第十六章  悔やむべき思い出

 1


 その日の夜、私と猫子は喫茶店〈ジャイロ〉にいた。

 夜のとばりが降りると、この店はバーへと姿を変えるのである。静かな店内にゆったりとしたジャズが流れており、暗めに設定された照明が夜のムードを醸し出している。猫子はマティーニを、私はオレンジジュースを飲みながら、カウンター席に陣取ってマスターと談笑をしていた。


「悪い、遅くなった」


 額に汗を滲ませながら、矢立警部がやってきた。猫子の隣に座り、ビールを注文する。私と矢立警部が猫子を挟む形だ。喉を鳴らしながら二杯のビールを飲み干すと、彼は猫子を横目で見ながら微笑んだ。


「お手柄だったな、どら猫。今さっき外神かすみと泉町の関係の裏が取れたよ」

「ふん、そんなことが判ったって、事件は何も進展しないよ。おかわり」

 猫子の前に三杯目のマティーニが置かれる。

「そうでもないぞ、被疑者の中に泉町と接点を持っていた者が紛れ込んでいたというのは、見逃せない事実だ。ほんの少しずつだが、俺たちは前進してるよ。マスター、ギムレットを」

「かしこまりました」

 淡緑色のカクテルを舐めながら、矢立警部は満足そうに唸った。

「決定的な物証も挙がらず、関係者たちのアリバイも曖昧なままじゃん……」

「なんだ、やけに手厳しいな。そっちの仕事が難航してるのか?」

「難航なんてレベルじゃないよ。座礁に乗り上げて、あとは沈没を待つだけ」

 猫子はグラスを傾け、一息に流し込んだ。白い頬が朱に染まり、目が座っている。

「珍しく弱音を吐くじゃないか、おじさんに話してみな」

「いや、いいよ。あたしもう寝るから」


 階上の事務所に戻るかと思いきや、彼女はカウンターに突っ伏してしまった。やがてごろごろと寝息が聞こえ始めた。

 矢立警部はその背中を軽く撫でると、私の方に向き直った。


「こいつとは長い付き合いだが、こんなに打ちひしがれてるこいつを見るのは始めてだよ」


 訊くべきだろうか、と私は考えた。


 猫子の今回の依頼に対する執着は異常なものだ。いったい、何が彼女をそこまで突き動かすのか、矢立警部なら知っているかもしれない。猫子本人にも何度か訊いてみたが、彼女ははぐらかすだけで何も答えてくれなかった。人の過去をつつくのは褒められた行為ではないが、知りたいという欲求は抑えられない。


