第16話

「……セレスティア様、少しは休まれた方が……」


 湖に出向いてから一夜明けた今、私はエルドレッド殿下の寝室で、縋るように彼の手を握りしめていた。


 湖に落ちて意識を失ってからというもの、殿下は未だ目を覚まさない。エディ様によれば、心身ともに疲れて眠ってしまっているだけだろうとのことだったが、私を庇ったばかりに湖に落ちてしまった殿下のことが心配で心配でたまらなかった。


 申し訳なさに、胸が押しつぶされそうだ。私がもう少し気を付けていたら、殿下はこんなことにならなかったのに。


 その罪悪感が余計に、殿下の傍を離れることに抵抗を生んでいた。このまま殿下の傍を離れたところで、心が痛んでろくに休めないことは明白だ。


「私は大丈夫よ、殿下の傍を離れたくないの」


 ナタリーからすれば、ただ健気な婚約者に見えているのかも知れないが、実際のところは自分本位な感情だってある。殿下の傍にいたいというのは、私の我儘でもあるのだ。


「ですが、一睡もされていないではありませんか……」


 かく言うナタリーだって、殆ど私の傍に付き添ってくれていたからろくな睡眠をとっていないのだろう。私は殿下の手を握ったまま、ナタリーにそっと微笑みかけた。


「いいのよ……これが最後かもしれないから。ナタリーは休んでいて頂戴」


「セレスティア様……」


 これが最後、という言葉の意味は恐らくナタリーには伝わっていないのだろうが、それでよかった。


 花畑での出来事や、湖に落ちる直前の殿下の言動などを、包み隠さずエディ様に伝えたところ、彼曰く、次に目を覚ました時に殿下が私に「オリヴィア姫」を見るか否かは五分五分だろう、とのことだった。今までの経験上、一度意識を失うと再び幻覚に囚われていることが多いが、今回はそうとも限らない可能性が高いとの推察だった。


 何となく、それは私も覚悟していた。覚悟を決めざるを得ないくらいに、湖に落ちる直前の殿下の言動は、「オリヴィア姫」の幻覚から醒めようとする気配に満ちたものだったのだから。


 そうなれば、オリヴィア姫に似ているという理由だけで殿下の婚約者に選ばれた私は用済みだ。ましてや私は殿下の大嫌いなセレスティア。まず、この城から追い出されることは間違いない。


 この婚約だって、エルドレッド殿下の意思も署名もない、本当に曖昧なものだった。国王陛下とレナード殿下の采配で一方的に決まった、エルドレッド殿下の意を全く汲んでいない縁談なのだ。


 私をこの城から追い出すことは、婚約破棄とも言えないような、ごく当たり前の所業だろう。


 そして、それに醜く抗うような真似は決してするまい、と心に決めていた。ほんの一か月半だけでも殿下のお傍で過ごせた幸運を噛みしめて、私はこの城から出て行こう。そしてこの国のどこかで、殿下が幸せを掴む吉報を待ち望むだけの存在になりたかった。


 初恋が終わるのは胸を引き裂かれるような痛みを伴うが、これが殿下の幸せにつながるのだと思えば耐えられる気がした。きっと、この城で殿下と過ごした思い出が、失恋の痛みを癒してくれるだろう。


「……だから殿下、安心してお目覚め下さいませ」


 暖かな殿下の手の甲をそっと撫でながら、私は眠る殿下に微笑みを送った。殿下は眠っていても、息を飲むほどにお綺麗で、惚れ惚れとしてしまう。それに、どこか無防備な印象を与える寝顔がとてもお可愛らしかった。白に近い白銀の髪も睫毛も、本当に美しい。


