第15話

 ネモフィラの小さな花畑から、エディ様やナタリーの元へ戻る際には、行きとは別の道を選んだ。


 湖により近い小道を、ゆったりとした歩調で進んでゆく。私は時折湖の水面の美しさに視線を奪われていたが、殿下は湖はおろか私の方にすら目もくれず、ただ淡々と前を向いていた。


 広大な湖の水面は、正午が近くなってきたせいか、ここに到着した時とはまた違う趣を見せ始めている。


 連日の雨のせいで、所々道はぬかるんでいたが、「オリヴィア姫」に気を遣っているのか、殿下が巧みにエスコートしてくださるおかげで、私の靴は殆ど汚れていなかった。こちらを一切見なくても、さりげない優しさは健在なようで、思わず頬を緩ませてしまう。


 殿下は、本当に思いやり深くお優しいお方だ。見目に違わずお心までも美しいのだろう。ジャスティーナ城に来た当初のように、どろどろに「オリヴィア姫」を甘やかす殿下も素敵だったけれど、こうしてさりげない優しさを見せてくださるお姿にもときめいてしまう。


 恋は盲目とはよく言ったものね、と私は頬を緩ませたまま、束の間の幸せに酔いしれた。この優しさがセレスティアに向けられたものではないのだとしても、それでもこうして間近で殿下の人となりに触れることが出来た幸運に感謝した。一生の宝物にしよう。


 殿下に口付けられた額の熱も大分引いてきたところで冷静になった私は、早速「オリヴィア姫」の演技を再開した。そもそもこの場所には、小説を読んで湖に憧れた「オリヴィア姫」のために来ているのだ。もっと湖に興味を示さなければ。


「お兄様、もっと湖に近寄ってもいい?」


 殿下の腕に添えた手を軽く引いて彼を立ち止まらせると、ようやく殿下は半身こちらを振り返った。


「……いいよ、気を付けて」


「ありがとう、お兄様!」


 軽くはしゃいで湖の傍に近寄れば、水が澄んでいるのか湖の中の様子がよく見えた。思ったよりも底は深そうだ。


 小魚がいるだろうか、と見渡していると、湖の底に茂る草の間からちらちらと尾ひれが見えた。魚の種類に詳しくないので名前は分からないが、鱗が太陽の光を反射していてとても綺麗だ。


「まあ、お兄様、見て! お魚がいるわ!」


 私の隣で佇んでいた殿下の気を引くように、湖の中を指させば、彼は渋々と言った様子で私の隣に屈みこんだ。思ったよりも近い距離に不覚にも脈が早まるが、ここは平静を保たなければ。


「……本当だ、とても小さいね」


 殿下も水面の中の魚を見つけたようで、ふ、と口元を綻ばせる。久しぶりの殿下の自然な笑顔に、思わずまじまじと彼の横顔を見つめてしまった。

 

 「オリヴィア姫」の演技が上手くいった証拠だろうか。理由はどうあれ、殿下が微笑んでくださったことが嬉しくて、私までつられて笑ってしまう。


 その視線に気づいたのか、殿下が水面から顔を上げて私の目を射抜いた。やはり翳りはあるけれど、美しい淡い青の瞳に間近で見つめられて、言葉を失ってしまう。


 今日は何だか、意図せずして距離が近いことが多い。心臓に悪い気がしたが、もしかするともう二度とない幸運なのかもしれないと思うと、私からは目を離せなかった。殿下が「オリヴィア姫」の幻覚から醒めて、大嫌いな私をあのお城から追い出した後も、決して忘れることのないように殿下の端整なお顔を目に焼きつけておこう。


 ……願わくば、私のことも、ほんの少しでもいいから覚えていてくださったらいいのに。


 おこがましい願いを込めて、僅かに微笑みながら殿下を見つめていると、至近距離に迫った殿下の淡い青の瞳が戸惑うように揺れた。先ほど、私の額に口付けたときと同じような反応だ。


「……そんな目で見ないでくれ」


「……お兄様?」


 あまりに不躾に見つめ過ぎただろうかと反省するも、「オリヴィア姫」は人の目をまっすぐに見て話すお姫様だったと書類には記されていた。兄であるエルドレッド殿下を見つめるときは、人懐っこい笑みを浮かべて、決して目を逸らさなかったとも。


「……試されている気分になる」


「試す、とは?」


 話が読めず、「オリヴィア姫」を意識した無邪気さで彼を見つめ返せば、殿下は切なそうに瞳を細め、軽く私の肩に頭を乗せた。


 先ほどから、殿下の様子がおかしい。やはり、どこか具合が悪いのだろうか。


「お兄様? どうされました?」


 触れ合ったときめきよりも、殿下の身に何か起こっているのではないかという不安から彼の肩を軽く揺らすように掴めば、ぽつり、と殿下は独り言のような言葉を零す。


「……お前は、香水をつけていたか?」


「いいえ……つけていませんわ、お兄様」


 ジャスティーナ城に来てからというもの、ドレスのデザインはもちろん、食の好みまでオリヴィア姫に合わせているのだ。何一つ、彼女と違う振舞はしないように気を付けている。


 オリヴィア姫の資料には、彼女が13歳という若さでこの世を去ったこともあり、香水などは殆どつけていなかったと記されていたため、私もそれに従った。もともと舞踏会などの公の場に出向くことも少なかった私は、香水をつける習慣が無かったのでありがたい、と思ったくらいだ。


「それじゃあ……この甘い香りは何なのだろうな。本当に……酔ってしまいそうだ」


「何でしょう、先ほどのお花畑でドレスについてしまったのかしら……」


 軽くしゃがみこんでいたから、その可能性は大いにあり得る。だが、少なくともドレスを身に纏っている私では気づかない程度で、気分が悪くなるほどの強い匂いでないことだけは確かだ。


 殿下は鼻がいいのかしら、ともう一度殿下の表情を窺おうとしたところ、頬に手を当てられ上向かされる。これには驚いた。とても「オリヴィア姫」に向ける仕草とは思えない。


 言葉もなく、ただただ驚いて殿下を見つめていると、彼の淡い青の瞳もまた、探るように私を見つめていた。その瞳にはいつもより翳りは少なくて、代わりに焦がれるような熱が浮かんでいる。


「……は……君は一体誰なんだ?」


「っ……」


 先ほどとは違い、私を「オリヴィア姫」ではないと殆ど決定づけたような言い方に、今度こそ終わりを悟った。言葉を失う。心臓が、この上なく暴れだす。


「そうだよな……君は、オリヴィアじゃない。僕は、今まで一体何を……。オリヴィアは、もう、もう何年も前に――」


 一か月半の歪で穏やかな日々が、音を立てて崩れ始めるのが分かった。一瞬、頭の中が真っ白になる。


 これで殿下は幸せになれるとか、これで良かったのだとか思う余裕などなく、ただただ、私は「ああ、これですべて終わってしまうのだ」という喪失感に言葉を失っていた。


 瞬間、冷たささえ感じるような突風が、私たちの間を吹き抜ける。知らないうちに目尻に溜まっていたらしい涙と共に、花飾りのついた帽子がふわりと浮き上がった。


 その帽子に手を伸ばしたのは、殆ど反射的な動作だったと思う。直前の殿下の言動に動揺していた私は、ここが湖の淵であることを忘れていた。


 手を伸ばしたときには、体がぐらりと水面に向かって傾いていた。


 目尻に溜まった涙が、水滴のように舞い上がる中で、一瞬だけ確かに殿下と目が合う。


「っ――――ィア!!」


 私が水面に落ちようとしたその刹那、殿下が叫んだ名がオリヴィアだったのか、セレスティアだったのかよく覚えていない。


 ただ、殿下が驚くべき早さで私の体を抱き留め、そのはずみに湖へと落ちていく光景だけは痛いほどに目に焼きついていた。


「っ殿下!!」


 気づいた時には、私も湖に飛び込んでいた。思ったより深い底に驚きながらも、何とか殿下の腕を掴む。


 冷たい水で痛む目を見開いて、確かに私たちは水の中でお互いの目を見つめていた。


 それも本当に一瞬のことで、間を置かずして飛び込んできた護衛の者たちの手によって、私たちはすぐに湖から引き揚げられた。


 軽く水を吸い込んでしまったため、咳き込みながらも横目で殿下を見つめていると、彼もまた縋るような眼差しでこちらを見ていた。


 殿下は、私に向けてどこか安心したような甘い笑みを向けると、それを機に意識を失ってしまう。


「っ殿下!!」


 思わず彼の下に駆け寄ろうと、膝を立てるも、私を救い上げた護衛騎士の手によって阻まれてしまう。


「セレスティア様、これは、一体……?」


 間もなくして駆け付けてきたエディ様が、驚きに目を見開いて私たちを見ていた。何から彼に伝えるべきなのか分からない。


 殿下は、殿下は大丈夫なのだろうか。


 彼を心配する気持ちと共に、抗いようのない喪失感にも襲われる。


 ああ、これで、この偽りの日々は終わってしまう。終わってしまうのだ。


 あらゆる感情が混ざり合って、言葉にならない。その代わりに、一粒の涙が地面に吸い込まれていった。


 雨上がりの初夏の散歩は、こうしてあまりにも衝撃的な形で幕を閉じたのだった。

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