第6話
それから数日後、ジャスティーナ城には珍しい客人が訪れていた。
エルドレッド殿下と共に囲むいつのもお茶会の中で、赤髪の客人はどこか引きつったような表情で私たちを見つめている。
「ほら、オリヴィア、こちらのクッキーも美味しそうだ。僕の分もあげよう」
隣に座って甲斐甲斐しく私の世話をしてくれるのは、他でもないエルドレッド殿下だ。すっかり「オリヴィア姫」の演技に慣れたこのところの私ならば、「もう、お兄様ったら、そんなにわたくしに食べさせて太ってしまったらどうするの?」と軽やかに返せるはずなのだが、今だけは例外だ。
赤髪の客人――第五王子レナード殿下が同席しているお茶会だからだ。
「だ、大丈夫ですわ、私、お腹いっぱいで……」
一人称も話し方も、つい、セレスティアのものにつられてしまう。傍から見れば大した変化でもないだろうに、エルドレッド殿下にとっては相当衝撃的な返しだったらしく、見るからに肩を落とし、その端整な顔立ちから微笑みが消え去っていく。
この反応に、私は弱いのだ。殿下がしょんぼりとしていたら、居てもたってもいられなくなってしまう。
これが惚れた弱みというやつなのかしら、と内心小さな溜息をつきながら、私は恥を忍んでレナード殿下の視線を無視することに決めた。こうなったら半ば自棄だ、いつものように朗らかに笑ってみせよう。
「……なーんて嘘ですわ。お兄様が下さるお菓子なら、いくつでも食べられそうですもの!」
大げさなくらいにはしゃいで見せれば、エルドレッド殿下はぱっと顔を明るくさせる。この方は、本当に妹姫を慈しんでおられたのだな、と改めて思い知った瞬間だった。
「相変わらず可愛いことを言うね、オリヴィアは」
心底幸せそうに笑うエルドレッド殿下を見ると、彼を騙しているという罪悪感にやはり胸は痛んでしまうけれど、それ以上に、恋い焦がれる相手の笑顔を見られたことが嬉しかった。歪な形かもしれないが、私にとってもささやかな喜びを感じる瞬間なのだ。
幸せだと言い切るには複雑で、嘘ばかりの関係だけれど、それでもエルドレッド殿下の隣にいれば自然と頬が緩む。殿下の温もりに、香りに、少しずつ安心している私がいた。
本来ならば、殿下に嫌われている私が知りようのなかった温かい時間だ。
そして、殿下がいつか「オリヴィア姫」の幻覚から醒めるまでの、限られた儚い日常でもある。
ちくり、と心の奥底が痛んだような気がして、思わず眉をしかめた。その拍子に、テーブルを挟んで向かい側に座るレナード殿下と目が合ってしまう。
レナード殿下の琥珀色の瞳は、まるで憐れむような眼差しで私を見つめていたのだった。
お茶会を終えた後、「話がある」とレナード殿下に捕まったのは自然な成り行きだったのかもしれない。そもそも今回の急な来訪だって、私とエルドレッド殿下の仲を心配してのことだったのだろう。
エルドレッド殿下は既にご自身の書斎に戻られた後だったので、私たちは誰に気兼ねすることも無く話をすることが出来た。
「……まさか、兄と呼ばせているとは思わなかった」
席をティーテーブルからソファーへと移したレナード殿下は、運ばれてきた紅茶に手を付けることも無く、どこか申し訳なさそうに口を開いた。私は私で、どう答えてよいのか分からず、緩やかな湯気の立つ紅茶を口に含む。
今はエルドレッド殿下の目が無いので、「オリヴィア姫」を演じているときのようにお砂糖をたくさん入れる必要はない。茶葉の香りを心行くまで楽しんでから、ほっと息をついた。
「辛くないか、セレスティア嬢。婚姻の話を進めたのは俺だとはいえ……あいつがここまで君にオリヴィアの幻影を押し付けているのは……正直、予想外だった」
贖罪のようなレナード殿下の言葉を、私は柔らかく微笑んで受け流した。彼も彼で、エルドレッド殿下を欺いていることに罪悪感を覚えているのかもしれない。
だが、その後悔ももう遅い。こんな歪な形でもいいから、エルドレッド殿下の御心をお慰めしたいと望んだのは、他ならぬ私たちなのだから。
「辛くなんてありませんわ、レナード殿下」
ティーカップを置き、真っ直ぐに殿下を見つめれば、琥珀色の瞳が戸惑うように揺れた。
「ここでの生活は、まるで夢のようです。私、日に日に好きになっているのですよ。この森も、城も、使用人も……エルドレッド殿下のことも」
