エピローグ  ようこそ、百合川探偵事務所へ

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 夏も残りあとわずか。それなのに、空に浮かぶ太陽は衰える気配をいっこうに見せず、ぎらぎらとした熱気はなおも健在である。家を出て数分と経たないうちに、私は汗だくになっていた。


 八月十九日。


 夏休みは昨日で終わり、今日から学校が再開する。ただ、私は夜間の課程なので日中の予定は今までとそう変わらない。が、百合川探偵事務所は24時間365日営業中なのだ。

 喫茶店〈ジャイロ〉に立ち寄り、マスターに挨拶をするのが出勤前の日課なのだが、あいにくマスターは先週から実家に帰省しているため、〈ジャイロ〉は閉まっている。早くマスターの淹れたコーヒーが飲みたいなぁ、などと考えながら路地にある階段を上った。


 目に優しくない配色のドアを開ける。

「おはようございまーす」

「おっはー」


 真冬のような冷気と共に、我らが百合川先生の気だるそうな声が返ってきた。冷房がガンガンに効いている室内は非常に心地よく、私を不快の底に沈めていた汗はさっと引いていった。

 猫子は応接間のソファーに横になっていた。相変わらず身なりには気を使わないようで、半袖のTシャツにゴムの緩んだパンツ一枚というとんでもない恰好だった。


「ねこさん、風邪引きますよ。そんな薄着でいたら」

「大丈夫、大丈夫。それより見なよ、あれ」


 彼女の視線の先にはテレビがあった。どうやら珍しく朝のニュース番組を見ていたらしい。


「ああ、あれですか」

「なんだ、知ってたの」

「ねこさんと違って私はちゃんとニュースを見るんですよ。もうこれはさっき見ました」

「どうせ、イケメンキャスター目当てでしょ」


 猫子の嫌味を受け流し、テレビに目を向ける。画面に映し出されていたのは黒い噂が絶えない快生教団の資金源についてのニュースだった。

 どうやら自殺していた快生教団の信者の多くは、多額の生命保険を契約したうえで自殺していたらしい。しかも、その受取人が快生教団のある幹部の信者名義になっていたことが明るみに出たのである。快生教団側は信者が勝手にやったことであり、教団からそのような指示を出すことはない、として関与を否定している。が、警察はこれを受けて、大々的に捜査のメスを入れる予定のようである。


「ねこさんが解決した事件はすっかり上塗りされちゃいましたね。やっぱりインパクト重視なんでしょうか」

「猪之頭は全面的に容疑を認めているし、事件の猟奇性から報道規制がかかってるみたいだからね。マスコミとしてももう鮮度の落ちた話題なんだろうよ。それより」

 と猫子は体を起こし、あぐらをかいて座り直した。


「今日は新しい依頼人が来るんだ。準備、お願いね」

「はぁい」


 百合川探偵事務所は本日も通常営業である。

 快生絡みの事件が解決してから、猫子はすでに二件の依頼を解決している。と言っても、あくまで警察に助言をしただけで、快生の事件ほど大きな事件ではなかったのだが。

 私は奥に引っ込み、今日の十時に訪れるという依頼人の書類をまとめた。そのあと、棚からお茶請けとして出すための菓子を取り、すぐに出せるように皿も用意した。

「あとはグラスと……氷とストロー」


 ひとしきりの準備を終えると、私は書類を手に応接間に戻った。現在時刻は九時半。約束の時刻まであと三十分だ。猫子は書類に目を通しながら、ぐうっと下品に息を吐いた。


「今回はどんな依頼なんでしょうね」

「電話で聞いた分だと、Y県で二年前に起きた殺人事件の再調査をして欲しいらしいよ。なんでも、一夜のうちに五人の人間が異常な死に方をしたらしい。犯人は結局捕まらず、警察もさじを投げたとか」

「へぇ。怖い話ですね。Y県かぁ。遠いですね。今回は、私は行けなさそう。学校があるし……」

「……あたしを一人ぼっちにする気?」

「ねこさんそんなキャラじゃないでしょ」


 言いながら、私はテーブルの上に置かれている高級銘菓の詰め合わせに目を落とした。これは夏目絵理華が感謝のしるしとして報酬金とは別に差し入れてくれたもので、すでに半分以上減っている。


「食べていいですか?」

「ダメって言っても食べるんだろ。ってゆーか、それほとんどきーちゃんが食べたんじゃん」

「えへへ」


 菓子の包装を開けながら、私は夏目母子のことを考える。

 無事、絵理華の許に戻った龍翔だが、彼らが再び元の関係に戻るには、決して少なくない時間が必要だろう。今回の事件を通して、人の関係のもろさ、というのものを私は学んだ。どれだけ親密な仲であろうと、が走っただけで、その関係は簡単に打ち砕かれてしまうこともあるのだ。


(……ねこさん)


 私と猫子の関係も、ささいな問題で壊れてしまうかもしれない。そうなったらきっと、私は大きなショックを受けるだろう。バイトと雇用主というだけの関係だけれど、私は猫子のことが人間として好きだ。猫子の方も邪険に扱いながらもきっと、私のことを信頼してくれているはず。


「何さ、変な目で見て」

 訝しげに猫子は小首を捻る。

「いやぁ、ねこさんって意外と可愛いなって思って」

「ほう、こっち側の世界に来てみるかい」

「いや、それは遠慮しときます」

 言い合っているうちに十時になった。それと同時にインターホンが鳴る。

「来たね」

「お出迎えしてきます」

 私は玄関に駆け出し、依頼人を出迎えた。


「ようこそ、百合川探偵事務所へ」

                    ――了

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