第十五章 輝かしい思い出
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夏目母子は実の親子ではない。
それが、絵理華が語った彼らの秘密だった。といっても全く血が繋がっていないわけでもない。絵理華は龍翔の実母の妹なのである。
龍翔が物心つく前に、彼の両親は交通事故で他界した。父方の親族はおらず、絵理華の両親、すなわち龍翔の祖父母が高齢だったこともあり、乳離れしたばかりの龍翔は絵理華の許に引き取られた。
例え甥であろうと、若い女が自分で産んだのではない子を我が子として育てるのは、並々ならぬ覚悟が必要だったはずだ。当時大学を出て就職したばかりの絵理華は仕事と育児だけに全ての体力と気力を費やした。
恋もせず、遊びもせず、限りない愛と時間を義理の息子に注いだ。彼女は今日まで伴侶を持たず、己の人生の全てを息子に捧げたのだ。
それを母の愛と呼ばずして何と呼ぶ。
絵理華は龍翔を本当の子供のように愛し、彼もまた絵理華を本当の母親だと信じて疑わなかった。そう、彼は信じていたのだ。だからこそ、裏切られたと感じたのかもしれない。
女手一つで自分を育ててくれた、尊敬すべき母親が自分の本当の母親ではなかった。絵理華がそのことを伝えたのは、彼らが親子として巡り合ってからおよそ二十五年以上も経ってからだった。
「あの人は僕の本当のお母さんじゃなかった。それがどれだけショックだったか、あんたらに判るかい? 全部、全部偽物だったんだ。あの人と過ごした日々は、偽りの思い出だったんだ」
「育ての親であろうが、親は親だ。絵理華さんはあなたのことを実の息子のように愛している。だからこそ、あなたは今もこうして健康な体で生きていけてる。それは絵理華さんのおかげじゃあないんですか?」
「そんなことは関係ない。僕の汚されてしまった思い出はもうどうにもならない。どうせだったら、ずっと隠しておいて欲しかった」
「だから家を飛び出した……それが何の解決にもなっていないことは龍翔さん自身も判っているはずですが」
「いいや、なってますよ」
龍翔は不敵な笑みを見せた。それは相対する者に戦慄を覚えさせるような冷たい微笑だった。
「僕にとって、『お母さん』と過ごした日々はかけがえのない宝物でした。こうして目を閉じればその思い出が鮮明に浮かび上がってくる。二人で一緒に食べた、小さな小さなバースデーケーキ、二人で一緒に行った動物園、貧乏だったけど、とても幸福だった。僕は、あの輝かしい日々をもう一度体験したい」
「あんた、まさか」
猫子は声に怒気を含ませた。
「人は同じ人生を繰り返す。楽しいことも、辛いことも、寸分違わずね。もういい。これ以上、この悲しみを背負って生きていたくはない」
「てめぇっ」
今にも殴りかかりそうな剣幕で猫子が立ち上がったので、私は必至で彼女を抑えつけた。
「どうどう、ね、ねこさん、落ち着いて」
「そのためにこの教団に入ったんです。『絵理華叔母さん』にはよろしく言っておいてください。僕は近いうちに死ぬでしょう。そして、もう一度『絵理華お母さん』に会うんだ。何も知らない純真な頃に還って、また『絵理華お母さん』と生活するんです……」
無邪気に夢を語る少年のような瞳で彼は言った。
「母親を置いて、死ぬつもりか?」
「だから、あの人は『母親』じゃない。もういいですか」
龍翔が退室すると、嵐が去ったあとのような静けさが場を支配した。猫子は血が滲むほど下唇を噛み、龍翔が座っていたソファーを凝視していた。猫子がここまで感情を露にするのは珍しいことだった。
「ねこさん?」
前にも感じたことだが、猫子は今回の依頼に対して入れ込み過ぎているような気がする。思い切って訊いてみようとしたが、予想外のことがあって断念した。猫子が、なぜゆえか涙を流していたからだ。
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