第12話
それから更に数日が経って、ようやく青空が顔を覗かせた。
久しぶりに外に出られるのが嬉しくて、私は朝のお茶会の前に早速庭に出て、向日葵の様子を確認し、ナタリーと共に庭を軽く散歩した。
長く続いた雨のせいで、所々地面はぬかるんでいたが、歩けないほどではない。雨上がりの空気を胸一杯に吸い込んで、みずみずしい朝を目いっぱい堪能した。
澄み渡る青空を眺めていると。このところの鬱々とした気分までもが晴れていくような心地だ。
「ご機嫌ですね、セレスティア様」
「ふふ、いい天気だからかしら」
殿下のそっけない態度も、本に齧りつくエディ様の様子も何一つ変わらないままなのは気にかかるが、今だけは清々しい空気を思う存分味わっていたかった。
「……殿下も、ご気分がよろしいといいのだけれど……」
このところの殿下は、お会いする度にどこか思いつめたような顔をしているから心配だ。それも、日に日に憂いが増しているような気がする。
「セレスティア様」
殿下のことを考えていると、ふと、ナタリーに耳打ちされて顔を上げる。噂をすれば影と言わんばかりに、向日葵の迷路の傍にエルドレッド殿下のお姿があった。
「お兄様、おはようございます!」
すぐに「オリヴィア姫」らしい無邪気な声で、私は殿下の元へ駆け寄った。向日葵の迷路を見つめていた殿下はこちらの存在に気づいていなかったらしく、驚いたような表情で私たちの方を振り返る。
「……オリヴィア」
やはり、今日も声に張りがない。どこか陰鬱な雰囲気を醸し出す殿下は、それはそれで素敵だったけれど、やはり心配になってしまう。
「お兄様もお散歩ですか? 久しぶりに晴れましたものね!」
戸惑うような視線にめげることなく、殿下の隣を陣取れば、彼はあからさまに私から一歩引いて距離を取った。どう考えたって「オリヴィア姫」への態度としてはおかしいのだが、ここは気づかない振りをして目の前の向日葵に視線を移す。
夜中も雨が降っていたのだろう。鮮やかな黄色の花弁からは、ぽたぽたと透明な雫が滴っており、それが朝日を反射してとても美しかった。
「とっても綺麗! お兄様、宜しければ一緒に向日葵の迷路を散歩しませんか?」
おねだりするような上目遣いは、オリヴィア姫の十八番だったと聞く。私がやったところで、本来ならばまず誰の心も動かさないことは確かなのだが、私のことを「オリヴィア姫」だと思い込んでいる殿下には効果があるかもしれない。
殿下はしばし私の顔を見つめていたが、やがてどこか気まずそうに視線を背けてしまった。どこか苦し気に揺らぐ淡い青の瞳は、まるで何か大きな葛藤を抱えているようにも見えた。
「……メイドと一緒に行っておいで。僕は、ここで見ているから」
私に目を合わせることも無いままに、殿下はそんな寂しいことを仰る。今までならば、一も二もなく承諾してくださっていたのに、やはりこのところの殿下は少しおかしい。
「……お兄様、何か、悩んでいらっしゃるの?」
思い詰めたような目をして、頑なに私を視線を合わせないようにする殿下を見ているのは、やはり心苦しい。何か明確な悩みがあるのならば、僅かでも力になりたかった。
「お前には関係ないよ」
優しい口調だけれども、それは確かに拒絶の言葉だった。殿下は、「オリヴィア姫」を相手にこんなにもはっきりとした線引きをする人だっただろうか。
端整な横顔には、やはり隠し切れない翳りがあって、その憂いを晴らすことのできない自分の無力さがもどかしかった。一体、私はどうするべきなのだろう。
「やはり、僕は戻ることにするよ。朝食も各自で摂ろう。お前は好きなように時間を過ごすといい」
「……っお兄様!」
有無を言わせずに立ち去ろうとする殿下の後姿に呼びかけるも、殿下はこちらを振り返ることすらしない。