 ただ、殿下の持つ淡い色合いは儚さを併せ持っていて、やはりこうして長いこと眠っておられると、このまま消えてしまうのではないかという不安を煽るのも確かだった。


 早く、早く目覚めてほしい。


 そして、あの淡い青の瞳に私を映し出してほしい。


 それだけを祈りながら、私はそのまま殿下のお傍で彼の寝顔を見守っていたのだった。




 殿下がお目覚めになったのは、ナタリーを説得して休ませ、殿下の傍で簡単な朝食を済ませた後だった。


 きっちりとシャツとベストを着こなしたエディ様が、診察に訪れた折に、殿下はゆっくりと瞼を開かれたのだ。


 しばらくは状況を掴めないような様子で天蓋を見つめておられたが、エディ様の呼びかけにそっと視線を動かした。


「殿下、おはようございます。覚えておいででしょうか。あなた様は、昨日、湖に落ちて意識を失われたのですよ」


 エディ様が簡潔な説明をしている間、私はただ脈を早めて殿下の様子を窺うことしか出来なかった。


 意識を取り戻された殿下は今、「オリヴィア姫」の幻覚からもお目覚めになっているのだろうか。


 自然と、脈が早まってしまう。たとえどちらであっても、私は私に求められる振舞をするだけだと分かりきっているのに、手に汗が滲んだ。


 ……叶うなら、もう少しだけ殿下のお傍にいたい。そのためには、出来ることなら、まだ「オリヴィア姫」の幻覚を見ていてほしい。


 そんな浅はかで身勝手な願いが全くないと言えば嘘になる。どれだけ覚悟を決めようと、やはりいざ初恋の人の前から立ち去らなければならない時が近づいていると思うと、自分勝手な願いに心を埋め尽くされそうだった。


「……迷惑をかけたようだな、エディ」


「滅相もございません。それより、あなたの姫君がお見舞いにいらしていますよ」


 エディ様は知的な目を私に向けると、殿下のお傍に寄るように目配せした。それに従って、動揺を悟られないように殿下に微笑みかける。


「……おはようございます」


 「殿下」とも「お兄様」とも呼びかけなかったのは、彼の心の状態を判断しかねていたからだ。きっと、次の一言でこの初恋の終わりが決まる。どくどくと耳の奥で心臓の音を聞きながら、ぎゅっと手を握りしめて殿下の言葉を待った。


「……は――」


 終わった、と思った。


 殿下が「オリヴィア姫」の幻覚から醒めているかどうかを判断するには、その一言で十分だった。


 殿下は、オリヴィア姫に対しては親しみを込めて「お前」と呼んでいた。「君」という呼びかけは、絶対に姫に対してはしないのだ。


 ああ、終わった。終わったのだ。


 初恋の人の傍で、穏やかな日々を享受する偽りの日々は。


 泣いてはいけない。せめて、最後にセレスティアとしての笑顔を浮かべよう。


「――良かった、になったのですね。昨日は……本当に申し訳ありませんでした」


 戸惑うような殿下の淡い青の瞳には、昨日までの翳りは一切なかった。


 ああ、「オリヴィア姫」の幻覚から目を覚ました彼の瞳は、こんなにも美しいのね。


 多分、私はこの先一生、この淡い青よりも美しい色に出会うことは無いのだろう。その予感を噛みしめながら、泣き出しそうになる心を制御して、精一杯の笑みを殿下に送った。


「……一日も早く、殿下が新たな幸福を掴む日を、心より願っておりますわ」


 淡い青を見据え、にこりと微笑んだところで私は限界だった。溢れ出しそうになる涙を見せたくなくて、無礼だとは思いつつも思わず殿下に背を向ける。


「セレスティア様!?」


 エディ様の戸惑うような呼びかけも無視して、私は涙を隠すように殿下の寝室を飛び出した。


 終わったのだ、全て。この初恋も、偽りの穏やかな日々も。


 あとは、殿下の大嫌いなセレスティアがお城から出て行くだけ。


 それで、ようやく殿下は幸せになれる。意に添わぬ婚約をさっさと撤回して、彼に相応しい姫君を迎えて、新たな幸福を手にするのだ。


 「セレスティア様?」と戸惑うように呼び掛ける使用人の声すらも無視して、私は涙を拭いながら私室へと向かった。慣れた道のりのはずなのに、涙に歪んだ視界のせいで、随分長く感じてしまう。


 いつもより多少乱雑に扉を開け、背中でもたれかかるように閉めると、私の着替えを用意してくれていたらしいナタリーの鳶色の瞳と目が合う。


「セレスティア様……!? 一体、どうされました!?」


 私が泣いていたせいだろう。いつになく取り乱すナタリーの質問に答えることも無く、私はただ、弱々しい微笑みを浮かべた。


「……荷物を、まとめて頂戴。いつでも、ここを出て行けるように」


 初恋を知ってしまった心臓は、まだどくどくと暴れ回っている。


 お願い、早く、早く静まって。


 涙が頬を伝っていく。これで本当にお終いなのだ。それを、抗うように脈を早める心臓にも一刻も早く分かってほしかった。 

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