第10話(エルドレッド視点)

 オリヴィアから逃げるようにして図書室を後にした僕は、おぼつかない足取りでようやく自分の書斎に辿り着き、扉を閉めるなり、そのままずるずると床に崩れ落ちた。未だに脈は早まったままだ。


 僕はさっき、何を考えた? オリヴィア相手に、一体何を……。


 考えるだけで恐ろしくて、頭を抱え髪をくしゃりと握りつぶす。ぎゅっと目を瞑って視界を遮断すれば、蘇るのは図書室の窓辺で佇むオリヴィアの横顔だった。


 長い睫毛を伏せ、ゆっくりと本のページをなぞる白銀の髪の美少女。その姿には、目を逸らせなくなるほどの、言い知れぬ哀愁が漂っていた。すっきりと整った顔には酷く寂し気な微笑みを浮かべていて、思わずこちらも切なくなるほどだったのに、それがどうしようもなく色気を醸し出していたのだ。


 そして、事もあろうに僕はその横顔に見惚れていた。


 いや、見惚れていただけならばまだ許されたのかもしれない。だが、自分の視線が彼女の柔らかそうな唇に、折れそうなほど細い首筋に向けられていると気づいたときに、これ以上ないほどの背徳感に襲われた。


 彼女の儚げな美しさに酔いしれていたせいか、しばらくはその背徳感の理由すらも分からなかった。だが、間もなくして僕は気づいてしまう。

 

 認めたくないが、僕はあの瞬間、確かに彼女を「妹」ではなく一人の「女性」として見ていたのだ。


 許される、ことじゃない。オリヴィアは血の繋がった実の妹だ。唯一の同腹の兄妹なのだ。神に背くどころか、人としての最低限の倫理すらも踏み越えようとする恐ろしい想いだ。


 こんなこと、今までは絶対に無かったのに。


 確かにオリヴィアはとても愛らしく、誰もを魅了するほどの素晴らしい姫君だったが、僕にとっては大切な大切な妹でしかなかった。たった一人の家族だから、せめて彼女が良い相手に嫁ぐその日までは、僕が兄として、そして親代わりとして彼女を守ろうと決意していた。


 亡き母上や神に誓ってもいいが、僕がオリヴィアに不埒な思いを抱いたことは一度だって無い。兄として彼女を慈しむ以上の想いは、絶対に無かった。


 けれども、このところ――そう、一月ほど前から、オリヴィアはとても綺麗なのだ。少女から女性に成長する時期にあるせいだろうと思っていたが、ちょっとした彼女の表情に心を動かされる自分がいた。


 匂いたつような色香も、少女にしては薄幸そうな儚げな微笑みも、以前のオリヴィアには無かったものだ。無邪気で、ちょっとしたゲームとはしゃぐことが好きな、お転婆なオリヴィアとは全く別の魅力があった。まるで、人が変わったみたいだ。


 ……人が変わった? あれ、そう言えば、オリヴィアは――。

 

「殿下? 失礼しますよ」


 突如として開いた扉と共に、エディが入室してくる。きっと何度もノックしていたのだろうが、茫然としすぎていて気づけなかった。心配性なこの医師は、どこも悪くないというのに、時間さえあれば僕の傍に付き添おうとする。困った奴だ。


「……殿下!? どうなさいましたか? ご気分でも――」


「いや、何でもない。何でもないんだ……」


 床に崩れ落ちていたせいで、エディは血相を変えて駆け寄ってきたが、彼の手を借りるまでもなく自分で立ち上がった。だが、やはり打ちのめされたせいか、自分の声に張りがないのは明らかで、優秀な医師であるエディがその些細な変化を見逃すはずもなかった。


「殿下、何があったのです? ……オリヴィア様も心配なさっていましたよ」


 僕の言動を不審に思ったオリヴィアが、エディをこの部屋に遣わせたのかもしれない。やはり、彼女にもこの動揺が伝わっていたのだと知って、余計に恐ろしくなった。さっと血の気が引いていくのが分かる。


「……エディ、僕がオリヴィアに何かしそうになったら、何が何でも止めてくれ。薬で眠らせても、殴ってくれても構わない」


「突然、何を……?」


 しばらく、オリヴィアに会うのは控えよう。せめて、この動揺が落ち着くまでは。


 大きな溜息をつきながら、僕は席についてテーブルの上で指を組んだ。


 何か過ちがあってからでは遅い。彼女を、実の兄に囚われる不幸な姫君にはしたくなかった。


「……そうだ、オリヴィアの縁談を進めよう。そうすれば、まず間違いは起きないはずだ」


 オリヴィアを――あの魅力的な姫を、他の男のもとへやるなんて。考えただけで黒い感情に心が支配されそうになるのを感じる。だが、その仄暗い感情こそが何よりもオリヴィアにとっての毒であり、脅威であるのだと言い含めて、何とか理性を保った。


 ……駄目だ、僕は、いつの間にこんなに彼女に惹かれていたんだ?


 今気づくことが出来て、良かったのかもしれない。このまま、無意識の内に彼女に惹かれるあまり、何か過ちを犯してしまっていたら、後悔してもしきれなかったはずだ。


「……殿下? オリヴィア様の縁談など……なぜ急にそのようなお話を……?」

 

「……とても言えない。いくら、お前が相手でも……」


 エディはこの城に来てからまだ三年と少ししか経っていないが、共に過ごした時間が長いせいか、既に俺にとっては大切な友人のような存在だった。そのエディに、妹に邪な想いを抱く人間だと知られて見限られるのが怖かった。


 ……そうだ、僕にとって信頼できる者はもう、エディや使用人たちだけなのに。


 そこまで考えて、妙な違和感に囚われる。おかしい、真っ先にオリヴィアのことを思い浮かべるべきなのに、なぜ彼女の名前が出て来なかったんだろう。


 ……オリヴィアは――あの姫君は、僕にとって何なんだ?