「あの――」


 ついに私は訊いた。矢立警部は渋面を作って隣の猫子を見る。彼女は本格的に寝入っていた。起きる気配は微塵もない。


「話してもいいが、万野原さん。まずあんたはこのどら猫をどう思ってる?」

「え、それは、その……不思議な人だなって」

 猫のように気まぐれで、小さな女の子が好きなロリコン。それでもやるべきことはきっちりやり、仕事に対しては妥協を許さない。それが私の中の猫子像だ。


「あんた、俺の話を聞いたあとで、こいつと上手く付き合っていく自信があるかい? 百合川猫子という人間を、あんたは理解してやれるかい?」

 矢立警部の声は、厳かに響いた。マスターがそっと奥の方へ移動する。

「私、まだ知り合って半年くらいですけど、ねこさんのことが好きです。あ、変な意味じゃなくて、その、人間として。だから、ねこさんのことをもっと知りたい」

 本心だった。

「判ったよ。こいつもあんたを信頼しているようだ。ただ、他言はなしにしてくれ。かなりデリケートな話だ」

「……はい」


 残っていたオレンジジュースを飲み干し、耳をそばだてる。やがて、店内BGMにかき消されてしまいそうなほど小さな声で矢立警部は言った。


「猫子はな、母親を亡くしてるんだ」


「えっ」

「それも、殺されたのさ」

 沈黙が場に流れた。

「こいつがまだしょんべん臭い子供の時の話だ。俺はそん時刑事になったばかりで、初めてこいつと会ったのがあの事件だった」


「事件、ですか」


 重たい響きが、脳内でこだまする。

「当時猫子は母親とけんかをしてな、家を飛び出していたんだ。内容は笑っちまうくらい些細なことだが、思春期にありがちな、反抗期だったのさ。どこへ行くでもなく、街をぶらぶらしているうちに頭が冷えて、急に母親が恋しくなったそうだ。が、家に帰りつくと、母親が血まみれになって倒れていた。全身に深い刺し傷を負い、救急車が到着したころには息絶えていた。犯人は今も捕まっていないし、何が目的なのかも判らない。強盗目的でも暴行目的でもなかった。もちろん恨みつらみの線も探ったが、猫子の母親は誰からも恨まれるような女じゃなかった。どころか、誰からも愛されるような、聖母のような人間だったそうだ」

「……」

「もしかしたら、こいつは過去の自分を夏目龍翔に重ね合わせていたのかもしれんな。猫子にとって、『母親』は特別な存在だった。夏目もを抱えていたんだろう?」

「……はい」

「猫子の人生において、唯一のが母親なんだ。母親と和解することなく死に別れてしまった。父親は猫子が生まれてすぐに事故に遭って死んじまった。女手一つで自分を育ててくれた母親のことを、心から誇りに思っていたのに、小さなプライドのせいで死に目に会うことができなくなっちまったのさ」

「お母さん……」


 私は猫子の小さな頭を撫でた。サラサラの髪の質感が心地いい。


 午後十時過ぎに解散し、私は猫子の体を抱えて階段を上った。猫子がリバースしないよう、一段ずつ慎重に上る。事務所に入り、猫子をソファーに横たえる。彼女のことが心配なので今日は泊まっていくことにする。


「んにゃ」

「あ、起きました?」

 シャワーを浴びて部屋に戻ると、ちょうど猫子が起きたところだった。大きなあくびをしながら、伸びをしている。

「ねこさん、あの……」

「何さ」

「矢立警部から聞きました。ねこさんの、お母様のこと」

「……そう」


「……」


「……」


「あの、ねこさん」

「何?」

「龍翔さんを、絵理華さんのもとに必ず帰してあげましょうね」

「当り前じゃないか」


 猫子は妖しい笑みを浮かべ、そのまま眠ってしまった。夜の静寂に私だけが残される。しばらくすると窓の向こうから嬌声が聞こえてきた。どうやら若者たちが裏の空き地で花火をしているようだ。けばけばしい光と煙が夜空に吸い込まれていく。


 2


 翌日、事件が動いた。

 事務所の固定電話が鳴り響いている。枕元の時計は午前九時を指している。私は隣で寝ている猫子を起こさぬようにベッドを抜け出すと、寝ぼけ眼で受話器を取った。


「ひゃーい、百合川探偵事務所ですぅ」

「おはようございます、万野原さんですか。こちらは県警の野中です」

「あっ、の、野中さん?」

 電話の主は野中だった。こんな朝っぱらから何の用だろう。

「先生はいらっしゃいますか?」

「まだ寝てますけど」

「お手数ですが、すぐに起こしてください」

 野中の声から焦燥を感じた。心がざわめき、不快な胸騒ぎが起き抜けの私を襲った。

「今すぐ起こしに行きます。でも、いったい何が?」


「外神かすみが殺されました」


「……え?」

「しかもただの殺しじゃあありません。です」

 とてつもない衝撃が私の心を撃ち抜いた。グロテスクな情景が脳内を侵していく。

「バ、バラバラ……」

「万野原さん? 万野原さん、大丈夫ですか?」

「バラ、バ……」

「おーい、もしもーし」


 私はしばらくの間、受話器を片手に放心状態で立ち尽くしていた。

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