第十一章  いざ快生へ

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 八月七日。この日はとてつもない猛暑日となった。

 日本各地で今年の最高気温が更新され、F**市は朝から三十五度を記録した。これは汗っかきな私にとって最悪の事態と言える。化粧も汗のせいで流れてしまうし、臭いも気になる。

 なるべく汗染みが目立たない服を選び、日傘を差して猫子の事務所に向かった。あまりの暑さにタクシーを呼ぼうか悩んだが、学生の懐事情はそんな甘えを許してはくれない。


「……暑い」


 一かけらの雲すらない澄み切った青空に、諸悪の根源である太陽が陣取っている。道行く人々も今日の暑さには参っているようで、皆大粒の汗を浮かべ、ゆでだこのように真っ赤になっていた。なるべく陽射しの当たらない場所を歩き、午前九時ジャストに私は百合川探偵事務所へ到着した。


「おはよう、ございます」

「おはよう……すごい汗だね」

 猫子はクーラーの効いた応接間でコンビニアイスを食べながら、教育テレビの子供向け番組を観ていた。彼女は珍妙な生物を見るような目を私に向けて、

「何、そんなに暑いの?」

「暑い、なんてもんじゃありませんよ。地獄ですよ、地獄。もう少しで私、完全に干からびちゃうとこでしたもん」

 私はクーラーの真下に立ち、火照った体を存分に冷やした。

「うひょー、涼しいー」

「そんなことしてたら風邪ひくよ……とりあえずシャワー浴びてきなよ」


 猫子の事務所に泊まり込むことがよくあるため、私はここに数日分の着替えや私物を置いている。彼女の言葉に甘えて浴室へ急いだ。

 汗を流し、新しい衣服に袖を通すと、先ほどまで私の体を覆っていた不快感は雲散霧消し、実に晴れ晴れとした気分になった。私の持ち込んだ食糧が大部分を占める冷蔵庫から麦茶を取り出し、水分もしっかり補給する。猫子がアイスを食べていたことを思い出し、私は声を投げた。


「ねこさーん、私もアイス食べていいですかー」

「一個だけだぞ」

「はーい」


 冷凍庫を埋め尽くすアイスの中から迷わずハーゲンダッツを選び取り、私は応接間に戻った。

 猫子はどこかそわそわしていた。というのも、今日はこれから快生教団G**支部へ乗り込むのだ。


 昨日、矢立警部から二回目の情報提供の電話があった。

 残念なことに、その内容は既知の情報の裏付けばかりで――それはそれで進展があったとみるべきなのだが――捜査が前進するほどの新情報は得られなかった。

 一応その中で重要な点について記しておくと、現場のビルの非常階段に関する税理士の証言がたしかなものであると証明されたのだ。現場のビルの非常階段は屋上から一階まで下りているのだが、階段を下った先にある扉が南京錠とチェーンによって厳重に封鎖されていたという。管理会社によると、過去に子供が悪戯目的で侵入したことが何度かあり、それを防ぐための処置のようである。


 防災という観点で考えると、非常口を外側から施錠するのは非常に危険な処置ではあるが、今回ばかりは事件の核となる要素の裏付けに役立った。つまり、これで税理士の証言が立証され、外部の人間が犯人であるという可能性は潰えたのである。被疑者は当時現場のビル内にいた快生教団信者だけに絞り込まれたのである。

 それ以外に得た情報と言えば新たに発掘された泉町智の過去の犯罪歴などである。これは聞いても胸糞悪くなるばかりなので省略させてもらう。


 捜査に目立った進展がないことから、猫子は終始ねちねちと矢立に小言をぶつけていたのだが、最後に彼がG**支部にアポを取り付けたと報告すると、その態度はオセロのようにひっくり返った。矢立を神と崇め、私がドン引きするほどへつらったのだ。

 そんなわけで、私はまたあの灼熱の空の下に戻らなければならない。束の間の休息である。


「龍翔さん、会ってくれますかね」


 事件当日の面談は険悪な空気を残して終わってしまった。あの時、猫子は龍翔の心に埋め込まれたをストレートに踏み抜いてしまったのだ。

 こちらの目的が彼の説得である以上、あれは悪手だったと言わざるを得ない。いや、そもそもあの時点では夏目絵理華・龍翔母子のを知らなかったのだから、猫子を一方的に責めることはできないのだけれど。


