第7話

 その夜、私は私室のバルコニーでぼんやりと星空を見上げていた。綺麗な三日月が浮かぶ、静かな夜だ。


 この城が森の中にあるお陰か、夏の夜でも少しも暑苦しさを感じない。むしろ、森から吹き抜ける夜風は爽やかなほどで、その心地よさに軽く目を閉じた。


 夜は夜で、昼間とはまた違う旋律が森から聞こえてくる。夜行性の鳥なんかが活動し始めているのだろうか。


 過保護なエルドレッド殿下は、深い森に入る許可をなかなか下さらないけれど、いつか二人で散歩でもしてみたいものだ。

 

 ……エルドレッド殿下と歩くなら、どこだって楽しいに違いないわ。


 思わず頬を緩ませながら、叶うかどうかも分からない殿下とのお散歩を思い描いていると、不意に背後でばたん、と大きな音が響く。どうやら、私室のドアが勢いよく開けられたようだ。


 驚いて振り返れば、青ざめた表情のエルドレッド殿下が部屋に飛び込んできたところだった。この城に来て随分経つが、このように焦った様子のエルドレッド殿下は見たことがない。


「……殿下?」


 普段とのあまりの豹変ぶりに、「オリヴィア姫」を演じることも忘れて殿下を見つめてしまう。幸いにも、殿下に私の戸惑った声は届いていなかったようで、彼は私の発言を咎めることも無く、突然に腕を掴んできた。


 夜用の薄手のドレス越しに、殿下の指が痛いほど食い込む。いつものエルドレッド殿下らしくない乱暴な仕草にただ戸惑うばかりで、恐る恐る殿下の顔を見上げれば、彼は酷く翳った瞳で私を見下ろしていた。


「……オリヴィア、そうだよね、オリヴィアはこうして、ここに……」


 まるで譫言のような言葉を繰り返しながら、彼はきつく私を抱きしめた。恋焦がれる相手との初めての抱擁だが、残念ながらその感触に酔いしれるような状況にはなく、ただただ狼狽えるように殿下を見つめてしまう。


「……一体、どうなさったの?」


「おかしいよね、三日月を見ていたら……どうしてかわからないけど、お前の葬列が思い浮かんだんだ。縁起でもない、どうかしている……」


 その言葉に、どくん、と心臓が跳ねた。オリヴィア姫の葬儀が行われたのも、そう言えばこのくらいの季節のことだった。


 三日月を見てオリヴィア姫の葬儀を思い出したということは、もしかすると彼女が亡くなった夜には、今夜のような美しい三日月が浮かんでいたのかもしれない。オリヴィア姫がいない現実から目を逸らし、幻覚を見続けるエルドレッド殿下の心の中にも、確かに姫を失った悲しみが眠っているのだと思い知る。


「お前の手足に生々しい傷跡がある光景も浮かんだんだ……大丈夫だよね、オリヴィア……あれは、ただの悪い夢だよね?」


 殿下は私を抱きしめたまま、縋るような眼差しで私を見つめる。その悲痛な表情に、思わず目頭が熱くなってしまった。


 オリヴィア姫が亡くなったのは、3年前。国王陛下に会いに行った帰り、馬車から降りて休憩している最中に、崖から滑り落ちて亡くなった。現場は入り組んだ森のような地形で、地面に高低差があることが分かりづらく、オリヴィア姫はちょっとした拍子に転落したのだと推測された。


 もっとも、それは表向きな事情で、オリヴィア姫を亡き者にしようと考えた不届き者が、事故に見せかけた暗殺を仕掛けた可能性も十分に考えられる。皆、表立って口には出さないだけで、実はオリヴィア姫は暗殺されたのだと思っている人間の方が圧倒的に多いはずだ。


 崖から落ちて亡くなった姫のご遺体には、きっと痛々しい傷がいくつも残されていただろう。そしておそらくそれを、エルドレッド殿下は見ているのだ。その光景は、オリヴィア姫の幻覚に溺れる今でさえも、消えることのない苦しい記憶となって、彼の心を蝕んでいるらしい。


「……お願いだ、オリヴィア、僕を一人にしないでくれ。僕の家族はお前しかいないんだ、頼む、オリヴィア……」


 私を抱きしめながら、殿下は何度も感触を確かめるように私の頭を撫でる。その手の温もりに、いつしか私は涙を零していた。


 本来ならば、「オリヴィア姫」を演じる私がここですべきことは一つしかない。「一体何を怖がっていらっしゃるの、変なお兄様」と笑ってみせて、そっと殿下を抱きしめ返す。いつもの私ならば難なくやってのけることのはずだ。


 それなのに、今だけはどうしても言葉が出て来ない。手が動かない。


 初めて直に殿下の悲しみに触れ、身動きが取れなくなってしまったのだ。温もりと共に殿下の抱える孤独と絶望が伝わってきて、ぼろぼろと涙を流し続けることしか出来ない。


「オリヴィア……どうして僕を置いて行ったんだ」


 その言葉に、私は思わず目を見開く。まじまじと殿下の顔を見上げれば、彼は暗い瞳で確かに私を見下ろしていた。


 それは、明らかにオリヴィア姫の死を前提とした言葉だった。今まで一度だって、彼がオリヴィア姫の死を認識していることを匂わせたことは無いというのに。


 ……もしかして、オリヴィア姫の幻覚から目覚めようとしているの?


 どくん、と心臓が再び跳ねる。これが喜ばしいことなのかどうかすら、今の私には判断できなかった。それくらいに、私は動揺していたのだ。


「オリヴィア、お前の代わりに僕が死ねたら、どんなに、どんなに良かったか……」


 瞬間、殿下の体が突然に脱力する。慌てて彼に抱きつくようにして姿勢を保とうとするも、私の腕力では支えきれず、二人して床に崩れるような形になった。辛うじて殿下の頭を膝に乗せて、彼が苦しくないように体勢を整える。


「ごめん、オリヴィア……駄目なお兄様で、ごめんね」


 微睡むような曖昧な瞳で、殿下は私の頬に手を伸ばした。その拍子に、彼の目尻から一粒の涙が零れ、横顔に流れ落ちていく。


 私は何も言わず、ただ頬に伸ばされた殿下の手を握り返した。その拍子に一瞬だけ、殿下の表情が柔らかくなる。


 そして、それを最後に、殿下は私の膝の上で眠りについてしまった。


 殿下の手を握りしめていない方の手で、私は彼の白銀の髪に触れた。思ったより柔らかい髪を指に絡ませるようにして、何度も何度も彼の頭を撫でる。


「っ……」


 涙が、止まってくれない。眠る殿下の頬にぽたぽたと雫が落ちていく。必死に手の甲で拭うも、次々に溢れ出す涙は誤魔化しようが無かった。


「っ殿下!? セレスティア様!?」


 ほとんど叫ぶような声と共に駆け寄ってきたのは、殿下のお抱えの医師エディ様だ。彼らしくもない慌てぶりも、今の私には気にする余裕が無い。それほどに、殿下の悲しみに打ちのめされていた。


 ほどなくして駆けつけたメイドたちに毛布で包められ、エディ様にソファーへと運ばれるその寸前まで、私は握りしめた殿下の手を離せずにいたのだった。

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