「殿下、国王陛下の許しも、オリヴィア様ご本人に気持ちを伺うこともせず、突然にこのような大事なお話を進めるなど、あなたらしくもありません。一度、冷静になって考えましょう。今、ハーブティーでも用意させますから――」


「――冷静になどいられるものか! 僕は……オリヴィアに許されない想いを抱いたんだ。彼女に何かあってからじゃ遅い!!」


 気づけば叫ぶような勢いで、胸の内を占める歪んだ想いを吐露してしまっていた。茫然としたようなエディの顔が視界に入り、ああ、もう何もかも遅い、と項垂れるように椅子にもたれかかる。


「っ……殿下」


 言葉に迷うようなエディの呟きに、思わず自嘲気味な笑みが零れてしまう。僕は、最低な人間だ。


「……これで分かっただろう。しばらくオリヴィアの相手はお前がしてくれ。せめてこの気持ちを理性で押さえられる確信を得るまでは……距離を置きたいんだ」


「……一応伺いますが、その想いはあの方を『オリヴィア様』だと思うからこそのものですか? それとも……近頃のあの方自身を見てそのように……?」


 妙な質問だが、エディの目から見てもこのところのオリヴィアは変化したように見えるのかもしれない。その事実に多少なりとも安心しながら、口を開く。自分でも驚くほどに暗い声だった。


「……後者だ。近頃のオリヴィアは、今までと違うように思えるんだ……。お前もそう思わないか?」


「ま、まあ、違うように思えるというか――」


 別人ですね、と零したエディの呟きを僕は聞き逃さなかった。やはり、この一か月のオリヴィアは誰の目に見ても別人のように変化を遂げているのだ。少女から女性に変わる時期というのは、皆このようなものなのだろうか。


「理由はどうあれ、そういうことだ。オリヴィアのこと、頼んだぞ。……妹に邪な思いを抱くような王子に失望したなら、この城から去ることも止めはしないが――」


「まさか、失望なんて。このまま殿下の想いが叶えばいいと思っているくらいですよ」


 どこか不敵に微笑むエディに、思わずぎょっとしてしまう。何を考えているか分からないときはあっても、倫理観だけはしっかりとしている奴だと思っていたのだが、思い違いだったのだろうか。


「お前……いくら何でもそれは――」


「――傍観者という立場は、こうももどかしいものなんですねえ」

 

 僕の言葉を遮るようにエディは小さく息をつくと、どこか面白がるような笑みを見せた。


「ご安心を、殿下。あなた様が夢から醒めさえすれば、全て解決する問題です」


 夢、そうか、医師のエディからすればこの想いは、夢幻のような一過性の想いだと言いたいのかもしれない。とてもそうは思えないが、時間が解決することもあるということか。


「正直に言って、私も迷っていたんですよ。殿下をその夢からお救いするのが、本当に殿下にとっての幸せなのか……迷いがありましたから。時間が解決してくれることもあるだろう、と、この3年間見守ることにしていたのですが……」


 エディはにやりと笑うと、窓の外を見つめた。その視線を辿って窓の外を見下ろせば、白銀の髪をなびかせてメイドと共に散歩をする少女の姿があった。


「ここに来て、状況は変わったようだ。殿下のためにも、あの方のためにも、僕はあなたを夢からお救いする最善を尽くします。いい加減、殿下にも幸せになって頂きたいですからね」


 時折要領を得ない部分はあるが、要は僕のこの歪んだ想いを忘れさせるような術を探そうとしてくれているのだろう。見限られるかもしれないと思ったが、言葉通り彼は僕の味方だったようだ。


「ありがとう……エディ。お前に相談してよかったよ」


「はい、お話が聞けて良かったです。これでようやく方針が定まりましたから」


 それでは失礼します、とエディはいつになく晴れやかな笑顔で礼をして去って行った。普段温厚で冷静な彼が浮かれているときは、妙な薬を開発しただとか、ずっと気になっていた病の治療法が見つかっただとか、彼の知的好奇心をくすぐるような出来事があったときに限るのだが、今回の話も医師であるあいつの心を動かすには充分だったらしい。


 まあ、あいつの事情はいい。エディの対策と、時間が解決してくれるかもしれないという淡い期待が、いくらか僕を落ち着かせていた。


 ゆったりと席に座り、もう一度、窓の外を見下ろしてみる。


 白銀の髪の少女が、メイドと共に何やら笑い合っていた。その眩しいくらいの光景に、思わず頬を緩める。


「……本当に可愛いな、僕のは」


 ごく自然に口から零れた自分の言葉に、思わずはっと息を飲む。


 セレスティアとは一体誰だろう。近頃読んだ小説に、そんな名前の女性が出てきただろうか。


 それにしたって、よりにもよってオリヴィアの名前を呼び間違えるなんて。先ほどの動揺のせいか、相当疲れているらしい。


 ここはおとなしく、ひと眠りしてみるか、と大きな溜息をつく。僕はより深く椅子にもたれかかりながら、窓越しに響く可憐な少女の声を子守唄に、束の間の夢へと誘われたのだった。

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