第5話

 その日の午後は、エルドレッド殿下の提案に従って、二人でお城の庭を散歩した。


 外から見ると、どことなく陰鬱な雰囲気が漂うジャスティーナ城だが、どこもかしこも手入れは行き届いていて、使用人たちが丁寧な暮らしをしているのだということが分かる。この庭だって例外ではない。


「まあ、とっても綺麗だわ!」


 エルドレッド殿下に案内された先には、見事な向日葵の迷路があった。どの花も太陽の方向を向いて咲き誇っている。向日葵は今までもよく目にしていたが、迷路を作れるほどの規模のものは見たことが無かった。どこまでも続くような鮮やかな黄色が目に眩しい。


「前に入ったときには、お前は最後まで辿り着けなかったね」

 

 すぐ隣で、エルドレッド殿下が悪戯っぽく笑う。確かに背の高い向日葵の迷路の中では、オリヴィア姫が迷ってしまわれるのも無理はなかった。


「今はきっと大丈夫よ! お兄様、競争しましょう!」


 オリヴィア姫は、ちょっとしたゲームのようなことが好きだったと聞く。彼女ならばきっと、エルドレッド殿下にこのように提案するだろうと思っての発言だった。


「僕はもう道を知っているからなあ……。先に行って、オリヴィアを待つことにするよ。五分ほど後にオリヴィアもおいで」


「分かりましたわ! きっとすぐに追いつきます!」


 転ばないようにね、と過保護な注意をしながら、私が被っていた帽子をより深く被り直させると、殿下は向日葵の迷路の中に消えていった。髪も瞳も色素の薄い彼は、鮮やかな黄色の中に溶け込んでしまいそうな儚さを漂わせていた。


「……このところの殿下は、とても楽しそうだ」


 殿下の後姿を見送っていると、不意に物静かな青年の声に話しかけられた。声のした方を振り向けば、殿下のお抱えの医師であるエディ様が、柔らかく微笑んで向日葵の迷路を眺めていた。殿下の体調を心配して、こっそりついてきたのだろう。


「セレスティア様のお陰です」


 エディ様は、知的な瞳を僅かに細めて、感謝するかのように私に視線を移した。私より十歳ほど年上だというだけなのに、彼の深緑の瞳は驚くほど大人びている。医師という職業柄のせいもあるのかもしれないが、きっともともと物静かな人なのだろう。


「……私は、何も」


 久しぶりに、セレスティアとしての曖昧な笑みを零してしまう。「オリヴィア姫」を演じている間は、どちらかと言えば強気な振舞いをすることが多いのだが、いざ素の自分に戻るとどうしても弱気になってしまう。


「……殿下を騙しているようで、心苦しいです」


 ぽつり、と小さな嘆きを零してしまう。その言葉には、日増しに強くなるような罪悪感を、誰かと共有したいという私の弱さが滲み出ていた。


「あなたが、苦しむ必要なんて……」


 エディ様は整った顔立ちを僅かに顰めて、何かに耐えるような表情をした。思い詰めたような愁いを帯びた横顔に、彼もまた、エルドレッド殿下の心を救いたくて悩んでいる者の一人なのだろうと察した。


「ふふ、私たちは似た者同士ですね。殿下の御心を救いたい者同士、仲良くしましょうね」


 深く被った帽子を軽く上げてエディ様を見上げれば、彼はどこか弱々しい微笑みを返してくれた。


「……ご無理はなさいませんよう、セレスティア様。何か困ったことがあればいつでもご相談ください」


「ありがとうございます、心強いですわ」


 エディ様は不意に懐中時計を取り出すと、再び柔らかな笑みを私に向ける。


「さあ、そろそろ時間ですよ。迷わないようにお気をつけてください」


「はい、すぐに追いついてみせますわ!」


 「オリヴィア姫」の強気な性格を意識して意気込めば、やっぱりエディ様はどこか弱々しく笑った。この数日の生活を通して、彼が思いやり深く、殿下の回復を誰より願っている方だということは知っていた。そんな心優しい彼だからこそ、「オリヴィア姫」を演じ続ける私のことも、心配してくださっているのかもしれない。


 エディ様の憂うような眼差しを背に、私は早速向日葵の迷路に踏み出した。私の背よりも少し高いくらいの花々の間を駆け抜けていく。


 エディ様は心配なさっているようだが、実のところを言えば、この生活自体は苦しいものではない。むしろ、毎日楽しいと思うことの方が多かった。


 もちろん、殿下に対する罪悪感は日増しに募っていくのだが、それは別として、私はこの城を、森を、使用人の皆さんを、そして他ならぬ殿下のことを、少しずつ少しずつ好きになり始めていた。


 みんな、私に良くしてくれる。中には、私が「オリヴィア姫」を演じることに嫌悪感を覚える人もいるだろうと予想していたのに、私の身の回りの世話をしてくれるメイドも、他の使用人も、むしろ私に同情的だった。正式に婚約者となったにも関わらず、殿下に恋人扱いされるどころか、妹姫として扱われる私のことを憐れんでくれているのかもしれない。


 殿下にとってはこのままでいいはずがないのだが、私はこの穏やかな毎日がたまらなく好きだ。今だって、この鮮やかな向日葵の先に殿下が待っていてくださるかと思うと、胸が高鳴る気がする。


 ……え? 胸が高鳴る? 


 自分で思ったことなのに、まるで予想外のことを誰かに言われたと言わんばかりに、はっとしてしまった。思わず立ち止まって、どくどくと脈打つ自分の胸に手を当ててみる。


 殿下が待っている。早く行かなければと気持ちは焦るのに、あまりの衝撃に足が動かない。


 ……もしかして、私、殿下のことを――。


 そこまで考えて、やめた。気づきかけた自分の想いを誤魔化すように、どんどん先に進んでいく。


 時折行き止まりに当たっては引き返してを繰り返し、私が向日葵の迷路から脱出できたのは、それから三十分も後のことだった。

 

 軽く深呼吸して、冷静に「オリヴィア姫」を演じられるよう心を整える。やがて木陰で休む殿下の姿を発見して、「オリヴィア姫」らしい無邪気な笑顔を浮かべて殿下の元へと駆け寄った。


「お兄様! どうです、わたくし――」


 そう言いかけて、思わず口を噤む。エルドレッド殿下が、木の幹に寄りかかるようにして静かに眠っていたからだ。


 そっと屈みこんで殿下の傍に近寄れば、心地よい風が吹いてくる。確かにこれはお昼寝にはもってこいの気候だ。


 エルドレッド殿下の寝顔を見たのは、これが初めてだ。私が眠るまで傍に居てくださったことはあっても、私が彼の寝顔を見るような機会はまるでなかったのだから。


 やはり、思わず見惚れるほどに端整な顔立ちをなさっている。眠っているだけなのに、溜息が零れそうな美しさだ。睫毛までもが淡い銀色であることには、言い知れぬ感動を覚えてしまった。


 それに、眠る殿下は何だかあどけなくて、可愛らしい。私より4つも年上の男性に可愛いなんて失礼かもしれないが、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。


 しばらく殿下の愛らしい寝顔を堪能した後に、私も彼の隣に腰を下ろした。殿下が目覚めるまで、このままここで待とうと何気なく殿下の横顔を見やれば、不意に、安らかに閉じられた殿下の瞼の隙間から、透明な涙が一粒流れるのを見てしまった。


「……オリヴィア」


 囁くように妹姫の名を呼ぶその声は、いつも聞き慣れているものよりずっとずっと切なく、聞いている者の胸を締め付けるような声だった。夢の中では、オリヴィア姫の幻覚を見られないのだろうか。


 そっと、涙に濡れた殿下の頬に触れる。夏の日差しに当てられたせいか、とても温かな感触だった。


 いつか、彼の心が救われたらいいのに。オリヴィア姫の代わりなんていないことは言うまでもないけれど、鮮烈な恋でもいい、慈しむような愛でもいい、彼の心を動かすような素晴らしい何かに、いつの日か彼が出会えたらいいのに。


 それが、私の存在であればどんなに素敵だっただろう、と考えてしまった時点で、私は自分の気持ちに気づいてしまった。彼に嫌われている私が、彼を救う存在になりたいだなんて、夢見るだけでもおこがましくてならないのに、心は思い通りにはならないらしい。


「……エルドレッド殿下、どうやら私は、あなたに恋をしてしまったようですわ」


 殿下の頬を伝った一筋の涙を指先で拭って、私はそっと殿下の肩に頭を乗せた。頭から伝わる僅かな温もりが、くすぐったいような、嬉しいような不思議な感覚だ。


 16歳の夏の昼下がり、私は、あまりにも苦しい初恋を自覚したのだった。

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