第8話

 ソファーに運ばれた私は、メイドたちによって服装を直されたり、髪を整えられたりしていた。もう眠るだけなので気にする必要もないのだが、私が涙を見せたせいで彼女たちに余計な心配をかけたのかもしれない。メイドたちはいつも以上に甲斐甲斐しく私の世話をしてくれていた。


「っ……セレスティア様、痣が……」


 使用人たちの中でも一等親しくしているメイドのナタリーが、小さな悲鳴を上げる。彼女の視線の先を辿れば、私の二の腕のあたりにくっきりと浮かぶ赤い痣があった。きっと、殿下に強く腕を掴まれた際に出来たのだろう。


「このくらい、何てことないのよ。気にしないで、ナタリー」


「ですが……」


 不安そうに瞳を揺らすナタリーににこりと笑ってみせると、私室のドアがノックされた。メイドの一人が駆け寄って、来訪者を確認する。


 どうやら、扉の先にいるのは殿下の診察を追えたエディ様らしい。すぐに入室を許可して、私はエディ様に詰め寄った。


「っ……殿下のご様子はいかがですか?」


「問題ありません。感情が高ぶって、少し疲れてしまっただけでしょう。目覚めればきっといつも通りのエルドレッド殿下ですよ」


 エディ様は安心させるように私に微笑みかける。その言葉に、ようやくほっと息をつけた自分がいることに気が付いた。


「……良かった。大事にならなくて」


「セレスティア様は殿下をとても大切にされていらっしゃるんですね」


 エディ様はエスコートするように私の手を取ると、ゆったりとした仕草で再び私をソファーへ座らせた。


「ですが、あなたも休まなければ。驚いたでしょう、殿下に突然詰め寄られて……」


 彼もまた私と視線を合わせるようにしてソファーに腰を下ろすと、傍にいたメイドの一人に何やら耳打ちをする。


 間もなくして、エディ様に指示を受けたメイドの手によって、目の前のテーブルに爽やかな香りのハーブティーが運ばれてきた。


「飲んでください、気分が落ち着くはずです」


 理知的な深緑の目を僅かに細めて、エディ様は私の目の前にティーカップを置いてくれた。私は勧められるままに、湯気の立つハーブティーに口をつける。


 すっとした後味を楽しんで、ほうっと息が漏れる。温かいものを体に入れたことで、ようやく人心地がついた気がする。


 エディ様は私の様子をしばらく観察しているようだったが、やがて静かに微笑んでゆったりとした口調で話しかけてきた。


「涙が止まりましたね、良かった」


「……ご迷惑をおかけいたしました」


 殿下の心の平穏のためには、もっと完璧に「オリヴィア姫」を演じなければならなかったのに、殿下の動揺に流されて泣くことしか出来なかった自分が情けない。エディ様にも迷惑をかけてしまって、余計に肩身が狭かった。


「殿下に何があったのか伺っても?」


 エディ様はあくまでも穏やかな調子で尋ねた。殿下のお抱えの医師として、殿下の身に起こったことは把握しておきたいのだろう。私は、先ほどバルコニーで起こった出来事を包み隠さずエディ様にお話した。


「……殿下は、少しずつ幻覚から醒めようとしておられるのでしょうか?」


 オリヴィア姫の代わりになりたかった、こんな兄でごめん、と繰り返す殿下の悲痛な声が蘇って、息がつまる。オリヴィア姫亡き今、彼が姫の幻覚を見なくなることが彼にとっての幸せなのかと問われると、答えに迷う部分があった。


「……あなたが来てからというもの、殿下の御心は確実に良い方向へ動き出しています。いい刺激になっているのでしょう。ですから、セレスティア様の仰る可能性も十分にあり得ると思いますよ」


 もしも殿下が、オリヴィア姫の幻覚から目覚めたら。


 そうしたら、あの淡い青色の瞳を覆う翳りは消えるのだろうか。時折見せる思い詰めたような表情も、晴れ晴れとした穏やかな微笑みに代わるのだろうか。


「……殿下にとっては、オリヴィア姫の幻覚を見ている今と、いつかご自分を取り戻されることの、どちらが幸せなのでしょうか?」


「私は、殿下に仕えて数年の医師に過ぎませんから、大それたことは言えませんが……」


 エディ様は柔らかに笑んで、ぽつりぽつりと語り始める。医師としてというよりは、殿下に仕える臣下の一人として、というような語り方だった。


「たとえオリヴィア姫の幻覚から醒めたとしても、今の殿下であれば十分に幸せになれるはずです。セレスティア様、あなたがいるから」


「……私が?」


 はい、とエディ様はまるで自分のことのように嬉しそうに頷く。


「殿下のために、妹姫の身代わりさえも進んで引き受けるほどお優しいセレスティア様だ。あなたと一緒にいれば、きっと殿下の寂しさも薄れていくはずです」


「そう、でしょうか……」


 「オリヴィア姫」を演じることは、本当に優しさなのかと言われたら迷うところだ。真の優しさであれば、罪悪感など生まれないはずなのだから。


 エディ様は、はっきりしない私の答えに困ったような笑みを見せながらも、膝の上で長い指を組んで、遠い過去を見つめるように静かに告げる。


「……本当に、感謝しているのですよ。あなたが来る前のこの城は、もっと陰鬱で、重苦しい場所だったんですから」


「でも、私は――」


 エディ様に認めていただけたことはとても嬉しい。だが、殿下がオリヴィア姫の幻覚から醒め、私が誰なのか分かったら、きっとその日のうちに殿下は私を追い出すはずだ。王族らしからぬ暴言を吐いてでも、遠ざけたいほどに私のことがお嫌いなのだから。


 だが、そのあたりの事情をエディ様にお話しするのも妙な話だろう。彼が私を認めてくれたその事実だけをありがたく受け取って、私は曖昧な笑みを浮かべた。


「……殿下が幻覚からお目覚めになったら、エディ様のことは一層頼りになさるでしょうね。何年間も殿下のお傍でお心をお守りしてきたんですもの、エディ様はきっと、殿下にとってかけがえのない存在になりますわ」


「……セレスティア様?」


 多少、不自然な話題転換だっただろうか。私の心の動きを探るようなエディ様の視線から逃れ、そっとハーブティーを口にする。会話が途切れたことで、置時計の音が聞こえるほどの静寂に包まれてしまった。


 だが、不意に訪れたその沈黙を破ったのは、意外なことにナタリーだった。


「っ……エディ様、セレスティア様の腕を診てくださいませ。痣が出来ているんです」


「痣?」


 ナタリーは音もなく私に近付くと、私の肩にかけられていたストールを取り払い、エディ様によく見えるよう私の腕を軽く上げた。


 見た目こそ多少ぎょっとするかも知れないが、大して痛みも感じないというのに。この城の住人は、殿下を始めとして心配性な人間が多い気がする。悪い気はしないが、子ども扱いされているかのようなくすぐったさも少なからずあった。


 失礼します、と一言断ってから、エディ様の指が私の腕に触れる。思ったよりも、冷たい指先だった。


 ……そう言えば、殿下の手は、とても温かかったわね。


 ふとした拍子に殿下のことを思い出してしまうのは、このところの私の悪い癖だ。恋に落ちた少女というのは、皆こういうものなのだろうか。


「どうして、こんな痣が……?」


「エディ様、大丈夫ですわ。二、三日もすればこのくらい――」


「殿下に掴まれたんです! いくら殿下でも、こんなになるまで腕を掴むなんて、ひどい……」


 ナタリーは今にも泣き出しそうな勢いで事情を説明した。この部屋で私の就寝支度をしていた彼女だから、バルコニーでの出来事の一部始終を目撃していたようだ。


「紳士的ではありませんね、殿下らしくもない」


 エディ様は小さく溜息をつき、そっと私の腕を下ろした。


「あたし、このところの殿下は見ていられません! セレスティア様はオリヴィア様じゃない、殿下の奥様となる方なのに……っ」


 ナタリーとは意気投合することが多かったためか、思った以上に彼女は私に感情移入しているようだ。主である殿下を非難するのはいかがなものかと思ったが、それくらいに私に同情してくれている証なのだろう。


「……いいのよ、ナタリー」


 私にとっては、この日々は確かに幸せなのだ。たとえ歪んでいようとも、本当の笑顔なんて一つもないのだとしても。

 

 ナタリーはきっと、殿下がオリヴィア様の幻覚から醒めて、殿下が私を婚約者として扱うことを望んでいるのだろうが、残念ながらそんな日は来ない。


 私は、殿下に嫌われているセレスティアなのだから。


「……ふふ、少し疲れてしまったみたい。夜もだいぶ遅いですし、私、そろそろ横になりますね」


 多少強引な形で席を立てば、エディ様やナタリーを始めとして私を憐れむような眼差しが向けられる。殿下を騙している私の事なんて、可哀想と思う必要なんてないのに。


「エディ様、おやすみなさいませ」


 私は肩に羽織ったストールが落ちないよう片手で押さえながら、簡易的な礼をした。どこかもやもやとした気分は晴れぬままに、眠れぬ夜は更けていくのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る