第二十五章 もし来世というものがあるのなら
1
力なく響いたその声からはしかし、ある種の達成感のようなものも感じられた。
「動機はやはり、泉町さんの詐欺事件の?」
「そうさ、復讐のためだよ」
「しかし、泉町の起こした事件を調べても、被害者の家族や親族の中にあなたの名前は見つかりませんでした」
「そりゃあそうさ。自分の家族は今でもぴんぴんしてるよ」
「ではいったい、誰のための復讐なのですか?」
「
猪之頭は消え入るような声で呟いた。
「泉町の詐欺の被害者で自殺した主婦ってのが、美月の母親だった。あれは小学生のことだったな。美月と自分は一度も同じクラスになったことはなかった。遠くから彼女を見つめるだけの、幼い恋心だった。でもそれでよかった。自分は……俺はそれだけで楽しかった。彼女の笑顔を眺めているだけで、満足だったんだ」
思い出を語る猪之頭の表情、そして声は二人の人間を殺したとは思えないほど穏やかだった。
「でも突然別れが訪れた。と言っても、彼女は俺なんか名前も知らなかっただろうけど。美月は転校したんです。理由は当然、母親が自殺したことでしょう。しかし、当時子供だった俺にそんな事情を知る由もなく、ただただ突然の別れにショックを受けてました。それから彼女の顔と名を再び目にしたのは、中学三年生のことでした」
美月が死んだ、というニュースがテレビで流れたという。
「俺は目を疑いましたよ。そんなわけない、と否定してみても、テレビに映っているのはかつて恋していた少女の顔。名前も一致している。暗澹たる心地で、俺はじっとテレビを見つめていました。どうやら、彼女は父親に殺されたようです。その父親も、彼女を殺して首を吊った……無理心中ですね」
「そういえば、そんな事件が十年ほど前にあったな」
矢立警部は厳めしい顔つきで言った。
「なぜ彼女は死ななければならなかったのか。その後の報道を追ううちに、過去に彼女の母が自殺し、それ以降父親は人が変わったように荒れ、美月に暴力を振るっていたことを知りました。美月の転校の陰に母親の自殺があったことは中学生の頭でもすぐに結びつきました。そして、その原因が詐欺事件の被害に遭ったことも報道されていた……」
「それで、泉町さんを恨むようになったわけですね。快生教団には最初から彼を殺すつもりで入信したのですか?」
「ええ、興信所や私立探偵を雇って、出所後の泉町の動向を調べさせ、この新興宗教に入れ込んでいることを知りました。本当はもっと時間をかけてやつに近づく予定だったのですが、千載一遇のチャンスが来たために、あの場で罰を与えることにしたんです。過去の犯罪についてちらつかせ、人払いをさせたうえで四階に呼び出しました」
「外神さんのことはどこから?」
くく、と低い声で笑い、猪之頭は猫子をねめつけた。
「泉町が死に際に吐いたよ。両手足を縛られたまま焼かれて、狂ったような悲鳴を上げながら許しを請った。が、俺にその意思がないと判ると、自分だけこのような目に遭うのは理不尽だ、と外神が詐欺行為を助長させていたことを告白した……滑稽でしたよ」
「あのように殺したのは彼の人生の最期に苦痛を固定するためですか?」
「ふん、元々、最大の苦痛を与えて殺してやろうと思っていただけですよ。まあ結果的に彼らの思想の下では、あのような死に方はタブーだったようですから、やつに絶望を与える、という目的は十二分に達成できたようですね。心残りなのは、外神にさほど苦痛を与えられなかった点です。最初は本当に生きながら切り刻んでやろうと思っていましたが、それと保身を両立させる計画が浮かばなかった。しかしこれで、美月の仇は討てました。ふふ、俺はまた美月に会えるだろうか」
「快生の教義によれば、あなたは同じ人生を無限に歩むわけですから美月さんとも無限に会えるはずですよ。しかし――」
猫子はちらりと龍翔の方を一瞥して、
「その
長い沈黙の末、猪之頭は言った。
「いや、美月には苦しんで欲しくない……もし来世というものがあるのなら、今度は……幸せな人生を送って欲しい」
「続きは署の方で伺いましょう」
二人の屈強な捜査員に連れ添われ、彼は歩いていた。その後ろを矢立警部が見張るようにして続く。時計の針が午後七時を示した。厳かな時鐘が響き渡る。これで、事件は解決を迎えた。
2