「……セレスティア嬢」
一見無骨そうに見えるレナード殿下だが、たったこれだけの言葉で、私がエルドレッド殿下に抱く気持ちを察してしまったようだ。伊達にご令嬢たちの熱烈な告白を捌いてきたわけではないらしい。
「君が弟のことを憎からず思ってくれるのはとても嬉しいが……あいつが君にオリヴィア姫の面影を見ているこの状況じゃ……」
「ええ、まず叶うはずのない想いだと承知しております」
亡きオリヴィア姫を溺愛するエルドレッド殿下だが、言うまでもなくそこに妹以上の感情はない。
ただ、普通の兄妹以上に、お二人にとってお互いの存在がかけがえのないものであったことは確かだ。幼い頃に母君である三番目の側妃様を亡くされてから、お二人は殆ど二人きりで生きてきたようなものなのだから。
三番目の側妃様は、国王陛下のお妃様の中で最も美しい方だったことで有名だが、身分自体は他のお妃様たちには到底及ばぬ低さだった。れっきとした子爵家のご令嬢ではあったけれども、王国に名だたる公爵家や侯爵家の姫君と比べると、どうしたって後ろ盾は弱かったのだ。
そのため、エルドレッド殿下とオリヴィア姫は、政治の場ではほとんど忘れ去られた存在だと言っても過言ではない。国王陛下は、亡き側妃様に生き写しのオリヴィア姫をそれはそれは可愛がっておられたようだけれども、国王の寵愛だけでは、政治的な権力を得るには決定打に欠けていたように思う。
政治的利用価値が低いとみなされたエルドレッド殿下とオリヴィア姫は、側妃様亡きあと、使用人たちの手を借りながら、二人でこの城を守ってきたのだ。普通の兄妹よりも絆が強くなるのも頷ける。
エルドレッド殿下が、たった一人の家族を守ろうとするあまり、オリヴィア姫に過保護に接していたのも、ごく自然なことなのかもしれなかった。
……オリヴィア姫を失ったときの殿下の絶望は、いかほどだったかしら。
両親も健在で、身近な人を亡くしたことも無い私だったが、大切な家族の一人でもかけることを想像しただけで胸が痛む。ましてや、エルドレッド殿下は、オリヴィア姫というたった一人の家族を亡くされたのだ。心を病んでしまうのも無理はない気がした。
「……セレスティア嬢、あなたはそれでいいのか」
レナード殿下の静かな言葉に、はっと我に返る。ああ、そう言えば、私の淡い初恋について、目の前の優しい王子様は心配してくださっているのだっけ。
でも、エルドレッド殿下の抱える深い悲しみに比べたら、私の身勝手な恋心なんて……。
「……欲を言うなら、いつか、エルドレッド殿下の本当の笑顔を見てみたいものですわね」
私は、エルドレッド殿下の本当の表情をたった一つしか知らない。5年前のあの夕暮れに、大嫌いな私に向かって暴言を吐いた、あの怒りに歪んだ顔しか見たことがないのだ。
今、私が見ているエルドレッド殿下の笑みは、「オリヴィア姫」の幻覚に笑いかけているに過ぎない。殿下の、本当の表情ではないのだ。
だから、願わくば、彼のあの淡い青色の瞳から翳りが消えて、心の底から幸せそうに笑う姿を見てみたかった。
いつの日か、悲しみに凍てついた殿下の心を溶かす鮮烈な恋に、優しい愛に、彼が出会えたらいいのに。
殿下を欺いている私が何かを望むなんておこがましいのかもしれないが、せめてそれだけは祈らせてほしかった。
……彼に嫌われている私では、到底その役目は果たせそうにもないから。
「セレスティア嬢……」
レナード殿下の琥珀色の瞳が、悲痛に歪められる。別に、彼の同情を買いたくてこんな話をしたわけではないのだ。エルドレッド殿下が正気に戻ったら用済みになる女を相手に、そんな表情をしないで欲しかった。
「さて、そろそろお兄様の所へ行かなくちゃ。あんまり遅いと、きっとまた心配なさるわ」
レナード殿下を前に、敢えて気丈に振舞えば、やっぱり彼は切なそうに眉をしかめた。エルドレッド殿下に恋をしてしまったのは浅はかな私のせいなのだから、彼がそんな表情をする必要なんてどこにも無いのに。
困った王子様ね、と思わず頬を緩ませながら、傾いた橙色のお日様を眺める。思いやり深く、優しい性格は、腹違いの兄弟でも変わらないものらしいと知った夕暮れだった。
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