第9話

 翌朝の殿下は、拍子抜けするほど普段通りの殿下だった。多少なりとも身構えていた自分が、いっそ馬鹿らしく思えるほどだ。


 恒例の朝のお茶会から始まり、静かで穏やかな一日が幕を開ける。殿下は午前中に片付けなければならない書類があるとのことだったので、私は城の内部にある巨大な図書室に足を運んでいた。


 心を病んでしまわれているエルドレッド殿下だったが、殿下が所有されているこの辺りの森や、鉱山、ちょっとした領地などの管理はつつがなくこなしているらしい。周りに優秀な部下がいるおかげもあるのだろうが、第六王子として最低限の義務は果たしているのだ。


 ただ、逆に言えば必要以上のことはしなかった。噂に違わぬ聡明な王子様であるにもかかわらず、決して政治的な場に顔を出したりはしない。国王陛下や王太子殿下のお決めになる政策に意見を述べることもなかった。


 それは、オリヴィア様がご存命のころから変わらぬようで、これも殿下なりの身を護る術なのかもしれない。なるべく目立たないようにすることで、殿下のお兄様たちに目をつけられずに済むのだろう。王室内の争いは、私のような没落寸前の貴族には想像も及ばぬほど苛烈なもののようだった。


 殿下のお兄様方が、皆、第五王子レナード殿下のように誠実でお優しい方だったならよかったのに。


 あるいは既に命を落とされてしまったご兄弟の中には、エルドレッド殿下に親切になさる王子様もいたのかもしれないが、いずれにせよ、今のエルドレッド殿下に味方が少ないことは確かだった。


 私はもちろん殿下の味方だけれど、当の殿下は大嫌いなセレスティアに好かれたところでちっとも嬉しくないだろう。おまけに私の実家は没落寸前のマレット侯爵家。殿下の後ろ盾になれるだけの財力も権力もない。


 図書室に並べられていた古い恋愛小説をぱらぱらと捲りながら、ぼんやりと、殿下はどのような女性が好きなのだろう、と思いを馳せる。オリヴィア姫を溺愛するエルドレッド殿下の姿しか知らないせいかもしれないが、やはり気の強い女性よりは、皆に愛されるような可愛らしいご令嬢なんかがお似合いな気がしてしまう。

 

 どこかの裕福なお家の姫君と、相思相愛の日々を送ることが出来たなら、殿下の心も真の意味で癒されるのだろう。そうしていつか、あの端整なお顔に心底幸せそうな微笑みを浮かべるのだ。


「見てみたいなあ……」


 想像しただけで胸の奥が温かくなるような気がするのだから、恋の力は偉大だ。叶わない恋だと分かっていても、殿下の幸せを思うだけで私も満たされるのならば、悪いことばかりではない。


「何を見てみたいんだい、オリヴィア」


 本棚の影から声をかけられて、思わずびくりと肩を震わせる。足音が近づいてきたかと思えば、慈しむような眼差しを浮かべる殿下が私の隣の席を陣取った。そのまま私が開いていた本のページを覗き見る。


「ああ、湖を見たかったのか」


 遅れて私も本に視線を落とせば、小説の主人公が恋人と共に湖で散歩をしている場面だった。しつこいほどに、湖の様子が美しく描写されている。まさか殿下が幸せそうに笑う姿を見てみたいと思っていた、なんて言えるはずもないので、これ幸いと私は夢見るように本を抱きしめてみせた。


「……ええ、そうなの。時間によって色が変わるのでしょう? 素敵だわ」


「じゃあ、今度よく晴れた日に、城の近くの湖まで行ってみようか」


 それは、意外な申し出だった。今まで殿下と幾度となく散歩は繰り返しているが、城の敷地内から出たことは一度も無かったのに。


「……いいんですか?」

 

「流石に一人では行かせられないけど、僕と一緒ならいいよ。可愛いオリヴィアの望みは叶えてやらなくちゃ」


 やはり、過保護なほどに優しいお兄様だ。ここまで殿下に愛されていたオリヴィア姫のことが、思わず羨ましくなってしまうほどに。


「ありがとうございます、お兄様」


 約束ですよ、と殿下のお顔を覗き込めば、彼は満たされたように笑う。相変わらず虚ろな瞳だけれど、それでも笑ってくれると嬉しくなる。


 いつまで続くか分からないこの温もりに慣れてしまうのは、何だか怖い気もするけれど、それでもこの瞬間だけは私も幸せだった。


 抱きしめていた本をテーブルに置き、そっとページを撫でてみる。相当古い本なのか、近頃の紙よりも多少ざらついている気もしたけれど、古い本独特の香りに何だか気分が落ち着いた。


 きっと、殿下と過ごすこの日々は一生の宝物になる。いつか殿下がオリヴィア姫の幻覚から醒めて、大嫌いな私のことをお城から追い出したとしても、この温かい日々の記憶があればそれだけで私は生きていける。

 

 殿下に婚約破棄された令嬢となれば、いよいよ嫁ぎ先なんて見つからないだろうけれど、今回の婚約でいただいた支援金を元手に、侯爵領の再興を図るために尽力する一生も悪くないかもしれない。


 この穏やかな一日を切り取って、本のようにいつでも読み返せたらいいのになあ、と私は大きな窓からそっと庭を見やった。ここから向日葵の迷路は見えないけれど、代わりに夏の風に揺れる森の木々を眺めることが出来る。


 耳を澄ませば、風の音も聞こえそうだ。自然と頬を緩め、軽く目を伏せて外の世界の音に聞き入っていると、不意に隣で息を飲むような音が聞こえた。


「……っ」


 何気なく殿下を見やれば、彼はいつになく戸惑ったような眼差しで私を見ていた。淡い青色の瞳にかかる翳りはいつもより少ないが、代わりに動揺を表すかのように瞳が大きく揺れていた。心なしか、耳の端も赤い。


 まさか、また昨夜のような発作が出たのだろうか。この時間、エディ様はどちらにいらっしゃったかしら、と記憶を辿りながら私はそっと殿下の腕に触れる。


「……、どうなさいました?」


 昨夜と同じような過ちは繰り返さない。内心の動揺を抑え込んで、「オリヴィア姫」を演じれば、殿下は不意に席を立って私の手を振り払った。


 とても「オリヴィア姫」に対する行動とは思えぬ仕草に、思わず目を丸くしてしまう。彼に嫌われているセレスティアならともかくとして、「オリヴィア姫」の手を振り払うなんてやっぱり異常だ。


 昨夜のように殿下が倒れてもすぐに受け止められるように、と私もそっと席を立つ。不用意に彼に触れるような真似はしないが、どうしたって心配だった。


「……お兄様?」


 殿下は狼狽えるように私を見つめていたが、やがてどこか苦し気に視線を逸らした。


「いや……何でもないよ、オリヴィア。……どうかしているみたいだ、こんな、恐ろしいことを考えるなんて……」


「何をお考えになったのですか?」

 

 話が読めないので直球に尋ねれば、彼は自身の口元に手を当てて、打ちのめされたように首を横に振った。


「とても……お前に言えるような話じゃない。ごめん、ちょっと、一人にしてくれ……」


 そのままふらつくような足取りで私から離れて行く殿下の後ろ姿を、見送ることしか出来なかった。どうやら昨夜のような錯乱状態ではなさそうだが、どうも調子が悪そうだ。


 これはエディ様にご報告差し上げた方が良いかもしれない。開いていた本を本棚に戻し、早速私はエディ様のもとへと急いだのだった。

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