ラウンジに集まっていた人々は、一人、また一人と姿を消した。最後に残ったのは、私を含めた三人。そう、まだ終わっていない。私たちにはまだやるべきことが残っているのだ。最後の決着をつけるため、猫子は悄然と佇んでいる夏目龍翔の許に歩み寄った。
「お母様が、二階に来ています」
龍翔は反射的に猫子に顔を向けた。その表情から窺い知れるのは彼の張り詰めた思いだった。
「あなたを説得するのは、これで最後にします。人目につかない場所で自殺されるなら、それで宜しい。あたしの話を聞いて、絵理華さんの許へ向かうか、外へ出るかを決めてください。警察に言って、あなたの監視はもう外してあります」
猫子の撫でるような柔らかい声が、場に漂っていた緊張感を和らげていく。
「少し昔話をしましょうか。あるところに、一人の女の子がいました。その女の子はお母さんのことが大好きで、いつもお母さんにくっついては、お母さんを困らせていました」
これは猫子自身の話だ、と私は直感した。
母親の話……
「お母さんは本当に優しくて、女の子のわがままを嫌な顔一つせずに聞き、無償の愛を注ぎました。女の子は幸せでした。女の子にとって、自分のために何でもやってくれるお母さんは、誇りで、絶対の存在でした」
龍翔は黙ったまま、床に目を落としている。
「女の子の中で、お母さんという存在が大きくなりすぎてしまっていた。それが不幸だったのです。母親は聖人でも聖母でもない。普通の人間だ。女の子はそれを知らなかった。知らなかったがゆえに、普通の人間としてのお母さんが許せなかった。ある時、お母さんはお友達と立ち話をしていました。女の子にとって、親同士の立ち話と言うのは退屈以外の何物でもありません。電柱に寄り掛かって、早く終わらないかなぁ、と夕焼け空を見上げていたその時、女の子の耳は信じられない言葉を聞いたのです。それはお母さんの声でした。『うちの子は本当に手がかかるんですよ。困ったものねぇ』。親がわがままな子供のささやかな愚痴を言うことなど、全くおかしいことではありませんし、むしろ普通のことです。しかし、女の子にとってそれは異常事態だった。私を大切にしてくれているお母さんが、私の悪口を言っている、と女の子は思ったのです」
猫子は感情を抑えながら続ける。
「女の子にとって、お母さんは誰よりも優しく、そして誰よりも自分を愛してくれる存在です。その夜、女の子はお母さんと喧嘩をして家を飛び出しました。そして帰ってくると、お母さんは何者かに殺されていて、もう二度と会うことはできなくなってしまったのです」
生唾を飲み込みながら、龍翔は顔を上げた。猫子の言葉には奇妙な説得力があった。それが体験談であると、龍翔も気づいたのかもしれない。
「理想と現実のギャップ。それはたしかに大きなショックとなって人の心を襲います。それを受け入れ、己の中で消化するには少なくない時間がかかる。けれども、例えそれを受け入れ、理解できたとしても、その女の子はもうお母さんに会うことは叶わない。なぜならもう死んでしまったから」
猫子は真摯なまなざしを龍翔に送った。
「あなたには絵理華さんがいる。彼女はこの世に生きて、あなたの帰りを待っている」
「龍翔――」
その時、息子を呼ぶ母の声がラウンジに届いた。玄関の方に絵理華が立っていた。涙で顔をくしゃくしゃにし、今にも泣き崩れてしまうのではないか、と心配になるほどに震えている。
「お母さんっ」
龍翔もまた、涙の筋を落としながら振り返り、母の許へ駆けた。やがて二人は、抱擁を交わしながらその場に崩れた。気がつくと、私の頬にも涙が伝っていた。
「これで、終わったんですね。全部」
「何だいきーちゃん、泣いてるのかい?」
「ふふ、ねこさんも泣いてるじゃないか」
私がそう言うと、猫子はがしがしと目をこすりながら、
「これは汗だよ。あたしは目から汗が出るんだ」
「そういうことにしておきますね」
この時、私はあることに気づいた。
夏目母子を見つめる猫子が、普段彼女が幼女を見る時と同じ目をしていることに。ああ、そうか、と私は得心した。彼女は性的な目で幼女を見ていたのではない。母と娘を見ていたのだ。
かつての自分と母親を、道行く母娘に重ね合わせて……
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