「事件の関係者の話を聞く、という体で今日はあそこに行くからね。会ってくれないということはないだろうけど」

「説得、できそうですか?」

「……」


 猫子は何も言わなかったが、その眼は決して諦めてはいなかった。いやむしろ、何が何でも龍翔を連れ出してやる、という強い意志を感じた。

 思い返してみれば、彼女は今回の依頼に対して妙に気合が入っているように思う。いったい何が彼女をここまで突き動かすのか。

 助手として猫子と付き合い始めてもう半年近くになるが、私は彼女のことを何も知らない。どのようなものに感動し、何に共感するのか。彼女がロリコンであることは彼女という人間を構成するほんの一要素に過ぎないのだ。


 私の知らない何かが、猫子をこの事件に執着させている……


 それからしばらく経って、警察の迎えの車がやってきた。それは白と黒で彩られたクラウンで、俗に言うパトカーである。

 私はこの世に生を受けてから、清く正しく生きてきた自信がある。「自分がされて嫌なことを人にするな」という人間社会の基本理念を馬鹿正直に守ってきた。そんな私だから、当然パトカーに乗るというのは初めての体験であり、それはとてつもない緊張を伴うものなのである。


「おはようございます。百合川先生、万野原さん」


 運転席にいたのは矢立警部の部下である野中のなか風太ふうた刑事だった。彼はK県警捜査一課の新人刑事でこれがまたなかなかのイケメンなのである。パーマを当てた茶髪に色気のあるたれ目、鼻筋は高く、ジャニーズでも十分に通用するだろう。

 私たちがいそいそと後部座席に乗り込むと、彼はさわやかな笑顔を作って助手席に置いてあるコンビニの袋に手を入れた。


「暑いですね、これどうぞ」

 野中はよく冷えたペットボトルのコーラを二本取り出すと私と猫子にそれぞれ手渡した。

「あ、ありがとうございます」

「さんきゅー」

「いえいえ、さあ早速行きましょう」


 野中はステアリングを握り、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。私たちを乗せたパトカーは路肩から車道に合流する。

 初めて見るパトカーからの景色はとても興味深いものだった。視界に入っているほとんどの車が制限速度を守り、安全運転を心がけている。律義に黄色信号で停車し、曲がるときは三十メートル近く前からウィンカーを出し、車間距離を三台分は空けていた。

 まるでオーナーの顔色を窺いながら抜き打ち監査を受けているレストランの店長のようだ。普段とは違う交通事情に、私は国家権力の強大さを感じた。三十分ほど走ると、パトカーはG**市に入った。


「矢立さんは?」

 猫子が訊くと、野中は前を見ながら、

「朝から本部長と打ち合わせです。なので、今日は僕がお二方のエスコートを担当します。至らぬ点があれば、おっしゃってくださいね」

「何か新情報はある?」

「いえ、残念ながら今のところ百合川先生のお耳に入れることができるほどものは挙がっていません」

「泉町さんの過去の詐欺事件の被害者についてはどうなんでしょう? 怨恨が理由の殺人事件なら、ここを調べれば一気に進展するんじゃないですか」

 私が割り込む。

「現在洗っている最中ですが、何しろ十年以上も前の事件ですので……今のところ、今回の事件の関係者の名前は見つかっていません。被害者の親族ではなく、親しかった友人や同僚という線もありますから。そうなるとかなり厳しいです」

「そうですか」

「全く別の動機ということは考えられないの?」

「現状、殺人にまで発展するほどの問題を抱えていたという証言はありません。金回りもよかったようですから、金銭面のトラブルでもないでしょう。ただ、周囲の人間から酒癖が悪かった、という証言はちらほら挙がっています。酔ったら性格が変わる典型的な例ですよ。暴力とまではいかなくとも、しらふの時とは言動や物腰が百八十度変わるそうです」

「あ、ねこさんも飲んだら変わりますよね。やたらくっついて甘えてきますし」

「今そんなことはどうでもいいんだよ。で、続きは?」


 猫子はコーラを一口飲み、野中を促した。


「しかし、あくまで酒の席での出来事ですからね。『あの人があんな下品なことを?』レベルの話だそうですし、飲み仲間は本部の信者ばかりだったようです。今回の事件の被疑者は全員G**支部の連中ですからね」

「ふぅん、じゃあ女性関係の方はどう?」

「それなんですが、泉町は特に親しくしている女性はいなかったようなんですよ。過去はどうだったかは判りませんが、少なくとも現在交際相手はいません。よって恋愛のもつれや愛憎の逆転といった線は消えます」

「快い人生を望むなら、恋愛なんてのは優先的に取り組むべきだと思うけどね。他に考えられる動機はなし、か」

「ねこさんも幼女のお尻ばっかり追いかけてないでちゃんと恋人を作らなきゃ」

「十代最後の夏を独り身で過ごしてるあんたに言われたかないよ」

「なっ!」

 私は猫子の二の腕を強めにつねった。

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