妙な焦りから、殿下を追いかけようとしたそのとき、不意に珍しい人影が姿を現した。
「まあまあ、殿下。そのように冷たくならずともいいでしょう」
このところ図書室にこもりきりだったはずの、エディ様だ。睡眠不足なのか目元にはうっすらと隈があるが、彼自身はというといつもより生き生きとしている。彼の知的好奇心を満たすような興味深い記述でも見つけた後なのかもしれない。
「今日はこんなにも天気がいい。殿下のお仕事も差し迫ったものはないことですし、いかがです? 殿下とオリヴィア様でピクニックにでもお出かけになっては?」
にこにこといつも以上に愛想の良いエディ様を見るのは何だか新鮮だったが、彼の言葉はまさに私にとってはありがたいものだった。このところの殿下と私のすれ違いを見て、助け舟を出してくれる気になったのかもしれない。
「エディ、お前な……」
殿下は、僅かに怒りを滲ませたような目でエディ様を睨んでいた。殿下が友人ともいうべきエディ様相手にそのような表情をなさるのは初めて見た。よっぽど大きなお悩みを抱えておいでなのだろう。
「大丈夫ですよ、殿下。私が見ていますから、何も心配ございません」
「……それでも却下だ。外の空気を楽しみたいのなら、お前がオリヴィアの相手をしてやれ」
「それはいくらなんでも冷たいんじゃないですか? そうでしょう? オリヴィア様」
エディ様の深緑の瞳は、どこか愉し気に歪められていて、もう一押ししろと言わんばかりの意味ありげなものだった。その気配りに感謝しながら、私も私で、ここぞとばかりに殿下との距離を詰める。
「そうですわ! お兄様、湖に連れて行ってくださるという約束だったでしょう? 私、見て見たいわ! 湖の色が、お日様の角度によって変わるのを」
今一度上目遣いでおねだりすれば、やはり殿下はふい、と顔を背けてしまう。その視線の先に何があるのか分からなかったが、やがて殿下はまるで独り言のような調子でぽつりと呟いた。
「……人の気も知らないで」
溜息交じりのその言葉の意味を図りかねていると、殿下はエディ様とナタリーの方を振り返って、渋々と言った形で口を開いた。
「……分かったよ。朝食を終えたら湖に出かけるから、その支度をしておいてくれ」
「まあ、お兄様、ありがとうございます! とっても楽しみだわ!!」
大げさなくらいに喜んで、殿下の腕にしがみ付けば、びくり、と殿下が肩を震わせたのが分かった。その反応を不思議に思って見上げれば、殿下の綺麗な淡い青の瞳と、思ったよりも至近距離で目が合ってしまう。
戸惑うような殿下の瞳は、心なしかいつもより翳りが少ないように思えて、思わず見惚れてしまった。どこか仄暗いままでもこんなに美しいのだ。やはり、この方が晴れやかに笑う姿を、一目でいいから見てみたい。
「っ……分かった、分かったから」
殿下らしくもないどこか落ち着かない振舞で、彼は私を腕から引きはがしたかと思うと、やはり再び私から視線を逸らしてしまう。ちょっと図々しかっただろうかと反省した。オリヴィア姫に関する書類には、彼女はよく殿下にくっついていたと書いてあったから参考にしたのだが、どうもお気に召さなかったようだ。
また失敗してしまった、と肩を落としていると、エディ様が意味有り気な微笑みを送ってくる。思えば、彼は終始この状況を楽しんでいるような気がした。
「……あなた様はどうかそのままで。いずれ、すべて上手くいきますよ」
その言葉の意味は図りかねるが、私を励ましてくれていることに違いはないのだろう。私は曖昧に微笑んで頷くと、まだ見ぬ湖に思いを馳せて、落ち込みかけた気分を無理やり前向きなものへと変えたのだった。
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