第十七章 分解された女
1
「ねねねねねねね、ねこさん」
「にゃ、なんだい」
「でででんわ、いや、バラ、バ」
「薔薇? あたしゃ二日酔いなんだ。寝かしておくれよ」
「違う、そうじゃないです」
猫子を叩き起こし、電話へ向かわせた。
野中の報告を聞いているうちに、昨晩のアルコールが残った猫子の青い顔に血色が戻っていった。受話器を置くと、彼女はシャワーも浴びないまま外に飛び出そうとしたので、私は必死に止めた。最低限の身だしなみを整えさせてから、私は猫子を解放した。
天気は嫌味なほどの快晴である。
私たちはタクシーで快生教団G**支部へ急いだ。
野中の話では、現場は昨日訪れた支部にある倉庫の中だという。すぐに林道と坂道の分かれ道が思い浮かんだ。あの林道を進んだ先にある倉庫ではないか、という予感は果たして当たった。
道中、私たちは会話らしい会話を交わさなかった。猫子は窓を開け、風にふかれながら何かを考えているようだった。G**支部に着くと、険しい顔の矢立警部が出迎えた。その脇には野中刑事もいる。
「状況は?」
挨拶もそこそこに猫子は訊いた。
「歩きながら話そう。現場は林の中の倉庫だ。けっこう距離がある」
矢立警部はきびきびと歩き出した。
「被害者は快生教団G**支部の信者、外神かすみ三十九歳。遺体の状態がアレなもんで、正確な死因はまだ判らん。解剖待ちだ。が、死亡推定時刻は割りとはっきりしてる。今日、すなわち八月八日の午前六時から午前七時までの約一時間だ」
「アレってのはつまり、バラバラ死体ってことだね」
「ああ、かなり細かくバラされていた。あとで写真を見せよう」
不快な想像が私の脳裏をよぎる。
「肝心なことを訊くけど、警察はこの事件と泉町の事件が同一犯によるものだと見てるの?」
「……ああ、そうとしか考えられんだろう。外神は泉町の事件の被疑者の一人だった。しかも彼女は過去に泉町と接点があった」
「じゃあ犯人は一気に絞り込まれるわけだね。この支部に何人の信者がいるかは判らないけど、二つの事件が同一犯によるものなら、被疑者は第一の事件と全く同じメンツになる。新たな被害者となった外神かすみを除けば、六人」
「ところがそう簡単な問題でもないんだ」
矢立警部の意味深な発言に、猫子は眉をひそめた。
「と言うと?」
「第一の事件では全員に確固たるアリバイがなかったが、今回はその逆だ。六人全員にアリバイがある。これについてはあとでまた詳しく話すが、とにかく現場を見てくれ」
三十分ほど歩くと、例の分かれ道に差しかかった。右の坂道を上れば、昨日訪れた宿舎に出る。その途中に見かけた倉庫は、左の林の中を突き進まなくてはならないようだ。
「こっちだ」
私たちは陰鬱な林に分け入った。おどろおどろしい空気が満ちているような気がするは、決して気のせいではないはずだ。
「その様子じゃ、問題はまだありそうだね」
矢立警部はひときわ声を落として、
「現場は密室だった」
「……密室」
「出入り口である扉は内側から施錠されていたんだ。凶器やバラバラになった遺体は中に残されていたから、あそこが犯行現場であることは間違いねぇだろう。だけど、犯人がなぜ現場を密室にしたのか、そこが判らねぇ」
凶器として使われたのは木工用のノコギリで、外神かすみのものと思われる肉片が刃に付着していたらしい。また、柄の部分に指紋は残されておらず、犯行後に拭き取ったか、犯人はあらかじめ手袋をはめていたと推測できる。
「ちょっと待ってください」私は語気を強めて「あの倉庫って、たしか二階部分に窓がありましたよね。野中刑事も見たでしょう?」
あの倉庫は崖に寄り添うようにして建っており、崖の縁すれすれの位置に小さな窓があることを私は覚えている。その崖の縁に面した窓から中に入ることができるのではないか?
