第二十一章 彼女の最期は……
1
第四宿舎を出てから五分ほど歩くと、現場である倉庫が崖の下に見えた。
「こんなに近いのに、
「分かれ道まで引き返さなきゃならないからね」
猫子は崖の縁に立ち、例の小窓を開けて頭を突っ込んだ。子供サイズの猫子でも頭を淹れるのが限界なようだ。
「ねこさんでも無理そうですね」
「本物の猫ならなんなく通れるだろうけど」
私も縁に立ち、崖下を見下ろしてみる。高さは十五メートルほど。倉庫の周囲には同じくらいの高さの杉の木が何十本もそびえている。花粉症の人にとっては、悪魔の森だろう。崖から一番近い木までの距離はおよそ二メートル弱。
顔を突っ込んだままの猫子に問いかける。
「ねこさん、木に飛び移ってそのままするすると降りれば、一気にショートカットできそうですよ」
「あーん?」猫子は窓枠に手をかけ、頭を引き抜きながら「それじゃあちょっとやってみてよ」
「いや、私には絶対無理です。でも、男の人ならできそうじゃないですか?」
「度胸と身のこなしさえあれば、たしかに木をつたって崖を下りることはできそうだ。でも結局復路は片道三十分の経路から戻らざるを得ない」
「木を登って崖にジャンプすれば……」
そう私が言うのを、猫子は呆れた目で見ながら、
「あんた、このつるつるの杉の木を道具もなしに登れると思ってんのかい? それに見たところ不自然に樹皮が剥がれている木もないから、誰かが木を登り下りしたとは考えられないね」
たしかに、目に留まるどの杉の木の表面にも傷んだ個所はない。
「じゃあ崖をそのまま登ったとか……」
「無理だね。見なよ、崖は上に行くほど外側に張り出してネズミ返しみたいになってる」
あしらうようにそう言うと、猫子は坂道を下り始めた。分かれ道から林道に入り、犯行現場に戻る。まだ数人の捜査員たちが残って作業をしていた。彼らの邪魔にならないよう、距離を置いて現場を観察する。指紋を残さぬよう、私たちは事前に渡されていた白手袋をはめた。
私は本当に隠し通路の類がないことを確認するため、壁や床を検めてみた。が、思わしい発見はなく、高い位置にある窓と玄関扉以外にこの倉庫と外界を繋ぐ道はないということが証明された。
血だまりを迂回して、崖縁に隣接する窓を見上げる。そそり立つ壁に、外神の血が異様な紋様を描いている。
「ねこさん、窓枠にロープを引っかければこの壁を登れませんか?」
「だ、か、ら、あの窓を通り抜けることは人間にはできないんだって。さっき見たでしょ? あたしですら頭を通すだけでいっぱいいっぱいだったんだ」
「ねこさんは本当にあの六人の中に犯人がいると思います?」
「いるさ。アリバイ崩しはあたしの十八番だぜ?」
「初めて聞きましたけど、それ。あ、もしかしてもう事件の全容が見えたんですか?」
「さあね」
猫子は肩をすくめると、軽く鼻を鳴らした。
「考えてることがあるんだ。私にも教えてくださいよ、ねえ」
「まだ確認すべきことが残ってるからダメ」
「いいじゃないですか」
「推理が形になったら話してあげるよ。もう出よう。ここで見るべきものはもうない」
結局、目新しい発見は見つからず、私たちは倉庫を出た。猫子の反応を見るに、彼女はすでに見当をつけているようだ。
林道を引き返していると、正面に人影が見えた。誰かがこちらに向かってきているようだ。私たちは瞬間的に身を固くする。
それは夏目龍翔だった。私たちは立ち止まり、彼との合流を待った。が、龍翔は無言のまま私たちを避けて倉庫の方へと進んだ。猫子は駆け出し、彼の前に立ち塞がった。
「おいおいおいおいおい、さすがにスルーはないでしょ」
「事情聴取はさっき終わったじゃないですか。どいてください」
「どこへ行くつもり?」
「あなたには関係ないでしょう。僕のことはもう放っておいてくれませんか。迷惑なんです」
「そりゃ無理だ。あたしはあんたのお母様にお金を貰って仕事をしてるんだ。いいかい、ぶっちゃけあんたが孤独に死のうが、あたしはどうだっていい。そもそもあたしらは赤の他人だし、依頼が失敗しようが絵理華さんにはたんまり報酬を貰う契約になってる。成功報酬じゃないからね」
猫子はわざと挑発をしている、と私は悟った。
「死ぬなら勝手に死ねばいいさ。過去に還る? はっ、結構だね。何も知らない子供の頃に戻って、絵理華ママのおっぱいでもしゃぶってろよ。けど、あんたが死んだあと、こっちに残された本当の絵理華さんのことも考えな。多額のお金をドブに捨てて、最愛の息子を失って、底なしの悲しみを抱えたまま老いて死んでいくんだ。なんて哀れでくだらない人生なんだろうね」
「……」
龍翔の体がわなないている。彼は怒りに耐えているのだ。今にも猫子に殴りかからんばかりに、彼は怒っている。蓄積された憤怒は、いつ爆発しても不思議ではない。猫子はそれを意にも介さず続ける。
「もう一回言うぜ。あんたが死のうが、あたしもそこの万野原も何とも思わない。あたしたちは赤の他人だから。よく考えな。あんたが死んだあとで、心の底から悲しんでくれる人間は誰だ? ……行こう、きーちゃん」
猫子は龍翔を残して私の方へ戻ってきた。そして無言のままずんずん分かれ道の方へ進んで行く。龍翔は龍翔で、背中を向けたまま立ち尽くしていた。彼の手には、長くて丈夫そうなロープが握られていた。
「ちょっと、ねこさん。いいんですか?」
猫子に追いつくなり、私は彼女の肩を叩いて言った。
「龍翔さん、もしかして自殺するつもりだったんじゃないですか? ロープを持ってましたよ。」
