第14話

「お兄様、あの鳥は何かしら。とってもかわいい声で鳴くのね」


「……そうだね」


「お兄様、この葉っぱ、面白い形をしているわ。ナタリーにも見せてあげなくちゃ」


「好きにするといいよ」


 殿下と共に、湖の畔を散歩し始めてから数分、私たちはこのような調子で会話を繰り返していた。どれだけ私がはしゃごうとも、殿下は気のない返事を返すばかりで、それどころか私が殿下のエスコートの手から離れる度、安心するような素振りを見せる始末だ。


 やっぱりどう考えたってこれは「オリヴィア姫」に向けるべき態度ではないが、追及したところで、いつものようにはぐらかすのだろう。それならばせめてこの時間だけは楽しいものにしようと、私は必死に「オリヴィア姫」を演じ続けた。


 間もなくして、私たちは木々に囲まれた小さな花畑へを足を踏み入れる。木々の間からは湖もよく見えていて、とても美しい場所だった。


「素敵! エディ様が言っていたのはこの場所ね!」


 それほど面積は広くないのだが、辺り一面にネモフィラが咲き乱れている。思わず地面にしゃがみこんで、その可憐な青い花を愛でた。そっと目を瞑って、甘い香りを堪能する。


 しばらくそうしていたのだが、不意に殿下の視線を感じて顔を上げた。目が合えばきっとまた逸らされるのだろうと思っていたのだが、意外なことに、殿下はそのまま私を見下ろしていた。だが、どこか怪訝そうな表情だ。


「……お兄様?」


「……どうしてだろうな、お前の口からエディの名が出るのが……何だか不思議でならないんだ」


 その言葉に、はっとする。確かにエディ様は、オリヴィア姫を失って心を病まれてしまった殿下を診るために、あのお城にやってきたお医者様なのだ。オリヴィア姫とエディ様に、直接の面識があるはずもなかった。


 だからこそ、私の演じる「オリヴィア姫」がエディ様の名を口にすることに、どことなく違和感を覚えられたのだろう。そしてそれはやはり、彼が心のどこかでオリヴィア姫の死を正しく認識している証のようにも思えた。


 案外、この偽りの日々の終わりは近いのかもしれない。既に殿下は、私の演じる「オリヴィア姫」をオリヴィア姫と思っていないような素振りを見せていることからしても、その可能性は高いように思われた。


 殿下の婚約者となってから、一か月半と少ししか経っていないが、長いお伽噺が終わるような喪失感を感じて、私は思わず曖昧な笑みを零した。私が素の自分であるときに、よく見せてしまう、可愛らしくない気弱な笑みだ。


 いけない、ここでセレスティアを出しては。終わりが近づいていると予感するなら余計に、この散歩を素敵な思い出にしなければならないのに。


「ふふ、どうしてでしょう? 変なお兄様。それより、もっとこっちにいらして、一緒にお花を見ませんか? 少し摘んで帰って、お城に飾っても――」


 その瞬間、花に伸ばした私の手を、殿下の手が横から掴む。いつもよりもずっと強いその力は、殿下が取り乱したあの三日月の夜を彷彿とさせるには充分だった。


「……お兄様?」


 強張った私の声は、どちらかと言えばセレスティアのものに近かった。殿下もその違和感に気づいていらっしゃるのだろう。淡い青の瞳を僅かに細め、訝しむように私を見つめる。

 

「お前は……本当にオリヴィアなのか?」


「っ……」


 この偽りの日々の核心をつくような疑問に、心臓が凍り付いたように思えた。思わず言葉を失ってしまうが、すぐに気を取り直して弱々しく微笑んで見せる。


「……さっきから変だわ、お兄様ったら」


「……ああ、そうだな、このところの僕はずっとおかしい。お前を相手に、こんな……」


 自嘲気味な笑みと共に、殿下の手が私の頬に伸びる。恋焦がれる人の温かな手の感触に、こんな状況下でもどくん、と胸が高鳴ってしまった。


「本当に、どうかしてしまったのかもしれない。……自分が最低な男だと思いたくないばかりに、お前にこんな妙な疑念を押し付けるなんて……我ながら吐き気がするよ」


「それは……近頃、お兄様が悩んでいらっしゃることと関係しているの?」


 少し踏み込みすぎた質問だっただろうか。殿下は迷うように僅かに視線を逸らしたが、自嘲気味な笑みを絶やさぬまま、再び私をまっすぐに見つめる。


「……お前は、案外僕のことをよく見ているんだね。いつまでも子供じゃないってことか……お前も、僕も」


 不意に、殿下に引き寄せられ、花飾りのついた帽子が花畑の中に落ちていく。


 そのまま、彼の額と私の額がこつりと触れ合った。まるで祈るように瞼を伏せた殿下の白に近い睫毛が、小刻みに震えていた。何かの衝動に耐えるかのような苦し気な表情だった。


「……だけは、僕を一人にしないでくれ。お願いだ」


「……お兄様?」


 錯乱状態に近い何かを感じて、思わず殿下を見つめ続けてしまう。今すぐにエディ様の許へ帰った方がいいだろうか。


 殿下はゆっくりと私から額を離すと、熱に浮かされたような目でじっと私を見ていた。仄暗い翳りが、余計にその目の印象を鮮烈なものにする。初恋の相手にそんな風に見つめられてしまうと、「オリヴィア姫」を演じなければいけないのだと分かっていても、動揺を隠し切れなかった。


 そして私のその戸惑いを助長するように、殿下の指が私の白銀の髪に絡み、指で梳くように頭を撫でられた。その優しい感触にどぎまぎしながらも酔いしれていると、不意に、前髪を掻き上げられ、額に柔らかいものが触れる。

 

 その正体に気づいたとき、私はあまりの衝撃に目の前の殿下をどこか責めるように見つめてしまった。


「っ……お、兄様!?」


 危うく、殿下と叫ぶところだった。ここでよくセレスティアに戻らなかったものだと自分を褒めてあげたい。


「そろそろ行こう。……甘い匂いに酔いそうだから」


 どこか名残惜しそうに私から手を離した殿下は、すぐに立ち上がると、私から視線を逸らしながら手を差し出した。未だ平常心とは程遠い私だったが、殿下の手を借りて何とか立ち上がる。

 

 帽子を被り直し、軽く曲げられた殿下の左腕に手を添えて、私たちは歩き出した。それぞれの事情から、お互いに視線を合わせることもなく、どこか気まずいまま、散歩を再開する羽目になってしまった。


 殿下に口付けられた額は、いつまでも熱を帯びているような気がしてならなかった。

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