんて信じなかったと思いますよ」
どこかにやつくような友人の顔を睨み上げ、何か言ってやろうと思ったのに、彼の言うことももっともだろう、という理性的な判断が邪魔をして口を噤んでしまう。代わりに、もう一度だけ深い溜息をついた。
「……セレスティア嬢には悪いことをしてしまった。とにかく、謝らなければ……」
王女の面影を押し付けられ、セレスティア嬢はどんなに困惑しただろう。それでも嫌な顔一つせず、僕の傍でオリヴィアを演じてくれていたのだから、聖母のように心優しい令嬢だ。
何を言えば許してもらえるだろうか。ただの形だけの婚約者相手ならばここまで悩まなかっただろうが、完全に僕はセレスティア嬢に心を奪われているのだ。一刻も早く関係を修復しなければ。
そう思い、早速ベッドから足を下ろそうとしたところを、エディに止められる。
「お待ちください、殿下。そう急がなくても、セレスティア様はお逃げになりませんから。しばし休んで、それからお話されるとよいでしょう。セレスティア様も徹夜で殿下を見舞われていたのですから、休息が必要です」
「徹夜で、僕の傍に……?」
改めて、セレスティア嬢の底なしの優しさに胸が熱くなる。彼女にオリヴィアの面影を押し付けるどうしようもない僕に対して、どうしてそんなに親切にできるのだろう。僕には勿体ないくらいのご令嬢だ。
絶対に、何としてでも今までの行いを挽回し、彼女に許してもらわなければ。そのためならばなんだってしようと決意したとき、不意に寝室のドアがノックされる。
僕が入室を許可する声と重なるようにして開かれたドアの先から飛び込んできたのは、メイドのナタリーだった。そばかすの浮いた顔には困惑の色が浮かんでいる。妙に焦っているような気がした。
確か、彼女は今、セレスティア付きのメイドとして働いているはずだ。彼女の身に何かがあったのか、と僕もエディも身構えてナタリーを見つめてしまう。
「どうした、何があった?」
ナタリーは妙に落ち着かない様子だったが、悲痛な眼差しで縋るように僕らを見つめてきた。
「っ……セレスティア様が、セレスティア様が、お荷物をおまとめになっていて……」
「セレスティアが!? 何故だ?」
どうして、セレスティアが。突然の展開に話を読めず、思わず身を乗り出すようにしてナタリーの返事に耳を傾ける。
「……殿下、セレスティア様をセレスティア様だとお判りに……?」
きょとんとしたような表情に変わるナタリーの動揺はもっともだが、今は彼女の動揺に寄り添う余裕が無い。
「今はそれどころじゃない。なぜセレスティアが荷物を纏めているんだ? この城から出ていく気なのか?」
「分かりません!! でも、このままじゃ出て行ってしまいそうな勢いで……」
セレスティアが、この城からいなくなる?
考えただけで、途方もない喪失感に襲われた。陽だまりのようなセレスティアがいなくなったこの城に、一体何が残るというのだろう。
「殿下が何かおっしゃったのではありませんか!? いつもいつもセレスティア様をオリヴィア様のように扱って……セレスティア様はどんなにお辛かったか……」
怒りを滲ませる勢いでそう言い放ったかと思えば、ナタリーは涙ぐみ始める。彼女の言うことはもっともなだけに、何も言い返せない。
「エディ、僕は目を覚ましてからセレスティアに何か言ったか?」
「いいえ、セレスティア様に向かって、君は、と呼びかけられましたが、それ以外は何も」
ではやはり、僕が彼女をオリヴィア姫扱いし続けたことに嫌気が差して、ここから出て行こうとしているのだろう。その気持ちももっともだ。彼女を蔑ろにした僕が全面的に悪い。
それでも、彼女を手放すわけにはいかなかった。彼女は、ようやく掴みかけた、新たな幸せそのものだ。この城を照らす陽だまりなのだ。
「っ……何でもいい。力尽くでもいいから、セレスティアを部屋に留めるんだ。すぐに僕も行く」
「力尽くなんて酷い! 殿下はもっと紳士的な方だと思っていました!!」
泣き叫ぶナタリーは、相当セレスティアに感情移入しているようだった。それも仕方のないことなのかもしれない。代わりに、騒ぎを聞きつけた他の使用人たちに手早く指示を出すと、すぐさま寝間着から着替えて寝室を飛び出した。
……我ながら、最悪のスタートを切った初恋になってしまったな。
苦々しい思いを抱えながら、何とかしてセレスティアにこの城に留まってもらえるよう考えを巡らせる。
彼女を蔑ろにしてしまった僕が、今更彼女の愛を乞うなんておこがましいのかもしれないが、どうしても逃がしたくない。
彼女の心を得るためならば、何だってやってみせよう。醜くてもいい、とにかく足掻くのだ。
僕のすぐ後ろを追いかけてくるエディの足音を聞きながら、僕はセレスティアの部屋に辿り着くなり、静かにノックをする。
はい、と可憐な声が返ってきたのをきっかけに、僕の勝負は始まった。
最悪に近いスタートから、果たして彼女の心を得ることは出来るのだろうか。不安でならなかったが、弱音を吐いている暇はない。初恋の人の心を得るべく僕は今、大切な一歩を踏み出したのだった。
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