つまり、現場は密室ではない。
「いや、あの窓から侵入し、脱出することは不可能だ。断言してもいい」
矢立警部は苛立たしげに言った。野中も同調するように頷いている。やがて木々が開け、二階建てのぼろくさい倉庫が姿を現した。
十人弱の捜査員たちが、倉庫の周りで忙しなく動き回っている。彼らの間を縫って、私たちは唯一の入口であるという玄関扉の前に立った。
扉は解放されており、内側から閂を下ろして施錠するタイプのものだったが、閂は折れていた。どうやら密室となった室内に入るため、無理に扉を破ったようだ。
「ちょっと待った、矢立さん、扉は施錠されていたって言ったよね。見たところ外から鍵を掛けるための鍵穴はない。つまり、この扉は内側からしか施錠ができないんだ。閂を下ろしたあと、どうやって犯人はここから出たんだ?」
「だから、窓からですよ。通常の出入口が無理なら窓からしか出ることはできないじゃないですか」
私がそう主張するのを無視して、猫子は続ける。
「外から何かしらのトリックで内側の閂をかけて、密室を作った、と考えるべきかな。推理小説でよくあるだろう?」
「窓ですよ」
「糸を使って扉の外にいながら施錠をする密室トリックが。見た感じでは扉と木枠の間には若干の隙間があるね」
「窓ですって」
「例えば糸の両端が手元に来るように閂に巻き付けて、隙間に糸を通す。そして扉を閉めてから糸を操って、閂を下ろし、施錠できたことを確認してから糸を片側から引く」
「窓しかないじゃないですか」
「このタイプの扉なら、これだけで簡単に密室が作れそうだ」
「もう、なんで無視するんですか」
「だって今あたしが言った方法で簡単に密室が作れるんだもん」
「犯人はそこまで丁寧にやらなかった」矢立警部はポケットから小さなビニール袋を取り出し「こいつを見ろ」
「何これ」
「糸だ」
「見りゃ判るよ」
それは丈夫そうなタコ糸だった。どこにでも売っていそうな普通のタコ糸で、特筆すべき点を挙げるとするなら、先端が小さな輪っかを形作っているところだろうか。
「まさか、それがあるってことは……」
「お前の言う通り、犯人は糸を使って密室を仕立てたようだ。が、こいつが閂に結びついたまま残っていた。つまり、密室を作り上げたあと、なぜか犯人は閂から糸を外さなかったんだ。犯行は明朝に行われたんだから、人目や時間を気にする必要もないだろうに」
「……意味が判らないね」
「全く同意見だよ。だが、これではっきりしたことは、犯人はこの玄関から出て行き、そして何らかの目的で現場を密室に変えた」
「……だから窓は経路から除外されるってことですか?」
あまりに無視されすぎて涙目になっている私がそう言うと、矢立は小さく空咳をして、
「いや、それはまた別の理由だ。まあ、とにかく中へ入ってくれ。密室の作り方が判明しただけで、それに付随する問題が解決したわけじゃないんだ」
矢立を先頭に、私たちは倉庫に入った。
「ひぃ」
――と、瞬時に肌が粟立った。まるで心霊スポットに足を踏み入れたような不快な感覚だ。
広さは畳敷きにして二十畳くらいだろう。
倉庫と言う割には、大きな荷物はあまりない。細かな物が雑然と散らばっている、と言った具合だった。四方の壁の上方にはそれぞれ窓があり、正面の窓が崖の上に通じているのだろう。窓までの高さは十五メートル近くあった。床はフローリング張りで、壁は漆喰壁である。
「派手にやったようだね」
室内には血の臭気が充満していた。正面の窓の下にはいびつな血だまりがあり、その中に、遺体の位置を示す白いテープの囲いがいくつもあった。その数だけ、外神かすみは分解されたということなのだ。
おぞましい、何ておぞましいのだろう。
壁にも血飛沫が派手に飛び散っており、私の目線よりも上の位置にまで血が跳ねているところもあった。
天井は非常に高い。高い位置に窓がいくつもあるのになぜ二階部分が無いのか、と尋ねると、野中が手帳をくくりながら答えてくれた。
「安居山さんの話によると、ここは元々宿舎として使われていたようです。しかし、数年前の大震災で二階の床が抜けてしまったそうなんです。幸い死傷者は出なかったみたいなんですが、さすがに危険だ、ということで床だけぶち抜いて、倉庫として使うことにした、という話です」
数年前のあの大震災――東日本大震災では、震源地とは比較的遠いこちらの地方も大きな揺れに襲われた。当時の暗い感情が蘇る。
「さっき万野原さんが指摘した崖に隣接した窓の問題について片づけておこう。まず、高さは十五・五メートルの位置にあり、現場には踏台やはしごはなかった。ここにあるがらくたを積み重ねても、到底届かんだろうよ。また、窓の正確なサイズも計ってみたが、縦十四センチ、横幅は二十五・三センチだった」
「子供でも通り抜けるのは難しそうだね」
「ああ、成人はまず不可能だろう。すなわち、あの窓から倉庫内に侵入することは物理的に不可能であり、あの窓から脱出することも物理的に不可能である、と結論付けることができる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます