第4話

 第六王子エルドレッド殿下がお暮らしになるジャスティーナ城の朝は、一杯の紅茶と甘い焼き菓子から始まる。


 朝食の前に甘いものを口にするというのも妙な気がするが、甘いものが大好きなオリヴィア姫に合わせた結果、いつの間にか習慣となっているらしい。


 オリヴィア姫は、甘いものの中でも特に焼き菓子がお好きだったと聞く。お砂糖をまぶしたクッキーは、お茶のお供として常にティーテーブルに上がっていたようだ。


「美味しいかい? オリヴィア」


 朝のお茶は、必ずエルドレッド殿下と共に摂るのが習わしだった。殿下がどれだけ忙しくても、この朝のお茶会にだけは必ず顔を出してくださる。


「ええ、とても」


 本当は、あまり甘いものは好きではないのだが、今の私は殿下にとって「オリヴィア姫」なのだ。ちょっとした仕草や好みだって、オリヴィア姫に合わせることで殿下の御心が安らぐのなら、これくらい何の苦でもない。


「昨日の夜は変わったことは無かったかい? 怖い夢も見なかった?」


 エルドレッド殿下のどこか虚ろな瞳が、私に向けられる。それでもその瞳には確かに慈しむような色が浮かんでいて、彼のオリヴィア姫への愛を感じるには充分だった。


「ええ、いつもと同じ静かな夜でしたわ」


 ジャスティーナ城は深い森の奥にあることもあって、基本的にはとても静かな場所だ。外に出れば小鳥のさえずりや木々の騒めきが聞こえるが、城の中にいるとどこまでも静寂が続いているような気がしてしまう。使用人の数がさほど多くないせいもあるかもしれない。

 

 華やかな場所が好きな令嬢ならば数日で音を上げていただろうが、私はこの城をとても気に入っていた。空気は澄み切っていて美味しいし、日当たりも良い。城の傍には湖もあって、散歩するにも飽きない土地だった。


「それならよかった。……今日は天気もいいし、少し外を歩こうか。庭の向日葵がいい具合に咲いているらしいから」


 オリヴィア姫は向日葵が好きだったという。ここに来て、亡き姫君の好きなものを沢山知った。オリヴィア姫の御心を動かしたものを一つ知る度に、私もそれを好きになるよう努めていた。


「ありがとうございます、殿下」


 そう言ってから、しまった、と口を噤む。エルドレッド殿下は、見るからに落ち込んだように肩をすくませていた。


「……オリヴィア、何か怒ってる? そんな他人行儀な呼び方をするなんて……」


 エルドレッド殿下の虚ろな瞳に一層翳りが増したような気がして、私は慌てて取り繕った。


「……昨日はちっとも私に構ってくださらなかったんですもの。その意趣返しですわ、お兄様」


 軽く拗ねるような調子で答えたのは一種の賭けだった。この城に来るまでにオリヴィア姫の好みやある程度の口調などは教えてもらったとはいえ、やはりちょっとした返答の仕方などは分からない部分の方が多い。


 妙な緊張感を味わいながら、エルドレッド殿下のお返事を待っていると、彼は端整な顔で心底幸せそうに微笑んだ。


「オリヴィアはいつまで経っても甘えるのが上手だね。可愛い奴め」


 そう言って殿下はくしゃくしゃと私の頭を撫でた。穏やかな表情で笑う殿下を見るのは好きだけれど、同時に彼を欺いているという後ろめたさを感じるのも確かだった。


 あの日、私が殿下の婚約者として紹介されたあの運命の日に、彼が私にオリヴィア姫の面影を見なければ、私はオリヴィア姫を演じるつもりなど微塵もなかった。積極的に彼を騙そうとは思えなかったのだ。


 でも、彼が私にオリヴィア姫の面影を見て、私をオリヴィア姫として扱うことで心の安寧を保てるのなら、私はいつまでもそれに付き合うつもりだ。元よりそういう約束で、この城にやってきたのだから。


 とはいえ、どうしたって罪悪感はつきまとう。私は殿下の愛する妹姫ではないどころか、殿下の大嫌いなセレスティアなのに。


「どうしたんだい、オリヴィア?」


 黙り込んだ私を不思議に思ったのか、殿下の淡い青色の瞳が私の顔を覗き込む。どこか虚ろなその瞳から仄暗い翳りが消えたなら、それはもう宝石のように美しい瞳なのだろう。


 それが叶う日が来るかは分からないが、見てみたい、と思ってしまった。


 ……たとえその先に待ち受けるのが、殿下を欺いていた私に対する処刑宣告だったとしても。


 私は、非常に危うい立場にいるのだと改めて思い知る。もしも殿下がオリヴィア姫の幻覚を見なくなったのなら、私は完全に用済みだ。それどころか、妹姫を演じていた許しがたい女に変わるだろう。


 その怒りの末に導き出される答えが処刑でも、何ら不思議はない気がしていた。レナード殿下の提案である以上、彼がある程度は庇って下さるだろうが、彼に知らせが行くまでに私の身の安全が保障される確証はない。そうなったら、私は甘んじて罰を受け入れなければならないのだろう。


「舌を噛んだ? 焼き菓子が口に合わなかったかな」


 過保護なまでに「オリヴィア姫」を心配するエルドレッド殿下に、私はそっと微笑みかける。


 ……それでも、あなたが幻覚を見続ける限り、私は「オリヴィア姫」でいます。


 言葉にはできなかった決意を込めて、エルドレッド殿下の瞳をまっすぐに見つめる。数秒間見つめた後に、一瞬、殿下の瞳から翳りが消え、戸惑うように揺れた。


「ふふ、大丈夫ですわ、お兄様ったら心配性なんだから」


 くすくすと笑うように告げれば、エルドレッド殿下もまた、安心したようにふっと微笑んだ。


 私たちの歪な日常は、まだ始まったばかりだ。

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