「大丈夫さ。きーちゃんは気づいてないみたいだけど、夏目龍翔には警察の監視がついている。それに向こうにはまだ捜査員が残ってるし」
「でも……」
「今、あの子は揺れている。あたしが絵理華さんを侮辱した時、彼の目には純粋な怒りが浮かんでいた。脈ありだよ。あの子には、還るべき居場所がある。待っていてくれる母親がいる。あの子だって、それは判っているはずなんだ」
「ねこさん」
さわやかな風が木々の間を渡り歩いている。地面に落ちる木漏れ日が暖かい。それなのに、猫子の目には悲哀の色が浮かんでいた。
2
午後二時過ぎ。私たちは教団事務所のロビーでくつろいでいた。
差し入れの紅茶とお茶菓子を頂いたので、ありがたく堪能する。つかの間の休息というやつだ。
あのあと、実際に各宿舎と倉庫を繋ぐ経路を歩き、所要時間を調べてみた。結果は事前の調査と大差ない。一応その結果も書き記しておこう。
第一宿舎 所要時間 片道四十二分。 利用者 黒田剛、山宮春香。
第二宿舎 所要時間 片道四十三分。 利用者 弓沢光。
第四宿舎 所要時間 片道三十一分。 利用者 猪之頭健児、源道寺マサト、夏目龍翔。
全力で走れば十分程度の時間は短縮できるかもしれないけれど、それでも被疑者たちのアリバイを崩すには足りない。
また、のちの報告で被害者である外神かすみも第四宿舎を利用していたことが判明した。彼女の最後の姿を目撃したのは同じ宿舎の信者で、事件の前日――八月七日の午後八時、食堂で数人の信者と食事を摂ったという。その時の彼女の様子は、泉町の事件を恐れているばかりか、自分にもその被害が及ぶのではないか、と怯えていたそうだ。
彼女と親交のあった信者たちが言うには、彼女の周辺にはトラブルなど皆無だった、快生の人間が殺人にまで発展するほどの争いを起こすはずがない、とのことだった。となれば、やはり焦点を当てるべきは彼女の過去になる。
たしかに外神のやったことは許されることではない。間接的とはいえ、泉町を介して悪銭を得ていたのだから。間接正犯とも微妙に異なるから、彼女を法的に裁くことは難しいだろう。しかし、だからといってあのような惨い殺し方をされるほどの罪を彼女は背負っていただろうか。
(生きながら体を切断されるなんて……)
もし自分が同じ目に遭わされたら、と思うと背筋がゾッと凍る。ほんのちょっぴりカッターナイフで肌に傷をつけるだけでも強烈な痛みに襲われるというのに、のこぎりで体を切断されるなんて……
「百合川先生!」
広いロビーに切羽詰まったような声が響いた。顔を向けると、野中刑事がこちらに走り寄ってくるところだった。
猫子は飲みかけの紅茶を置きながら、
「どうしたの?」
「司法解剖の結果が出たので、お知らせしようかと」
猫子の目つきが鋭くなる。
「ありがとう、教えて」
野中は胸に手を当て、小さく息を吐くと、きびきびとした声で言った。
「まず、死亡推定時刻ですが、特に変更はありません。遺体が早期に発見されたため、警察医は正確な時刻を出せたようです。そして遺体に性的暴行や格闘の形跡はなく、また薬物やアルコールも検出されませんでした」
猫子は余計な質問を挟まず、耳を傾けていた。
「で、ここからが問題なんですが」
野中は首筋に伝う汗を拭った。
「死因は絞殺。ガイシャの警部に索条痕が認められました」
猫子の目が光った。彼女の周囲の空気が張り詰めていく。
「え、ど、どういうことですか?」
私はパニックに陥った。外神は生きながら体を切り刻まれ、そして死に至ったのではないのか?
「切断面の少し上の辺りに、幅一センチほどの索条痕があったんです。かなり強い力で食いこませたようで、外神は抵抗する間もなく死に至ったとのことです」
「遺体の切断面に生活反応は?」
「認められませんでした」
「つまり、外神かすみは死後にバラされた、ということが法医学的に立証されたわけだね。はぁん」
猫子は舌で上唇を舐めた。目線はテーブルの上のカップに注がれている。
「はい、矢立警部は大混乱に陥っています」
「ふふ、その様子が目に浮かぶよ。で、現場に殺害の凶器はあったかい?」
私が憶えている限りでは、縄やロープの類は部屋の隅に一か所にまとめられていたように思うが……
「いくつかそれらしきものがありましたが、まだ断定はできません。現在照合中です」
「ん、判った」
「それから」と野中は付け加える。
「百合川先生に頼まれていた裏取りも完了しました。G**支部全教団員、二百四名の中で、第一発見者となった信者を除いて、ここ一週間の間であの倉庫に近づいた者はいない、とのことです」
「そう、ありがとう。さすがは期待のエースだ」
猫子は満足そうに微笑むと、若手刑事を労った。最後の報告は猫子が、確認して欲しいことがある、と直接矢立警部に要請していたことについてだった。
報告を終えると、野中は早足で去っていった。
「ね、ねこさん、どういうことですか? 外神さんは生きたままバラバラにされたんじゃないんですか?」
「どうやらそうじゃないらしいね」
「もうわけが分かりません」
「ふふ、あたしもだよ。でもこれで、一つのルートが見えてきた」
「はい?」
「まだ確定じゃないけどね」
不敵な笑みを浮かべて、猫子は小さく息をついた。
*
その後、現場に残されていた縄やロープと遺体の索条痕は一致しない、という報告が届いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます